高城郷
たかじようごう
鹿児島藩の近世外城の一つ。諸県郡に所在し、現高城町域の大井手村・桜木村・穂満坊村・石山村・有水村・四ヶ村および飛地の東霧島村(現高崎町)からなる(「三州御治世要覧」など)。これら七ヵ村の地は文禄三年(一五九四)の太閤検地に伴って北郷忠虎領となり、翌四年に伊集院幸侃(忠棟)領となったとみられ、慶長四年(一五九九)からの庄内合戦を経て北郷氏(都城島津家)領となり、同一九年に高城郷は上知されて鹿児島藩直轄領となる。その際、高城郷・山之口郷・勝岡郷の郷士および北郷氏の家臣らが引揚げたため、鹿児島藩の表方士三〇〇人が当郷へ移され、うち七五人が山之口郷へ、三五人が勝岡郷へ「人配」された(以上「古今山之口記録」・北郷氏系図など)。なお慶長一七年の北郷氏宛の知行目録(都城島津家文書)には「高城之内」として高八千九六二石余とある。
高城郷
たきごう
高城郡の北半を占める郷。南は同郡水引郷、東は薩摩郡東郷。中之郷に位置づけられ(列朝制度)、鹿児島城下からの距離は一三里(「薩藩政要録」など)。出水筋が南東から北西へ通っていた。鹿児島藩直轄の外城で、麓村・城上村・麦之浦村・湯田村・西方村の五ヵ村からなる(「三州御治世要覧」など)。地頭仮屋は麓村の妹背(高城)城跡南麓にあった。当郷域を含む高城郡は文禄二年(一五九三)薩州家の島津忠辰が所領を没収されると豊臣秀吉領となり、慶長四年(一五九九)一月九日、慶長の役の恩賞として島津氏に与えられた(「豊臣氏五奉行連署知行目録」旧記雑録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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