石田三成(読み)イシダミツナリ

デジタル大辞泉 「石田三成」の意味・読み・例文・類語

いしだ‐みつなり【石田三成】

[1560~1600]安土桃山時代の武将。近江おうみの人。幼名、佐吉。豊臣秀吉に才知を認められて五奉行の一人となり、太閤検地など内政面に活躍。文禄4年(1595)近江佐和山城主となり19万4千石を領したが、秀吉の死後、関ヶ原の戦い徳川家康に敗れ、処刑された。

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精選版 日本国語大辞典 「石田三成」の意味・読み・例文・類語

いしだ‐みつなり【石田三成】

  1. 安土桃山時代の武将。近江の人。幼名佐吉。治部少輔と称する。豊臣秀吉に仕え、五奉行の一人として、特に太閤(たいこう)検地など、行政面に実績をあげ、近江佐和山城主に封ぜられる。秀吉の死後、反徳川勢の中心となるが、関ケ原の戦で敗れ、処刑された。永祿三~慶長五年(一五六〇‐一六〇〇

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改訂新版 世界大百科事典 「石田三成」の意味・わかりやすい解説

石田三成 (いしだみつなり)
生没年:1560-1600(永禄3-慶長5)

安土桃山時代の武将。初名三也,通称佐(左)吉。近江坂田郡石田村の出身。父を正継,兄を正澄という。羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜を領していたころ認められ15,16歳で近侍となり,側近の吏僚として働き,1585年(天正13)秀吉の関白就任に際し従五位下治部少輔に叙任,翌年堺の奉行を兼ね,やがて浅野長政,増田長盛,長束正家,前田玄以など豊臣氏直属吏僚の中でも随一の奉行と目されるようになった。87年の島津征伐では秀吉に従い博多の復興を指揮し,島井宗室・神屋宗湛ら豪商と親交を深めた。90年の小田原征伐および奥羽平定ではみずから戦闘の指揮をとったが,武蔵忍(おし)城攻略の失敗にみられるように成果はなかった。むしろ彼の特質は兵站(へいたん)の掌握や民政の実施,服属大名との折衝などにらつ腕を振るうところにあった。92年(文禄1)朝鮮出兵が開始されると舟奉行として名護屋に駐留し,秀吉の朝鮮渡海を主張したが,それが中止されると,代官として増田長盛,大谷吉継などとともに渡海し,前線の諸軍を監察し,明軍と交戦し,戦況を見定め講和論を支持し,93年明の講和使を伴って帰還した。しかし朝鮮での行動は一部武断派諸将の反感を高めた。95年関白豊臣秀次が失脚自殺し,やがて五大老五奉行制が敷かれると三成は五奉行の一員として大坂城に居し,秀吉の死後九州に赴いて朝鮮からの将兵の撤収に尽力した。一方,豊臣秀頼による集権的支配体制を擁護するため前田利家や毛利輝元に接近し,豊臣氏と実力が伯仲する徳川氏の行動には警戒を緩めなかったが,家康が豊臣氏の制法に違背するに及んで99年(慶長4)これを糾弾した。しかし加藤清正・黒田長政ら7将に排除されて佐和山に隠退,そして反徳川勢力を結集して挙兵したが1600年9月美濃関ヶ原の戦に敗れ,逃走中捕縛されて10月1日京都三条河原で処刑された。墓所は大徳寺三玄院。

 三成の領知は1591年与えられた近江佐和山19万石余にすぎないが,近江・美濃のほか島津氏領内や佐竹氏領内に設置された豊臣氏蔵入地代官を兼ね,また秀吉の申次(もうしつぎ)を行ったため服属大名の間に隠然たる勢力を持った。そこで後世諸氏に対する三成の策謀説が唱えられたが,確証は乏しいといわれる。彼の業績の中で最も顕著なものはいわゆる太閤検地の推進であろう。1584年の近江今在家村検地以来,89年美濃,90年奥羽,93年越後,94年薩摩・大隅・日向・常陸・磐城・下野の太閤検地を担当したが,とくに島津氏領内の検地に際して彼が丈量の規準として作成した検地尺や検地の掟は,太閤検地の実体を示すものとして貴重である。また96年制定の蔵入地および給人地に関する掟,翌年の麦年貢の掟は豊臣氏の農民支配に関する法令としても重視される。三成は性格が傲慢で諸大名に対して横柄であったといい,監察的職責の遂行とあいまって諸氏の反感を買い人望を失ったため政治家としては大成しなかったが,人材を登用し,茶の湯をたしなみ,文事を解する当時第一級の武将であり,かつ豊臣氏に忠実な能吏であった。
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朝日日本歴史人物事典 「石田三成」の解説

