須賀湊(読み)すかみなと

日本歴史地名大系 「須賀湊」の解説

須賀湊
すかみなと

[現在地名]平塚市千石河岸

相模川の河口に位置する須賀村の浦方で、対岸柳島やなぎしま(現茅ヶ崎市)。江戸鉄砲洲てつぽうずまで三六里、伊豆下田しもだまで三五里ほどの距離で、港口は約二〇間のため大船は入らず、四〇〇石積の船が限度であった(風土記稿)

当湊は戦国期から漁港としてあらわれ、また小田原北条氏の支配下では海上輸送の根拠地でもあった。永禄九年(一五六六)一〇月一六日の北条氏康朱印状(県史三)によれば「須賀郷 田中」に対し小鳥の餌用の鮮度のよい鰺二〇〇尾の上納が命じられ、また度々の賦課であるとして鰺六〇〇尾の代金精銭二〇〇文が下されている。同一三年と推定される午七月二〇日の北条家朱印状(同書)によれば、麦一三〇俵を当地より熱海まで輸送する船の船方(水夫)の手配をし、麦を熱海で代官に引渡し船方の公用銭を受取るよう須賀郷の代官・船持中に命じている。同年に伊豆へ進攻してきた武田の軍勢に備えるためであろう。天正一三年(一五八五)八月二三日の北条氏政朱印状(同書)は、真田昌幸が守る沼田ぬまた(現群馬県沼田市)攻撃に出陣している北条氏直へ陣中見舞として送るため、大ぶりの鯛二〇枚を浜辺で薄塩にし翌晩舟で持参するよう命じている。年未詳三月二七日の北条家朱印状(同書)では相模川対岸の当麻たいま(現相模原市)の舟庭へ手練な船方を乗込ませた船一〇艘を回漕させている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報