香取村(読み)かとりむら

日本歴史地名大系 「香取村」の解説

香取村
かとりむら

[現在地名]多度町香取

多度川が南に曲がる所の東岸にあり、西は戸津とうづ村に接する。古来木曾川の対岸佐屋さや・津島(現愛知県)への渡場として交通上重要な地であった。「吾妻鏡」文治元年(一一八五)一一月一二日条に、源義経の縁者河越重頼の所領を収公した際、「其内、伊勢国香取五ケ郷、大井兵三次郎実春賜之」とある。実春が前年の元暦元年(一一八四)羽取はとり(現鈴鹿市)の戦で、頼朝に背いた志太三郎先生義広を討取った功賞である。五ヵ郷とは香取・みなみ松之木まつのき上逆手かみさかて(上坂手)・下逆手(下坂手)をいう(三国地志)。南は南之郷みなみのごうで、松之木以下は長良ながら川東岸(現長島町)である。永徳二年(一三八二)の僧都覚有一跡配分目録(米良文書)によれば「伊勢国カトリノ但馬法眼門弟引旦那等・同国同所丹波阿闍梨弟子引旦那等」とあり、南北朝時代、熊野社の旦那職をもつものがいたことがわかる。

香取村
かとりむら

[現在地名]鳥取市香取・若葉台南わかばだいみなみ一丁目・同六―七丁目

紙子谷かごだに村の南に位置する。文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)に「イカミ谷」「ヲヤマ谷」「元結谷」「袋谷」「ヲイチ谷」の名がみえ、それぞれに灌漑用溜池が描かれている。拝領高は二三五石余、本免は五ツ四分。藪役銀一匁八分を課されており(藩史)、内山氏・本木氏の給地があった(給人所付帳)。寛永一〇年(一六三三)の地詰帳写(福田家文書)によれば高は二五六石余で、反別は田一五町九反余・畑八反余・屋敷八畝余。

香取村
かとりむら

[現在地名]佐原市香取

佐原村・新部につぺ村の東、利根川南岸津宮つのみや村の南の丘陵に位置し、香取神宮を中心とした村。香取郷とも記される。天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入封後、香取社周辺の村々は矢作領四万石として家康の家臣鳥居元忠に与えられた(「諸大名旗本分限帳」内閣文庫)。同一九年二月に当地を対象としたとみられる検地が行われ、同月二一日の香取郷宮中検地帳写(香取区有文書)によると田方三八町九反余・畑方一六町六反余・屋敷一町九反余で、屋敷数は一三五。同年一一月には香取社に「香取郷」内の一千石、同社神宮寺の金剛宝こんごうほう寺に「香取郡水上郷」内の二〇石が与えられ(「徳川家康朱印状」香取文書纂など)近世の香取社領は当村のみの一千石となって幕末に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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