日本大百科全書(ニッポニカ) 「雪荷派」の意味・わかりやすい解説
雪荷派
せっかは
弓術流派の一つで、吉田流本系吉田重政(しげまさ)の四男(二男・三男とも)吉田重勝(しげかつ)(1512―1590)を祖とする。重勝は元定六左衛門(もとさだろくざえもん)と称し、雪荷と号した。祖父重賢(しげかた)・父重政から日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)以来の正統吉田流を学び、弓の天分に恵まれ幼少より抜群の力を発揮し、18歳のときには足利義晴(あしかがよしはる)に拝謁し弓場始(ゆばはじめ)式を行ったという。しかし時の政争に巻き込まれないよう特定の主に奉仕せず、京都に住み弓術の研鑽(けんさん)に努める一方、蒲生氏郷(がもううじさと)・秀行(ひでゆき)親子、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、羽柴秀長(はしばひでなが)・秀次(ひでつぐ)、細川藤孝(ふじたか)(幽斎(ゆうさい))などの当時の著名な武将の弓の師として活躍した。
弓術家として名を馳(は)せた伴道雪(ばんどうせつ)(道雪派の祖)や森刑部(もりぎょうぶ)もその薫陶を受けた。また重勝は弓村(ゆみむら)(弓を削って勢を調整すること)の名人として有名である。雪荷派は嫡男元尚(もとなお)が藤堂高虎(とうどうたかとら)に従い伊勢(いせ)津に、次男元敏が蒲生氏郷に奉仕し会津に、さらに同派の高弟たちの手により弘前(ひろさき)、伊達(だて)、古河(こが)、伊勢、三河、相模(さがみ)などに伝播(でんぱ)した。
[入江康平]