安土桃山時代の武将。初名三也,通称佐(左)吉。近江坂田郡石田村の出身。父を正継,兄を正澄という。羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜を領していたころ認められ15,16歳で近侍となり,側近の吏僚として働き,1585年(天正13)秀吉の関白就任に際し従五位下治部少輔に叙任,翌年堺の奉行を兼ね,やがて浅野長政,増田長盛,長束正家,前田玄以など豊臣氏直属吏僚の中でも随一の奉行と目されるようになった。87年の島津征伐では秀吉に従い博多の復興を指揮し,島井宗室・神屋宗湛ら豪商と親交を深めた。90年の小田原征伐および奥羽平定ではみずから戦闘の指揮をとったが,武蔵忍(おし)城攻略の失敗にみられるように成果はなかった。むしろ彼の特質は兵站(へいたん)の掌握や民政の実施,服属大名との折衝などにらつ腕を振るうところにあった。92年(文禄1)朝鮮出兵が開始されると舟奉行として名護屋に駐留し,秀吉の朝鮮渡海を主張したが,それが中止されると,代官として増田長盛,大谷吉継などとともに渡海し,前線の諸軍を監察し,明軍と交戦し,戦況を見定め講和論を支持し,93年明の講和使を伴って帰還した。しかし朝鮮での行動は一部武断派諸将の反感を高めた。95年関白豊臣秀次が失脚自殺し,やがて五大老五奉行制が敷かれると三成は五奉行の一員として大坂城に居し,秀吉の死後九州に赴いて朝鮮からの将兵の撤収に尽力した。一方,豊臣秀頼による集権的支配体制を擁護するため前田利家や毛利輝元に接近し,豊臣氏と実力が伯仲する徳川氏の行動には警戒を緩めなかったが,家康が豊臣氏の制法に違背するに及んで99年(慶長4)これを糾弾した。しかし加藤清正・黒田長政ら7将に排除されて佐和山に隠退,そして反徳川勢力を結集して挙兵したが1600年9月美濃関ヶ原の戦に敗れ,逃走中捕縛されて10月1日京都三条河原で処刑された。墓所は大徳寺三玄院。
三成の領知は1591年与えられた近江佐和山19万石余にすぎないが,近江・美濃のほか島津氏領内や佐竹氏領内に設置された豊臣氏蔵入地代官を兼ね,また秀吉の申次(もうしつぎ)を行ったため服属大名の間に隠然たる勢力を持った。そこで後世諸氏に対する三成の策謀説が唱えられたが,確証は乏しいといわれる。彼の業績の中で最も顕著なものはいわゆる太閤検地の推進であろう。1584年の近江今在家村検地以来,89年美濃,90年奥羽,93年越後,94年薩摩・大隅・日向・常陸・磐城・下野の太閤検地を担当したが,とくに島津氏領内の検地に際して彼が丈量の規準として作成した検地尺や検地の掟は,太閤検地の実体を示すものとして貴重である。また96年制定の蔵入地および給人地に関する掟,翌年の麦年貢の掟は豊臣氏の農民支配に関する法令としても重視される。三成は性格が傲慢で諸大名に対して横柄であったといい,監察的職責の遂行とあいまって諸氏の反感を買い人望を失ったため政治家としては大成しなかったが,人材を登用し,茶の湯をたしなみ,文事を解する当時第一級の武将であり,かつ豊臣氏に忠実な能吏であった。
執筆者:岩沢 愿彦
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(林屋辰三郎)
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安土(あづち)桃山時代の武将。幼名は佐吉、初名は三也。近江(おうみ)国坂田郡石田村(滋賀県長浜市)の出身。正継の子。豊臣(とよとみ)秀吉の長浜城主時代にその俊敏さを認められ、近侍として仕えた。中国征伐、山崎の戦いにも従い、さらに賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに軍功を著し、1585年(天正13)秀吉が関白(かんぱく)になると、諸大夫12人のなかに選ばれて従(じゅ)五位下(げ)、治部少輔(じぶしょう)に叙任された。その後、秀吉の全国統一事業が進むなかで、股肱(ここう)の臣として枢機に参画し、太閤(たいこう)検地の実施の中心ともなった。大坂築城ののち、隣接の重要経済都市である堺(さかい)の奉行(ぶぎょう)も兼ねた。九州征伐には兵站(へいたん)のことをつかさどり、小田原征伐では関東の諸城の攻略にあたり、さらに陸奥(むつ)に進んで諸大名の所領替えなどを処理し、一揆(いっき)の鎮圧にもあたった。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では名護屋(なごや)本営の設営、兵站、交通路の確保・整備にあたり、また奉行として渡海した。三成は武将ではあるが、その本領はむしろ吏務に長じ、五奉行随一の実力者として政務の処理にあたった。95年(文禄4)近江佐和山(さわやま)城主となり、江北で19万石余を領した。三成が所領内の民政に留意したことは著名である。秀吉の死後、徳川家康の勢威が高まるに及んで、毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)らと謀って家康に対抗し、1600年(慶長5)9月美濃(みの)関ヶ原に戦ったが、小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りによって敗北、ついに捕らえられて、10月1日京都六条河原で処刑された。
[橋本政宣]
『今井林太郎著『石田三成』(1961・吉川弘文館)』
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1560~1600.10.1
織豊期の武将。父は正継。近江国石田村生れ。早くから豊臣秀吉に仕え,秀吉の奉行として活躍。1586年(天正14)堺政所(まんどころ)を勤め,小田原攻め・朝鮮出兵などに功があった。豊臣政権の中枢にあり,軍需品輸送や行政・外交政策にその手腕を発揮した。とくに太閤検地に参画し,現在,島津家に三成署判の検地尺が残る。95年(文禄4)近江国佐和山城主となり19万4000石を領有。近江国内の豊臣蔵入地代官も兼任。秀吉死後,徳川家康に対抗して挙兵。1600年(慶長5)関ケ原の戦で敗走。近江で捕らえられ,小西行長らとともに京都で処刑。
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…1598年(慶長3)7月ごろ豊臣秀吉の死を前にして設置された。前田玄以,浅野長政,増田(ました)長盛,石田三成,長束(なづか)正家の五名で構成される。豊臣氏の奉行は政権の樹立以来存在し,初期の奉行には桑原貞也,杉原家次,細井方成,石田三也(成),増田長盛,大谷吉継,伊藤秀盛など多くの人名を挙げることができる。…
…1600年(慶長5)9月,徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍が美濃関ヶ原で行った合戦。全国のほとんどの大名がまき込まれたこの合戦に勝ったことで,家康は事実上全国の支配者となり,さらに3年後に征夷大将軍となったので,〈天下分け目の戦〉ともいわれる。…
※「石田三成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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