高木憲次(読み)タカギ ケンジ

20世紀日本人名事典 「高木憲次」の解説

高木 憲次
タカギ ケンジ

大正・昭和期の整形外科学者 東京大学名誉教授;日本肢体不自由児協会会長。 肢体不自由児の父。



生年
明治21(1888)年2月9日

没年
昭和38(1963)年4月15日

出生地
東京市下谷池之端

学歴〔年〕
東京帝大医科大学〔大正4年〕卒

学位〔年〕
医学博士〔大正11年〕

主な受賞名〔年〕
保健文化賞〔昭和27年〕,朝日賞(社会奉仕賞 昭31年度)〔昭和32年〕

経歴
東京帝大整形外科教室に入局、大正11年ドイツ留学を経て、13年東京帝大教授。昭和25年退官し名誉教授。27〜34年日本医科大教授。この間、8年に関節鏡を開発、他にも先天性股関節脱臼口蓋裂の研究に業績を残した。また、大正5年以来、東京の下町で肢体不自由児の診療、調査を続け肢体不自由児の父と呼ばれた。それまで不具、片端と呼ばれた障害を“肢体不自由”という新用語で表現することを提唱。昭和7年日本初の肢体不自由児学校・光明学校を設立、17年には東京・板橋に療育施設・整肢療護園を開設した。児童福祉法、身体障害者福祉法の制定にも力を入れ23年には日本肢体不自由児協会を設立、会長となった。死後高木賞が制定され、毎年功労者、団体などに贈られている。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高木憲次」の解説

高木憲次 たかぎ-けんじ

1889-1963 大正-昭和時代の整形外科学者。
明治22年2月9日生まれ。大正13年母校東京帝大の教授となり,のち日本医大教授。日本整形外科学会長。身体障害者の社会復帰関心をもち,昭和17年日本最初の療育施設整肢療護園をひらき,戦後は日本肢体不自由児協会初代会長などをつとめた。昭和38年4月15日死去。74歳。東京出身。編著に「形態異常の治療成否」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「高木憲次」の解説

高木 憲次 (たかぎ けんじ)

生年月日:1888年2月9日
大正時代;昭和時代の整形外科学者。東京大学教授;日本肢体不自由児協会会長
1963年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高木憲次の言及

【岩橋武夫】より

…その間2度の渡米により,ヘレン・ケラーと親交を結び,ヘレン・ケラー日本招待に尽力した。第2次大戦後,身体障害者福祉法成立以前の被占領期にあっては,連合国最高司令官総司令部の障害者政策の基盤づくりに高木憲次(1889‐1963)らとともに協力した。大阪盲人協会会長を務め,日本盲人会連合,日本盲人福祉協議会の結成に尽力,中央身体障害者福祉審議会,世界盲人福祉協議会の委員としても指導的地位に立って幾多の業績を残した。…

※「高木憲次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android