高宮村
たかみやむら
[現在地名]鈴鹿市加佐登町・高塚町
鈴鹿川左岸の標高五〇メートル内外の台地上にあり、南には庄野村、北東には上田村がある。「和名抄」高宮郷の地である。加佐登町集落南西方の丘陵端に綺宮崎の字名があり、「日本書紀」景行天皇五三年条の「十二月に、東国より還りて、伊勢に居します。是を綺宮と謂す」の跡とされ、高宮の村名もこれに基づくとされる(五鈴遺響)。日本武尊の伝承のある白鳥塚古墳はここから約二キロ北にある。大きな村で、俗に東半を里、西半を新出とよんでいる。付近には古墳が多く、加佐登神社付近の白鳥塚古墳群(七基)、西方に高塚古墳群(七基)があるほか、集落東南部に加佐登古墳群(九基)があり、なかに日本武尊にちなむ宝冠塚(三号墳)・宝装塚(四号墳)のほか、六号墳の王塚(現白鳥中学校内)は昭和三八年(一九六三)調査、盗掘・開墾のため変形していたが、東西一九メートル、南北一六メートル、高さ最高部二・八メートルの墳丘中央に白色の粘土槨の残部があり、鉄剣一・鉄鏃一を出した。
高宮村
たかみやむら
[現在地名]南区高宮一―五丁目・平和一丁目・長丘一―五丁目・寺塚二丁目・大池一―二丁目・市崎一―二丁目・大楠二―三丁目・那の川一―二丁目、中央区那の川二丁目
野間村北西の小丘陵地にあり、北東は住吉村(現博多区)、北西は平尾村、西は早良郡上長尾村。北東を新川が北東流し、北西から南東へ福岡往還が通る。高宮一帯は南北朝時代に軍事的な拠点になっていた。九州探題として九州に下向した今川了俊は、応安五年(一三七二)三月に高宮に陣取り、四月に大宰府の征西府を攻撃した。この時の高宮陣には了俊方として中国地方の国人山内氏・周布氏・毛利氏・長井氏らや(同八年八月日「長井貞広軍忠状案」福原文書など)、九州の国人深堀氏・田原氏らも高宮に在陣した(応安五年一二月日「深堀時広軍忠状」深堀文書など/以上、南北朝遺文(九州編)五)。
高宮村
たかみやむら
[現在地名]寝屋川市高宮・高宮栄町・高宮新町・楠根北町・楠根南町・昭栄町・初町・日之出町・秦町
平池村・秦村・太秦村の南にある。中部を南北に枚方道(河内街道)が通る。東部は丘陵地、西部は平坦地。枚方道沿いの山麓に集落があり、丘陵の南端字大将軍に式内社大杜御祖神社がある。同社境内および付近は高宮廃寺跡。丘陵の南方・西方の低地には条里制の遺構がある。古代讃良郡高宮郷(和名抄)の地。文明一六年(一四八四)一二月三〇日、豊原繁秋は「高宮之内小村給故村秋跡」の地などを与えられている(「後土御門天皇綸旨案」宣秀五位蔵人御教書案)。
高宮村
たかみやむら
[現在地名]彦根市高宮町、犬上郡甲良町呉竹
大堀村・東沼波村の南に位置し、中山道(古代の東山道、中世の東海道)が通る。古代の犬上郡高宮郷(和名抄)の遺称地で、中世には高宮保・高宮庄が成立。また中世から市が立ち(年未詳六月七日「小幡商人申状案」今堀日吉神社文書)、高宮布が著名であった(→彦根市)。江戸時代には中山道の宿として賑った。
中世当地には高宮を姓とする二系統の国人がいた。一系統の高宮氏は鎌倉時代の末に紀州櫟氏が地頭として高宮に入部したのに始まると伝え、初代宗忠以下、二代宗行・三代宗充・四代高義と続いたが、高義のとき六角氏頼の三男信高が将軍足利義持から勲功の賞として六万貫を与えられて当地に入ったため、しだいに力を失ったという。
高宮村
たかみやむら
[現在地名]福光町高宮
福光村の南東、小矢部川東岸沿いにある。村名は鎮守であった雉真神社(現比売神社)を高宮ともよんだことに由来するという。石黒庄弘瀬郷の内で、弘長二年(一二六二)三月一日の関東下知状(尊経閣文庫所蔵文書)に「高宮村」とみえる。天文五年(一五三六)三月一二日の最勝寺塔頭并寺領目録(最勝寺文書)によれば、高宮の内に最勝寺末寺善光寺があった。元和五年(一六一九)の家高新帳では広瀬組に属し、役家数二四。
高宮村
たかみやむら
現福光町高宮を遺称地とし、同所を含む小矢部川東岸に比定される。西方・東方とともに弘瀬郷を構成し、三地域のうちで最も新しく開発された地域と推定される。開発の起源は平安後期にさかのぼるとみられる。弘瀬郷六社のうちの一つ高宮があり、宝治二年(一二四八)一一月の石黒庄弘瀬郷内検帳(仁和寺文書)によれば、三段の神田が付属していた。高宮社前には小矢部川対岸の東方の天満と同様に市が立てられていた(弘長二年三月一日「関東下知状」尊経閣文庫所蔵文書)。弘長二年(一二六二)の関東下知状には弘瀬郷地頭として藤原定朝・時定・宗定の名が記されるが、第六条に「時定分高宮」とあって、時定が高宮の地頭であったことがわかる。
高宮村
たかみやむら
[現在地名]松本市高宮
松本藩領出川組の一村で、もと高宮新田といわれた。
寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳に「高宮新田 百三拾四石弐斗五升弐合」と初めて記載されている。「信府統記」によると、享保九年(一七二四)当時の石高は一六三石七斗三升八合である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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