雑色村(読み)ぞうしきむら

日本歴史地名大系 「雑色村」の解説

雑色村
ぞうしきむら

[現在地名]港南区笹下ささげ四―七丁目

東はせき村、西は宮下みやした村、南は田中たなか村・矢部野やべの(現磯子区)、北は松本まつもと村・吉原よしわら村。大岡おおか川の上流、しん(笹下川)は田中村から関村に続く。東部の金沢かねさわ道は関村から田中村に達する。その中ほどから東に分岐する道があり、関村から森公田もりくでん(現磯子区)へ森道が通ずる。中世は松本・関とともに杉田すぎた郷と称した(→関村正保国絵図下郷しもごう村、元禄国絵図に下郷雑色村とある。

近世は寛文二年(一六六二)から九年の久世(のち下総関宿藩)領、元禄五年(一六九二)から七年の柳沢(のち大和郡山藩)領を除き幕府直轄領。


雑色村
ぞうしきむら

[現在地名]中野区南台みなみだい一―五丁目・弥生町やよいちよう一―六丁目・本町ほんちよう三―五丁目など

豊島郡との境の村で、東から北は本郷ほんごう村、南は豊島郡幡ヶ谷はたがや(現渋谷区)。村の北東の小名川島に私領の、中央部の小名本村に幕府領の高札場がある(風土記稿)。田園簿によると田方八八石余・畑方九九石余、支配は幕府領六三石余・旗本佐々領七七石余・同新見領四七石余、ほかに永六六四文の野銭を幕府、米五俵余の野米を佐々氏、米三俵余の野米を新見氏に納める。


雑色村
ぞうしきむら

[現在地名]中井町雑色

北を中村なかむら川が流れ、東は比奈窪ひなくぼ村、西と南は半分形はぶかた村、北は松本まつもと村・鴨沢かもざわ村に接する。正保国絵図に村名が載る。「永代日記」承応三年(一六五四)三月五日条に「ぞう敷村」とある。

近世は初め旗本曲淵領、元和九年(一六二三)幕府直轄領、寛永九年(一六三二)より小田原藩領(宝永五年―天明三年幕府直轄領)。享保一〇年(一七二五)の村明細帳によれば田四町三反余、畑一五町三反余。諸役として漆六八五匁を納め、農間には薪を伐り国府津こうづ(現小田原市)へ売出す。承応三年に隠田をめぐって庄屋が藩に訴えを起こし、かえって農民一同が庄屋の悪事を申出たため、郡奉行目付・代官が吟味のうえ、庄屋・組頭・農民二人が入牢、組頭のみが助命のうえ所払い闕所となる(「永代日記」同年三月一日・三日、五月一五日条)


雑色村
ぞうしきむら

[現在地名]大田区仲六郷なかろくごう二丁目・東六郷ひがしろくごう二丁目・南六郷みなみろくごう一―三丁目

町屋まちや村・八幡塚はちまんづか村の東、六郷川(多摩川)左岸沿いの低地に立地。西方東海道が通る。田園簿に村名がみえ、田方一一四石余・畑方三三石余、ほかに見取場の田八反余・畑五町七反余があり、すべて幕府領。元禄一〇年(一六九七)の検地帳写(川田家文書)によると高二六二石余、うち田方二四町二反余・高一三三石余、畑方二四町三反余・高一二九石余、ほかに藪一反余(永八文)・萱原一町五反余(永四七文)があった。「風土記稿」によれば家数六二。畑地が多く、六郷川の崖地に付洲芝地がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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