石田三成

没年:慶長5.10.1(1600.11.6)
生年:永禄3(1560)
安土桃山時代の武将。幼名三也,通称佐吉。正継の子で正澄の弟。近江国(滋賀県)坂田郡石田村の出自。羽柴(豊臣)秀吉の長浜領主時代,15,6歳で近侍したと推定される。官は治部少輔,従五位下から従四位下に昇る。本能寺の変後,山崎合戦(1582),賤ケ岳の戦(1583)に従軍,天正13(1585)年秀吉の関白任官に伴い12人の諸大夫の内に入り直属吏僚として頭角を顕わす。翌年堺奉行。15年の島津征討では従軍し兵站の任に当たるとともに博多の復興に努め,島井宗室,神屋宗湛らと親交を結んだ。天正18年以降の関東奥州征服では成田氏長の守る武蔵忍城攻めに失敗し,軍事の不得手を表した。なお千利休切腹事件では利休の娘を炮責めにした記録があり,三成を利休排斥の黒幕とする説もある。天正19年近江佐和山城主,21万石を領す。翌文禄1(1592)年の朝鮮出兵では舟奉行として名護屋(佐賀県鎮西町)に駐屯,秀吉渡海を主張したが,それが正親町上皇の諭止で中止されると自身代官として朝鮮に渡り,増田長盛,大谷吉継らと明国との和平交渉に当たる。文禄4(1595)年豊臣秀次事件では残忍な追及側に立ち,五奉行の一員に任じた。慶長2(1597)年再び朝鮮に遠征軍が派遣されたが(慶長の役),翌年8月秀吉の死後博多において派遣軍の撤収事務に当たる。この間,加藤清正,黒田長政ら武人派との対立を生じ,慶長4年,加藤,黒田ら7人の武将の襲撃を受けるが,徳川家康にかくまわれて難をのがれ佐和山に逼塞。慶長5年,上杉家老臣直江兼続と結んで家康の東下を誘い,大垣城に出て関西の豊臣方の武将らを集め,毛利輝元を盟主に家康に反旗をひるがえし9月15日に天下分け目の関ケ原の戦を挑んだ。初め優勢であった西軍だが,小早川秀秋の内応で総崩れとなり,三成は逃れようとしたが,近江伊香郡古橋村(木之本町)で捕らえられ,六条河原で処刑された。検地尺や検地条目制定にみられる如く,秀吉家中屈指の能吏であり,文化的に高い教養を持った人物であったが,性酷薄で苛察を好み,人望を失った。<参考文献>渡辺世祐『稿本 石田三成』,今井林太郎『石田三成』

(林屋辰三郎)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石田三成」の意味・わかりやすい解説

石田三成
いしだみつなり
(1560―1600)

安土(あづち)桃山時代の武将。幼名は佐吉、初名は三也。近江(おうみ)国坂田郡石田村(滋賀県長浜市)の出身。正継の子。豊臣(とよとみ)秀吉の長浜城主時代にその俊敏さを認められ、近侍として仕えた。中国征伐、山崎の戦いにも従い、さらに賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに軍功を著し、1585年(天正13)秀吉が関白(かんぱく)になると、諸大夫12人のなかに選ばれて従(じゅ)五位下(げ)、治部少輔(じぶしょう)に叙任された。その後、秀吉の全国統一事業が進むなかで、股肱(ここう)の臣として枢機に参画し、太閤(たいこう)検地の実施の中心ともなった。大坂築城ののち、隣接の重要経済都市である堺(さかい)の奉行(ぶぎょう)も兼ねた。九州征伐には兵站(へいたん)のことをつかさどり、小田原征伐では関東の諸城の攻略にあたり、さらに陸奥(むつ)に進んで諸大名の所領替えなどを処理し、一揆(いっき)の鎮圧にもあたった。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では名護屋(なごや)本営の設営、兵站、交通路の確保・整備にあたり、また奉行として渡海した。三成は武将ではあるが、その本領はむしろ吏務に長じ、五奉行随一の実力者として政務の処理にあたった。95年(文禄4)近江佐和山(さわやま)城主となり、江北で19万石余を領した。三成が所領内の民政に留意したことは著名である。秀吉の死後、徳川家康の勢威が高まるに及んで、毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)らと謀って家康に対抗し、1600年(慶長5)9月美濃(みの)関ヶ原に戦ったが、小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りによって敗北、ついに捕らえられて、10月1日京都六条河原で処刑された。

[橋本政宣]

『今井林太郎著『石田三成』(1961・吉川弘文館)』


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百科事典マイペディア 「石田三成」の意味・わかりやすい解説

