関ケ原の戦い

  • せきがはら
  • せきがはらのたたかい
  • の 戦(たたか)い
  • 関ケ原

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

慶長5(1600)年9月15日、徳川家康が率いる東軍と、石田三成西軍が戦った。東西合わせて15万人以上の軍勢がいたとされ、濃霧のなか、午前8時ごろに戦いが始まった。当初は西軍が優位だったが、西軍・小早川秀秋の大軍約1万5千人の裏切りなどで、約6時間にわたる戦いは東軍の勝利に終わった。死者両軍合わせて6千人や8千人などのがある。関ケ原古戦場には戦国武将の陣跡などがあり、一部は国の史跡に指定されている。

(2015-06-19 朝日新聞 朝刊 岐阜全県・1地方)

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精選版 日本国語大辞典の解説

[一] 慶長五年(一六〇〇)九月一五日美濃関ケ原で、徳川家康の東軍と石田三成を中心とする西軍とが天下を争った戦い。東軍が大勝し、その結果豊臣秀頼は摂津・河内・和泉六五万石の大名に転落し、徳川氏の政権が確立。関ケ原の役。
[二] (比喩的に) 天下分け目の戦い。

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

1600(慶長5)年,美濃関ケ原で行われた徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)の“天下分け目の戦い”
1598年の豊臣秀吉死後天下声望は五大老の一人家康に帰し,実権を握りつつあった。五奉行の一人三成らは家康を除こうとし,五大老の一人上杉景勝が会津若松挙兵。石田・島津・毛利らは大垣から関ケ原に向かう途中東軍と衝突し,激戦の末敗北。三成・小西行長らは処刑され,豊臣秀頼は一大名転落徳川氏覇権確立した。

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