高城町(読み)たかじようちよう

日本歴史地名大系 「高城町」の解説

高城町
たかじようちよう

面積:九四・二一平方キロ

都城盆地の北部に位置し、北諸県郡の中央部を占める。東は東諸県郡高岡たかおか町、東から南は山之口やまのくち町、南は三股みまた町、西は都城市高崎たかざき町、北は西諸県郡野尻のじり町に接する。町域の西端から北端を大淀川が流れ、都城市・高崎町・野尻町との境を形づくっており、東の青井あおい岳山麓との間に集落が形成されている。中央部を南北に国道一〇号が通る。

石山の城いしやまのじよう遺跡では縄文時代の曾畑式土器・市来式土器黒色磨研土器などが出土し、弥生時代後期の竪穴住居跡なども確認されている。古墳は円墳を中心に二二基が大井手の牧ノ原おおいでのまきのはら地区などに存在し、高城町古墳として県の史跡に指定されている。石山の香禅寺こうぜんじ遺跡では地下式横穴墓一基・地下式板石積石室一基が、四家しかすずめでは地下式横穴墓群が確認されており、香禅寺遺跡からは鉄鏃・鉄剣などが出土。これらの遺物の出土状況などから古墳群や横穴墓は六世紀を中心に営まれたとみられる。


高城町
たかじようまち

[現在地名]高城町高城町

江戸時代の穂満坊ほまんぼう村のうちに形成された鹿児島藩領の野町(在郷町)。東は大井手おおいで村に接している。当初は岡町と称され、正徳元年(一七一一)に野町に指定されたが(列朝制度)、万治元年(一六五八)書写の庄内高城町屋敷余地役銀取帳写(後藤家文書)には屋敷四一軒が記載されており、近世初頭には町場として存在していたことがうかがえる。屋敷面積をみると、一畝一二歩―一畝二六歩が三軒、三畝一八歩―三畝二九歩が一四軒、四畝六歩―四畝二八歩が一七軒、五畝―五畝四歩が五軒で、ほかに行事役の補佐を勤める小部当の役分として九畝一六歩、御客屋地分として九畝一〇歩があり、総面積は一町七反七畝余。


高城町
たかじようまち

[現在地名]木城町高城

高城村内にあった在郷町。元和二年(一六一六)一〇月、新納高城町として町立てされ、このときの都合は内田善兵衛であった(本藩実録)。町には部当が置かれ、町方を支配した。当町では部当は代々世襲であったようで、元禄一一年(一六九八)一一月、当町部当六左衛門が病気で退役を願出たため、その子金右衛門が町立て以来部当を勤めた家筋であるという理由で部当役を命じられている(拾遺本藩実録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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