石田三成【いしだみつなり】

安土桃山時代の武将。豊臣政権五奉行の一人。幼名佐吉(さきち)。幼少より豊臣秀吉に仕え,1583年の賤ヶ岳の戦の功により重用され,九州征伐や文禄・慶長の役などに出陣。一方民政面に才能を認められ,軍需品輸送,太閤検地の施行などに才腕をふるう。1590年(1595年とも)近江(おうみ)佐和山城主として18万石(19万余石とも)を領する。秀吉の死後徳川家康と対立,関ヶ原の戦で敗れ斬首。
→関連項目おあむ物語佐和山細川ガラシャ前田玄以

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石田三成」の意味・わかりやすい解説

石田三成
いしだみつなり

[生]永禄3(1560).近江
[没]慶長5(1600).10.1. 京都
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人。治部少輔。初名三也,通称佐吉,本名宗成。父は正継。近江坂田郡石田村の人。 13歳のとき豊臣秀吉に仕え,側近として厚い信任を受けた。天正 11 (1583) 年賤ヶ岳の戦いに軍功があり,同 13年秀吉が関白になると,諸大夫 12人のなかに選ばれ従五位下,治部少輔。これより特に重用され,さらに枢機に参与するようになった。同 15年の九州征伐の際には長束正家とともに兵站を受持ち,島津義久の降伏後は,博多の復興のために尽力した。同 18年の小田原征伐の際にも忍城の水攻めなどで活躍し,また文禄・慶長の役にも出陣し,軍需品輸送,占領政策にも才能を発揮した。太閤検地に際しては長束正家,浅野長政らとともにその中心的な役割を果した。所領は初め近江国水口4万石であったが,文禄4 (95) 年には同国佐和山 18万石の城主となり,さらに秀吉直轄領7万石の代官となった。秀吉の死後,徳川家康の勢力の増大をおそれ,慶長5 (1600) 年関ヶ原に家康と戦って敗れ (→関ヶ原の戦い ) ,捕われて京都六条河原において斬首された。彼は常に民政に留意,『石田三成条目』を出している。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石田三成」の解説

石田三成 いしだ-みつなり

1560-1600 織豊時代の武将。
永禄(えいろく)3年生まれ。石田正澄の弟。羽柴(豊臣)秀吉の近侍をつとめ,のち治部少輔(じぶのしょう)。知将として秀吉の全国制覇の戦いにしたがう。軍事よりも内政や吏務にすぐれ,堺奉行をかね,太閤検地を実施して,五奉行の筆頭となる。文禄4年近江(おうみ)(滋賀県)佐和山城主。19万石。秀吉の死後,徳川家康と対立し,関ケ原の戦いに敗れて捕らえられ,慶長5年10月1日京都で斬られた。41歳。近江出身。初名は三也。通称は佐吉。
【格言など】万が一も家康うろたへ上候はば,尾州三州之間にて可討果儀(討ち果たすべき儀),案中(あんちゅう)に候

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「石田三成」の解説

石田三成
いしだみつなり

1560~1600.10.1

織豊期の武将。父は正継。近江国石田村生れ。早くから豊臣秀吉に仕え,秀吉の奉行として活躍。1586年(天正14)堺政所(まんどころ)を勤め,小田原攻め・朝鮮出兵などに功があった。豊臣政権の中枢にあり,軍需品輸送や行政・外交政策にその手腕を発揮した。とくに太閤検地に参画し,現在,島津家に三成署判の検地尺が残る。95年(文禄4)近江国佐和山城主となり19万4000石を領有。近江国内の豊臣蔵入地代官も兼任。秀吉死後,徳川家康に対抗して挙兵。1600年(慶長5)関ケ原の戦で敗走。近江で捕らえられ,小西行長らとともに京都で処刑。

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旺文社日本史事典 三訂版 「石田三成」の解説

石田三成
いしだみつなり

1560〜1600
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人
近江(滋賀県)の出身。幼児より豊臣秀吉に近侍,累進し治部少輔に叙任。政務に長じ,太閤検地の中心となり活躍した。文吏派大名の中心人物で,秀吉死後,徳川家康を除こうとし,関ケ原の戦いをおこしたが敗れ,京都で斬首された。

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世界大百科事典(旧版)内の石田三成の言及

【五奉行】より

…1598年(慶長3)7月ごろ豊臣秀吉の死を前にして設置された。前田玄以浅野長政増田(ました)長盛石田三成長束(なづか)正家の五名で構成される。豊臣氏の奉行は政権の樹立以来存在し,初期の奉行には桑原貞也,杉原家次,細井方成,石田三也(成),増田長盛,大谷吉継,伊藤秀盛など多くの人名を挙げることができる。…

【関ヶ原の戦】より

…1600年(慶長5)9月,徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍が美濃関ヶ原で行った合戦。全国のほとんどの大名がまき込まれたこの合戦に勝ったことで,家康は事実上全国の支配者となり,さらに3年後に征夷大将軍となったので,〈天下分け目の戦〉ともいわれる。…

※「石田三成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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