高良庄(読み)こうらのしよう

日本歴史地名大系 「高良庄」の解説

高良庄
こうらのしよう

鎌倉期からみえる庄園。筑後国一宮として国衙と密接な関係を保った高良社(現高良大社)は一方で院政期前後から独自の社領免田を形成した。その社領中には国衙免田に由来する所領とともに、神官社人らによって開発された私領も想定できる。高良庄とはこのような高良社とその社領を中央権門が把握した場合にいう限定的な呼称であり、筑後国の大田文に類する史料とされる建仁元年(一二〇一)の高良宮造営田数注文に庄名はみえず、それに相当する所領群は「高良御領田」とされる。天承元年(一一三一)に筑後国司と高良社神主季平との間で相撲免田の停廃をめぐる相論が起きた際、該当免田が「新立庄」かどうかが領家に問われ、その結果新立庄にあらずという勅定が下っている(「長秋記」同年八月一九日条)。文治四年(一一八八)山城醍醐寺座主勝賢が後白河院のため、高良社に対して大般若経一部六〇〇巻以下の仏具装束を施入しており(同年七月二五日「高良山施入帳」表白集/福岡県史資料八)、当時の本家職は後白河院、領家職は勝賢が所帯していた。また「爰仏子勝(賢)不量近年以来、掌当社之幾務、是雖為法皇之恩顧、猶知有明神之宿縁」とも記されるので、先に後白河院が本家職を保持し、その後押しで勝賢の領家職補任が実現したと想定される。建久二年(一一九一)一〇月日の長講堂領目録(島田文書/鎌倉遺文一)に諸役を課さない「不所課庄々」として「高良社」がみえるので、当庄は後白河院の意により京都長講堂領に編入され、本家職はその女子宣陽門院へと相伝されたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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