高来東郷
たかくとうごう
中世にみえる郷名。高来郡内のうち伊佐早庄を除いた地域、したがってほぼ島原半島を東西に分けた呼称であったと考えられる。史料上は郷内に神代村(現国見町)、御墓野村、三会村(現島原市)、深江村(現深江町)・有馬庄(現北有馬町など)などがみえる。承久三年(一二二一)八月三〇日の関東裁許下知状(保阪潤治氏所蔵文書)に「東郷」とみえ、平家没官領で京都仁和寺領の高来西郷が慈円の所領となったため不輸の地となり、その年貢を東郷地頭の野本行員が肩代りして納めることになったという。寛元二年(一二四四)有馬を本拠とする有間朝澄は「高木東郷」地頭職について幕府に訴えたが、棄却されている(「吾妻鏡」同年六月二七日条)。訴訟の相手はこの年以前に高来東郷の惣地頭職を給付されていた東国御家人の越中政員と考えられ、政員は同四年朝澄と串山郷(現南串山町など)をめぐって相論になり、朝澄一期の後は政員が伝領すべしという本主養母尼の遺言を盾に朝澄に押書を作成するよう訴えているが、寛元四年(一二四六)幕府はこれを棄却している(「吾妻鏡」同年三月一三日条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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