高槻城下(読み)たかつきじようか

日本歴史地名大系 「高槻城下」の解説

高槻城下
たかつきじようか

[現在地名]高槻市城内じようない町・野見のみ町・出丸でまる町・大手おおて町・城北じようほく町一丁目・土橋どばし町・八幡やはた町・上本かみほん町・京口きようぐち

高槻村と西接する上田辺かみたなべ村にまたがって位置する。高槻村は東・北・南の周辺部のみ残り、上田辺村の部分は、元和―寛永(一六一五―四四)の再度にわたる城地の拡張によって、主として出丸などを中心に城地として収公されたもの。東部に北から京口・前島まえしま口・大塚おおつか口、北西部に芥川あくたがわ口、南部に西から富田とんだ口・大坂口のいわゆる高槻六口がある。京口からは八丁はつちよう松原を経て安満新あましん町で西国街道に通じ、前島口からは東天川ひがしあまかわ村・前島村を経て淀川対岸の京街道に通じ、大塚口からは大塚村で淀川を渡って枚方ひらかた(現枚方市)に至る枚方街道芥川口からは芥川宿に向かう芥川道、富田口からは富田村から茨木いばらき(現茨木市)に向かう富田街道、大坂口からは芥川左岸を通って淀川沿いの大坂街道に通じる。

〔中世〕

南北朝期、入江左近将監が久米路くめじ山の丘に居を構えたいわゆる高槻入江いりえ城は、自然村落を下に望む城館にすぎなかった。永禄一二年(一五六九)の入江氏滅亡後、和田惟政織田信長の分国として併領した高槻城について、元亀四年(一五七三)惟政の嫡子惟長と高山右近の戦闘を目撃したルイス・フロイスは、一五七三年四月二〇日(天正元年三月一九日)付の書簡(耶蘇会士日本通信)に「和田殿の子は大いに負傷し、其母が約三十人の兵士と共に在りし塔に遁れたり。戦は長く継続し、双方共相当に死者及び負傷者を出したり。此時民家及び和田殿の家に火を放ち、一時間内に子息の相続したる一切の富並に高価なる品々及び米二千包を蔵したる一軒の家焼失せり」と記す。当時、天守閣と思われる塔、城主の居館、米蔵のほか、城内に民家があったことがわかる。高山右近が城主となって、直ちに城内の復旧・整備に着手したもののようで、一五七六年八月二〇日(天正四年七月二六日)発信のフロイス書簡(同通信)では、「城内に多数の住民あり、三階級の人即ち武士・兵士及び付近に米田を有する農夫並に職工居住」とあり、また「同所に在りし一層便利にして広き場所を選び、元神の堂在りし場所に木造の大なる会堂を建築せし」とも述べて、教会堂を中心とした城郭内の町場形成が進んだことが示されている。しかも、天正六年荒木村重の反逆に際し、信長が同盟関係の高山氏を攻めたときの様子を報じた一五七九年一〇月二二日(天正七年一〇月三日)付のジョアンフランシスコの書簡(同通信)には、「水の充ちたる広大なる堀と周囲の城壁に依り陥るゝこと能はざる」状況が述べられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高槻城下の言及

【高槻[市]】より

…これと相前後して住宅団地などの建設も始まり,住宅地化は沖積平野から北部山間地に及んでいる。【秋山 道雄】
[高槻城下]
 高槻は室町時代以来入江氏の本拠地で,1569年(永禄12)から和田父子・高山父子の城下となり,キリシタン大名高山友祥(ともなが)(右近)の保護で教会,セミナリオも設置された。1585年(天正13)以来豊臣氏やその取立大名領,幕府領,譜代大名領と交替し,1649年(慶安2)永井氏(3万6000石)入部直後までに,城地が拡大され,侍屋敷区・町が近世的に整備された。…

※「高槻城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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