願生寺(読み)がんしようじ

日本歴史地名大系 「願生寺」の解説

願生寺
がんしようじ

[現在地名]新井市除戸 山崎

除戸のぞきど集落の道路から西に入った所に建ち、大高山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。願生寺は親鸞の高弟善性が関東で開いた、磯部いそべ(現茨城県猿島郡総和町)勝願しようがん寺を中心とする六ヵ寺の一寺で、のち信濃へ移り、天正年間(一五七三―九二)上杉氏の招きによって新井(現新井別院寺地)へ移転したという。蒲原かんばら地方を中心に多くの末寺をもち、頸城くびき郡には西性さいしよう(現西頸城郡能生町)入善にゆうぜん(現上越市)があり、寺中に聞称もんしよう寺と悲願ひがん寺を構え、檀家三千軒と伝える大坊であった。


願生寺
がんしようじ

[現在地名]吉田町法花堂

国道一一六号東側に面し、真宗大谷派、山号本鳥山。本尊阿弥陀如来。開祖尊願は下総国磯部いそべに願生寺を創立。その後信濃国を経て、尊照の代に上杉謙信の招請により中頸城なかくびき新井あらい(現新井市)に移転。その子永尊が三男刑部卿に法花堂ほつけどう村に願生寺を創立させた。開基永尊の没年は慶安元年(一六四八)創建は元和年間(一六一五―二四)とも(皇国地誌)、寛永年間(一六二四―四四)ともいい(西蒲原郡寺院仏閣誌)、また寛文年間(一六六一―七三)に現在地に移転したともいう(島上村誌)


願生寺
がんしようじ

[現在地名]楠町大字船木

旧山陽道に沿った船木の上中市ふなきのかみなかいちにある。浄土真宗本願寺派で松台山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によれば、守護大名大内義隆の家臣山名源二郎が天文二〇年(一五五一)大内義隆の敗死に殉じ、その子山名刑部が出家して了願と名乗り、周防国富田とんだ(現新南陽市)善宗ぜんしゆう寺の弟子となり、帰国後船木に道場を建て、のち西山にしやまに居を移して一宇を建立した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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