日本歴史地名大系 「飯盛村」の解説 飯盛村はんせいむら 福井県:小浜市飯盛村[現在地名]小浜市飯盛西勢井(にしせい)村の西に位置し大飯郡に属した。飯盛川が北流し、南の飯盛(いいもり)山より北へ谷間が広がり、末は小浜湾に臨む。集落は谷の奥より法海(のりかい)・黒駒(くろこま)、海辺に近い平野部に荒木(あらき)がある。東西に丹後街道が通り、法海の集落南側谷間より山越で窪谷(くぼたに)村、黒駒からは五十谷(いかだに)村、西側では本所坂を経て本所(ほんじよ)村に至る道がある。中世は加斗(かと)庄に属し、地名「はんせい」は加斗庄が下地中分されたのち当地が半済方に属したことによると考えられる。天文九年(一五四〇)三月一一日付武田信豊加判(粟屋カ)右京進奉下知状(飯盛寺文書)に、<資料は省略されています>とある。 飯盛村いいもりむら 福岡県:福岡市西区飯盛村[現在地名]西区飯盛羽根戸(はねど)村の南、室見(むろみ)川左岸にあり、飯盛山の東麓に位置する。早良(さわら)郡に属し、北東は橋本(はしもと)村、東は田(た)村。日向(ひなた)川が北東へ流れ、当村北部で室見川に入る。村名は古くは飯森とも記される(続風土記附録)。小早川時代の指出前之帳では戸栗(へぐり)村の内に含まれているとみられる(続風土記拾遺)。江戸時代当村の枝郷とされる本名(ほんみよう)村は指出前之帳では一村として記され、田二一町八反余(分米二六〇石余)・畠四反余(分大豆二石余)。慶長六年(一六〇一)には「飯森村」のうち二〇〇石が岡九郎次に給知として与えられた(「黒田長政知行宛行状」岡家文書)。同七年の検地高七九九石余(慶長石高帳)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 食品製造/お菓子の検品や箱詰め/日勤/土日休み/年間休日120日 株式会社トーコー 新潟県 上越市 時給1,250円 派遣社員 化粧品容器の金型製造・射出成型 有限会社木之下製作所 栃木県 足利市 月給20万円 正社員 Sponserd by