改訂新版 世界大百科事典 「陳友諒」の意味・わかりやすい解説
陳友諒 (ちんゆうりょう)
Chén Yǒu liàng
生没年:1321ころ-63
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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中国、元(げん)末群雄の1人。沔陽(べんよう)(湖北省)の人。漁夫の子に生まれたが、読書をよくし、初め県の小役人となった。しかし性にあわず、1351年徐寿輝(じょじゅき)が反乱を起こすとそのもとに走り、彼の部将倪文俊(げいぶんしゅん)の書記役となった。その後しばしば戦功をたてて勢力を得、元帥に進み、のち倪を倒してその兵力をあわせると自立した。さらに60年には徐寿輝をも殺して自ら帝を称し、「大漢(だいかん)」国を建てた。彼は江州(江西省九江)に都して、一時は江西、湖南、湖北、安徽(あんき)西部を勢力下に入れ、当時南京(ナンキン)を本拠に勢力を拡大しつつあった朱元璋(しゅげんしょう)(明(みん)の太祖)の呉国と抗争を繰り返したが、63年鄱陽(はよう)湖の決戦に敗れて戦死した。
[谷口規矩雄]
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…唐・宋以降,広州の都市としての繁栄にともない,広州と北方を結ぶルートとして,広州より嶺南を越え贛江を下って長江に至るルートが,きわめて重要な役割を果たすようになり,このルートに沿う地域が一つの行政領域にまとめられたといえる。元末には,北方の紅巾軍の反乱に呼応した活動の拠点となり,特に陳友諒が江州(九江)によって独立国を建てたのはよく知られる。しかしこの戦略的位置の利用を誤った陳友諒は,後続の朱元璋に敗北を喫する。…
※「陳友諒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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