日本の城がわかる事典 「須賀川城」の解説 すかがわじょう【須賀川城】 福島県須賀川市にあった平山城(ひらやまじろ)。同城は釈迦堂川を見下ろす台地の頂上に築かれた本丸を中心に、東に二の丸、北に三の丸を配した縄張りで、現在の同市市街の中心部を城域としていた。南北朝時代の1339年(暦応2/延元4)、鎌倉公方の足利満兼が奥州支配強化のために派遣したた二階堂行続によって築城されたという記録(野川本『藤葉栄衰記』)がある。二階堂氏はこの城を拠点に勢力を広げたが、黒川城(のちの若松城、同県会津若松市)を拠点とする蘆名氏にたびたび攻められ、二階堂盛義(もりよし)が当主(城主)をつとめていた1565年(永禄8)に人質を出して和睦し、以後、蘆名氏との関係を深めた。盛義のあとを継いだ二階堂行親(ゆきちか)が若くして死去したため、盛義の未亡人で伊達政宗(まさむね)の伯母にあたる阿南の方(大乗院)が城主となったが、伊達政宗の降伏勧告を拒否したため、1589年(天正17)、会津の蘆名氏を破り滅亡させた政宗に攻められ落城した。日本三大火祭りの一つとされる同市の松明(たいまつ)あかしは、この時の戦いを由来としている。政宗は一族の石川昭光に須賀川城を与えたが、翌1590年(天正18)の豊臣秀吉の奥州仕置により蒲生氏郷(がもううじさと)の属城となり、さらに、その後間もなく会津に国替えになった上杉景勝の城となった。関ヶ原の戦いの1年後の1601年(慶長6)、再び会津領を拝領した蒲生氏の城となり、次いで会津藩主となった加藤嘉明の時代に廃城となった。現在本丸跡には二階堂神社が建っている。社殿の土段はかつての本丸土塁跡といわれる。また、同神社西の長松院境内にも土塁と堀の遺構が残っている。JR東北本線須賀川駅からバスで宮先町下車。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報