人形浄瑠璃。時代物。11段。角書〈御陣は九州/地理は八道〉。通称《彦山》。梅野下風,近松保蔵作。1786年(天明6)閏10月大坂東芝居初演。出勤の太夫は,初世豊竹麓太夫,3世竹本内匠太夫,3世竹本政太夫,2世竹本氏太夫(のちの4世政太夫)ほか。実録《豊臣鎮西軍記》に毛谷村六助の話が伝えられているが,宮本武蔵の物語から作意を得たものともいわれる。長州藩の武芸師範吉岡一味斎は試合の遺恨により,京極内匠に闇討されて殺される。そのため屋敷は没収,家族は追放されるが,妻のお幸,姉娘お園,妹娘お菊に仇討が許される。お菊は敵にめぐり会ったが返討にあい,その子弥三松はのがれ,はからずもお園の許嫁の毛谷村六助に拾われる。京極内匠は微塵弾正と変名し小倉城下に来ると,六助と試合して勝てば召し抱えるとの高札。弾正は六助に噓を言い,勝ちを譲ってもらい,仕官をする。お園は虚無僧姿に身をやつして諸国を巡るうち,見覚えのある弥三松の着物が干してある六助の住家を見つけた。久しぶりの許嫁同士の対面。同じ家にお幸も来ていた。お園は一味斎の横死のこと,京極内匠のことなどを物語る。敵は弾正とわかり,小倉城下で六助の助太刀により,お園,お幸,弥三松は敵討本懐を遂げる。初演以来大当りを取ってきたが,《敵討巌流島》の影響を大いに受け,六助は宮本武蔵,一味斎は無二斎,内匠は佐々木巌流に当てた趣向といわれる。歌舞伎に移されたのは1790年(寛政2)7月大坂浅尾弥太郎座(中の芝居)が初演。全曲中,五段〈一味斎屋敷〉,六段〈須磨浦〉,七段〈栗栖野〉,九段〈六助住家〉が名高いが,とくに九段目は通称《毛谷村》として,人形浄瑠璃,歌舞伎ともに流行狂言。ひなびた田舎家を背景にした男女の剣士の出会いがおもしろい。お園の役は女武道の芸系に属し,さまざまな見せ場があり,女方の代表的な大役になっている。
執筆者:戸部 銀作
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
浄瑠璃義太夫(じょうるりぎだゆう)節。時代物。11段。梅野下風(うめのしたかぜ)・近松保蔵(やすぞう)合作。1786年(天明6)閏(うるう)10月、大坂道頓堀東(どうとんぼりひがし)の芝居初演。実録『豊臣(とよとみ)鎮西軍記』などにある毛谷村六助(けやむらろくすけ)の仇討(あだうち)(1586)を脚色。長州藩の武芸指南番吉岡一味斎(いちみさい)は、御前試合の遺恨から京極内匠(きょうごくたくみ)に闇討(やみうち)され、家は断絶する。一味斎の姉娘お園は武術に優れた女丈夫で、母お幸(こう)、妹お菊とともに仇討に出立する。お菊は須磨(すま)の浦で内匠のため返り討にあい、その子弥三松(やさまつ)は逃れて英彦山(ひこさん)の麓(ふもと)に住む武芸の達人毛谷村六助に拾われる。お園は虚無僧(こむそう)姿で六助の家を通りかかり、弥三松の着物をみつけ六助を盗賊と思って切りつけるが、すぐに彼が一味斎の弟子で、お園とは許嫁(いいなずけ)の仲ということがわかる。お幸も来合わせ、最前六助の孝心を利用して仕官のための試合に勝ちを譲らせた微塵弾正(みじんだんじょう)という浪人こそ内匠の変名と知れ、一同は勇んで敵討(かたきうち)に向かう。
九段目「毛谷村」は、早春の農家を背景に親孝行で武勇の達人六助を主人公にした快い場面なので、歌舞伎(かぶき)でも人気があり、全体の通称のようになっている。「女武道」といわれる役柄のお園の演技もおもしろい。まれに、一味斎一家の仇討出立を描いた五段目と、それ以後の場が上演される。
[松井俊諭]
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