高槻村(読み)たかつきむら

日本歴史地名大系 「高槻村」の解説

高槻村
たかつきむら

[現在地名]八幡東区清田きよた一―三丁目・中畑なかはた一―二丁目・宮の町みやのまち一―二丁目・東山ひがしやま一―二丁目・祝町いわいまち一―二丁目・東鉄町ひがしてつまち竹下町たけしたまち石坪町いしつぼまちなど

板櫃いたびつ川の中流右岸に位置する。豊前国企救きく郡に属し、江戸時代には小倉藩(慶応三年から香春藩)領。中世の高月たかつき郷の遺称地とされ、古くは高月村と記した。東は山岳を境として小熊野こぐまの村、南は同村のうち山路さんじ、西は筑前国遠賀おんが大蔵おおくら村、北は長崎街道を挟んで荒生田あろうだ村で、筑前国とは山麓の斜面をもって国境としていた。元和八年人畜改帳では高月村とあり、高七九一石余、家数八四・人数一八五(うち惣庄屋一・百姓一八)、馬八・牛二四。元禄国絵図に高槻村とみえる。郷村高帳では高七三七石余、うち新田高一一石余。

高槻村
たかつきむら

[現在地名]高槻市高槻町・大手おおて町・城内じようない町・北園きたその町・城北じようほく町一―二丁目・城西じようさい町・野見のみ町・京口きようぐち町・上本かみほん町・ほん町・八幡やはた町・出丸でまる町・庄所しようどころ町・土橋どばし町・高西こうさい町・城南じようなん町一丁目など

高槻丘陵南麓に開ける沖積平野の中央にある。北方を東西に西国街道が通るほか、富田とんだ街道・枚方ひらかた街道・大坂街道などの起点。条里制の遺称と思われる三の坪・四の坪の字名が残る。「新撰姓氏録」(左京諸蕃下)に「高槻連 出自百済国人達率名進也」がみえるが、当地との関係は不明。欠年の安満庄目録案(天理大学図書館蔵保井文庫文書)の麦下地・野畑のなかに「高月」とみえるのが当地で、地名の由来は、神武天皇東征の勲功として、この地を賜った可美真手命の旗印が月象であったことによるとする説(大阪府全志)もある。「月」が「槻」になったことについて安永九年(一七八〇)の村方由緒(近藤家文書)に、「応永ノ頃より戦国と成、勇士四方に散戦之節、天王・弁天之御社辺まで森有て天王之森と云、其内ニ二十丈有之槻ノ木あり、此木之辺、勇士為本陣と故、高槻ト云、三好殿自分より槻ノ字ニ改申候」と伝える。

高槻村
たかつきむら

[現在地名]綾部市高槻町

八田やた郷北部の丘陵地に位置し、中央にしろ山とよぶ小山がある。北と西は山嶺を隔てて黒谷くろたに村・志賀しが村、東と南は上杉うえすぎ村・上八田かみやた村。

古代の八田郷(和名抄)の地に属するが、鎌倉時代は高槻保として推移。文保元年(一三一七)八月二〇日付比丘尼心会譲状(安国寺文書)に次のようにみえる。

<資料は省略されています>

また建武五年(一三三八)四月四日付暹快奉書(同文書)に次のようにある。

<資料は省略されています>

寛正二年(一四六一)の何鹿郡所領注文(同文書)にも八田とは別に記されているのは、小村ながら保としての独立性をもっていたからであろう。「丹波負笈録」は「西股東股の間に在村なり、両村に不附公儀一本ノ古村也」と述べる。

慶長六年(一六〇一)の御知行方目録(山家藩庁文書)では高三八〇・四石「高つき村」とある。

高槻村
たかつきむら

「万葉集」巻三に

<資料は省略されています>

があり、これが「新拾遺集」では「とくきても見てまし物を山城の高槻村の散りにけるかも」となる。歌枕として、歌学書「五代集歌枕」は「たかつきのむら」、「八雲御抄」は「たかつきむら」と記す。「新拾遺集」の読み方が従来行われてきたが、しかし山城国に高槻村はみあたらない。近年、「高」を「和名抄」の多可たか(現多賀付近)にあて、「多可の槻群」(槻の木の群)と考える説があり、定めがたい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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