日本大百科全書(ニッポニカ) 「道雪派」の意味・わかりやすい解説
道雪派
どうせつは
雪荷(せっか)派から分派した弓術の一派で、伴道雪(ばんどうせつ)を流祖とする。道雪は一安(かずやす)、通称喜左衛門(きざえもん)と称した。近江(おうみ)の豪族佐々木氏の一族であるという説や京都建仁寺(けんにんじ)の小法師であったという説があるが、その出自は定かでない。道雪は早くから雪荷に師事し、1588年(天正16)雪荷派の唯授一人を相承した。また雪荷から一子六蔵が幼弱であったため同派継承の要請を受けたが、一子相伝の重要性を説き断った。そして雪荷から道雪派をたてることを許され丹後(たんご)田辺(たなべ)の細川藤孝(ふじたか)(幽斎(ゆうさい))に奉仕し弓術の指導にあたった。その後同地を辞し廻国(かいこく)修業を重ねたのち尾張(おわり)清洲(きよす)の松平忠吉(ただよし)(徳川家康の四男)に仕え、さらに大和郡山(やまとこおりやま)に禄仕(ろくし)し命脈を保った。1621年(元和7)没。
道雪派からは道雪の養子であった京都山科(やましな)の関一安(せきかずやす)や会津の加須屋左近(かすやさこん)、江戸の間宮信吉など多くの名射手が輩出し、浜田、尼崎(あまがさき)、高槻(たかつき)、会津若松、盛岡、鳥取、広島浅野、近江膳所(ぜぜ)、武蔵(むさし)忍(おし)、村上内藤、高遠(たかとお)内藤、山形秋元、熊本など全国各地に伝播(でんぱ)し定着した。
[入江康平]