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陳友諒 ちんゆうりょうChen You-liang; Ch`ên Yu-liang

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

陳友諒
ちんゆうりょう
Chen You-liang; Ch`ên Yu-liang

[生]延祐3(1316).湖北,べん陽
[没]至正23(1363).江西,陽湖
中国,元末の群雄の一人。漁夫の子に生れ,初め小役人となったが,白蓮教徒 (→白蓮教 ) の徐寿輝が兵を起すと,その部将倪 (げい) 文俊に投じ,書記から元帥に進んだ。のち倪文俊を倒してその兵を合せ,さらに徐寿輝をも殺して大漢国皇帝と称した。しかし朱元璋 (→洪武帝 ) と 鄱陽湖上で戦って敗死した。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちんゆうりょう【陳友諒 Chén Yŏu liàng】

1321ころ‐63
中国,元末群雄の一人。沔陽(べんよう)(湖北省)の漁家に生まれ,県の小役人となったが,のち徐寿輝の天完国に参加し,1357年(至正17)直属の長倪文俊をたおして実権を握り,その勢力は江西一帯から福建,浙江におよんだ。60年徐寿輝を殺し江州を都に大漢国をたて皇帝となったが,朱元璋(明の太祖)との数度にわたる覇権争いの末,63年鄱陽(はよう)湖の戦で敗死した。子の陳理が位をついだが,64年朱元璋に下り,大漢国は滅んだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

陳友諒
ちんゆうりょう
(1316―1363)

中国、元(げん)末群雄の1人。(べんよう)(湖北省)の人。漁夫の子に生まれたが、読書をよくし、初め県の小役人となった。しかし性にあわず、1351年徐寿輝(じょじゅき)が反乱を起こすとそのもとに走り、彼の部将倪文俊(げいぶんしゅん)の書記役となった。その後しばしば戦功をたてて勢力を得、元帥に進み、のち倪を倒してその兵力をあわせると自立した。さらに60年には徐寿輝をも殺して自ら帝を称し、「大漢(だいかん)」国を建てた。彼は江州(江西省九江)に都して、一時は江西、湖南、湖北、安徽(あんき)西部を勢力下に入れ、当時南京(ナンキン)を本拠に勢力を拡大しつつあった朱元璋(しゅげんしょう)(明(みん)の太祖)の呉国と抗争を繰り返したが、63年(はよう)湖の決戦に敗れて戦死した。[谷口規矩雄]

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世界大百科事典内の陳友諒の言及

【江西[省]】より

…唐・宋以降,広州の都市としての繁栄にともない,広州と北方を結ぶルートとして,広州より嶺南を越え贛江を下って長江に至るルートが,きわめて重要な役割を果たすようになり,このルートに沿う地域が一つの行政領域にまとめられたといえる。元末には,北方の紅巾軍の反乱に呼応した活動の拠点となり,特に陳友諒が江州(九江)によって独立国を建てたのはよく知られる。しかしこの戦略的位置の利用を誤った陳友諒は,後続の朱元璋に敗北を喫する。…

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