高城村(読み)たかじようむら

日本歴史地名大系 「高城村」の解説

高城村
たかじようむら

[現在地名]木城町高城

東流する小丸おまる川左岸に位置し、南は同川を挟んで椎木しいのき村、北東は大池おいけ(現川南町)、北西はいし村、西は川原かわばる村。高鍋藩領に属し、当村一村で野別府のびゆう高城郷を構成した。野別府代官の支配に属した。村内に高城町が形成されていた。寛永一五年(一六三八)の高鍋藩人給帳に諸郷催司の一人として七石取の高城の津之介の名がみえる。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえ、同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高一千四七石余。天保郷帳では高一千一九五石余。旧高旧領取調帳では高二千七二七石余。野別府代官目安(本藩秘典)によれば田方の年貢は定免で、免二ツ九分。楮方・植木方目安(同書)には藩内の御用楮畑場所の一つに高城いやか坂下があげられている。


高城村
たかじようむら

[現在地名]垂水市高城

西流する本城ほんじよう川の南岸に位置し、対岸は新御堂しんみどう村など。中世は下大隅郡(下大隅)に含まれたとみられ、一帯は山城の高城を中心に肥後氏が支配した。天正二年(一五七四)島津義久に降った伊地知氏が進上した「下大隅五ケ所」(「上井覚兼日記」同年一〇月三日条)に含まれていたようで、「高城」と新城しんじようの地頭に鎌田政近が任じられた(「箕輪伊賀覚書」旧記雑録など)。藤井本「要用集抄」の鹿屋かのや郷の項に五ヵ村のうち「高城村・柊木原村弐ケ村ハ大隅郡之内」と記されることから、正徳三年(一七一三)頃までは鹿屋郷に所属したとみられ、のち垂水郷に編入された(「三州御治世要覧」など)


高城村
たかじようむら

[現在地名]大分市河原内かわらうち 高城

岩上いわがみ村の西、東流する河原内川の下流域にある。竹中たけなか村から南下して同川沿いに西行する道が通る。江戸時代を通じて肥後熊本藩領。寛永一一年(一六三四)の同藩豊後国郷帳に村名がみえ高一二〇石余。正保郷帳によれば田高五七石余・畑高六二石余、戸次へつぎ庄に所属。初め冬田手永、延宝三年(一六七五)から高田手永山奥在九ヵ村の一。「肥後国誌」によると吉間村・駄平村・仏原村・梶屋村・大淵村中原村・大津無礼村などの小村がある。中野なかの村庄屋の兼帯で枝村は無礼むれ村。文化一〇年(一八一三)の本村の高一一六石余、反別は田方五町一反余・畑方八町七反余、免は五ツ八分余。本村・枝村ともの新地分七石余。


高城村
たかきむら

[現在地名]色麻町高城

現色麻町の北東端、鳴瀬なるせ川と保野ほの川の合流地点にある低地帯の村で、集落は自然堤防上にある。西は清水きよみず村、南は黒沢くろさわ村、東の鳴瀬川対岸は中新田なかにいだ(現中新田町)に接する。正保郷帳に田三三貫七八一文・畑二〇貫三九四文とあり、ほかに同所新田八八文がある。「安永風土記」によれば、田三七貫七九文・畑二〇貫五七一文(うち茶畑五〇文)で、蔵入は九貫九七二文、給所は四七貫六七八文、人頭五三人(うち寺一)、家数五四(うち借屋一)、男一八二・女一六三、馬四八で、作場通用舟二艘があり、中新田村より小野田おのだ(現小野田町)に至る道に、長さ一〇間・幅一間半の舟橋裏橋が架けられていた。


高城村
たかじようむら

[現在地名]大分市高瀬たかせ 高城・おか

なか村の西にあり、北は七瀬ななせ川に臨む。文禄二年(一五九三)八月の稙田庄之内高城村中村検地帳(安東家文書)がある。慶長一三年(一六〇八)の高城村検地帳(同文書)によれば反別五町六反余、分米合計三八石余、名請人数二〇(うち一一名入作)。正保郷帳によると田高二六石余・畑高一七石余、早田わさだ庄に所属。領主の変遷は宮崎みやざき村に同じ。延享四年(一七四七)の家数一六(うち本百姓一二)・人数一五三(「村明細帳」安東家文書)


高城村
たかじようむら

[現在地名]西仙北町高城

刈和野かりわの村より北野目きたのめ村を経て、西へ約三〇町、西流する雄物川の南側に位置する。

「六郡郡邑記」によれば、「亀田(領脱カ)由利郡北野目村と境四ツ屋関限り、街道橋切境、同矢島領由利郡北野目村由利郡街道境、其外田畑境」とあって、由利郡との境にあたる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図によれば、高一九石。宝永二年(一七〇五)の仙北郡村々御黒印高帳(秋田県庁蔵)によれば、本田高三八石余、新田高四〇石余で、高合計七九石余(当高五二石余)である。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では、当高二九石余で蔵分とある。文久三年(一八六三)の仙北郡西街道村々御高人馬書上帳(小貫文書)によれば、当高三六石余、家数九軒、人数四九人、馬数一四頭となっている。


高城村
たかじようむら

[現在地名]荻町恵良原えらはる

矢倉やぐら川上流に位置し、標高四六〇メートル前後の渓谷に集落が点在する。天正一四年(一五八六)一〇月から同一五年二月に至るまでの島津対大友の戦いで志賀親次が抜く所の城塁一五所として「大友家文書録」は「緒方普方・寺本湯要害・白谷塁・烏岳・朽網城・栂牟礼・駄原・篠原目・高城目・さこ・鎧嶽・小牧・水五たずと合・烏屋・神角」を列記している。正保郷帳では松本まつもと郷に属し、田方一三石余・畑方一五石余。


高城村
たかしろむら

[現在地名]清川村宇田枝うたえだ

宮迫みやさこ村の南、御嶽おんだけ山北東麓にある。「大友家文書録」によれば、天正一四年(一五八六)一〇月から翌一五年二月までの間に志賀親次が攻略した城塁のうちに「高城目」がある。この塁は当地から左右知そうち地区にかけてある御嶽堡のことか。正保郷帳に村名がみえ、田高一八石余・畑高五石余、宇田枝郷に属し、茅山有と注記される。安永七年(一七七八)には宇田枝組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。当村南部の鳥屋とや(十矢)は正保郷帳に一村として記され、田高七石余・畑高七石余、宇田枝郷に属し、茅山有・日損所と注記される。


高城村
たかしろむら

[現在地名]志賀町高城

和邇中わになか村の北にあり、東は南浜みなみはま村。天正一一年(一五八三)八月の御蔵入目録(浅野家文書)に高城村とあり、高二五八石余。寛永石高帳では高三一五石余。慶安高辻帳では幕府領とあり、田方一二二石余・畑方三五石余・永荒一五七石余。元禄郷帳に高三二六石余とあり、三上藩領と旗本北坂領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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