間瀬村(読み)まぜむら

日本歴史地名大系 「間瀬村」の解説

間瀬村
まぜむら

[現在地名]岩室村間瀬

弥彦やひこ角田かくだ山塊の西側、日本海に面する村。本村ほむら新村しむら高屋たかやの集落からなる。間瀬街道が東の石瀬いしぜ村へ通る。近世には三島さんとう郡に属した。寛正六年(一四六五)正月一〇日の小山清安安堵状写(高橋文書)に「間瀬・白岩・高屋三ケ村の塩之事」とみえ、前例に任せ毎年弥彦神社の高橋社家の徴収を安堵するとある。

近世に入ると三条藩稲垣氏領となり、元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)では高一一〇石八斗余。慶安二年(一六四九)村上藩領となり、貞享元年(一六八四)の同藩領分郷村高辻帳では高五二石一斗余。宝永六年(一七〇九)幕府領となる。正徳元年(一七一一)高田藩領、寛保元年(一七四一)陸奥白河藩領、文政六年(一八二三)以降伊勢桑名藩領。幕末には高一五三石四斗余となっている。明暦三年(一六五七)検地帳(鳳気至家文書)によれば田一町九反五畝余・新田三町六反一畝余・畑一九町七反二畝余、屋敷名請人一一九人。また名子三七人が記され、うち二二人は屋敷のみ保有し耕地をもたない。同年の村絵図(同文書)では家数は本村八五・新村一四六・高屋一七とある。新村はもとなか村と称され、天正(一五七三―九二)から慶長(一五九六―一六一五)にかけて北陸からの移住者が相次いで人口が増えたという。


間瀬村
まぜむら

[現在地名]山北町間瀬

立島たてしま(現勝木川)河口近くの左岸にあり、対岸勝木がつぎ村。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大川分つぎ村之葉まぜ村 中」とみえ、本納三石二斗五升・縄高一三石四升、家五軒とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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