日本の城がわかる事典 「高崎城」の解説 たかさきじょう【高崎城】 群馬県高崎市にあった平城(ひらじろ)。群馬県指定重要文化財(乾櫓(いぬいやぐら))。平安時代末期に、この地の豪族の和田義信が築城したといわれる居館が起源で、戦国時代には和田氏の居城となったことから和田城と呼ばれた。室町時代、城主の和田氏は、ほかの上野国の武将同様、関東管領の山内上杉氏の傘下にあったが、関東管領上杉憲政の越後逃亡後は、長尾景虎(のちの上杉謙信)についた。しかし、1561年(永禄4)、当時の城主の和田業繁は謙信に反旗を翻し、武田信玄に転じたため、たびたび上杉氏の攻撃を受けたが、その攻勢に耐え、城を存続させている。業繁の子信繁の代になると、城主の和田氏は北条氏の傘下に入った。1590年(天正18)の小田原の役(豊臣秀吉の小田原攻め)では城主の和田信繁は小田原城に籠城し、信繁の子兼業が和田城の留守を預かったが、前田利家・上杉景勝らの大軍に包囲され、同年に落城し、その後間もなく廃城となった。小田原の役後、徳川家康が関東に国替えとなったが、その臣下の井伊直政は箕輪城に入城したが、1597年(慶長2)、家康の命令により和田城跡に新城の築城を開始。翌年、箕輪城から高崎城へと居城を移し、ここに高崎藩の藩庁が置かれた。その後、城主(藩主)が目まぐるしく入れ替わりながら明治維新を迎えた。1873年(明治6)の廃城令で存城となり、第3師官官内分営所が置かれたが、それ以降に城内の建造物の移築・破却が進み、城跡の大部分が旧陸軍の歩兵第15連隊(高崎連隊)の駐屯地となった。江戸時代の高崎城本丸には御三階櫓とともに、乾(いぬい)、艮(うしとら)、巽(たつみ)、坤(ひつじさる)の方角に4基の隅櫓が設けられていたが、現存するのは、このうち乾櫓のみである。この乾櫓は市内の農家に払い下げられ、移築されて納屋として利用されていたが、群馬県の重要文化財に指定されたことから旧三の丸に移築・復元された。乾櫓の近くにある東門も市内の農家に払い下げられていたものを移築・復元した遺構である。JR高崎駅から徒歩約10分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報