鶯沢村(読み)うぐいすざわむら

日本歴史地名大系 「鶯沢村」の解説

鶯沢村
うぐいすざわむら

[現在地名]水沢市羽田町(はだちよう)

黒石(くろいし)村・黒田助(くろたすけ)村の北に位置し、北上高地に続く羽田丘陵に立地。通称東(あずま)街道が通る。村の東半は外浦(そとうら)盆地、西半は北上川沿いの北鵜木(きたうのき)台地である。外浦の小田代(こだしろ)川右岸の丘陵南斜面に平安時代の窯跡である外浦洗田(そとうらあらいだ)遺跡がある。昭和三八年(一九六三)に発見され、調査の結果、半地下式・無階無段の登窯で、須恵器の長頸瓶・瓶・甕・坏などを焼いた土器窯であることが判明した。現在までのところ一基しか発見されていないが、おそらくは窯跡群を形成し、見分森(みわけもり)や江刺市瀬谷子(せやご)の窯跡群と同様に胆沢(いさわ)城などへ製品を供給した官窯であったと思われる。

寛永一九年(一六四二)の鶯沢村検地帳(県立図書館蔵)によれば田方一四町余・畑方二一町六反余。正保郷帳では田方一二貫二〇文・畑方一一貫四三九文、ほかに新田高七一八文。


鶯沢村
うぐいすざわむら

[現在地名]鶯沢町 北郷(きたごう)・南郷(なんごう)・袋(ふくろ)

二迫(にのはさま)川が村内を南東流し、村西の細倉(ほそくら)鉱山より東流する鉛(なまり)川は、当村端郷の袋付近で二迫川に注ぐ。二迫川右岸は丘陵が広がるが、左岸は低湿地で洪水害に悩まされていたという。北は文字(もんじ)村(現栗駒町)、南は島体(しまたい)村(現一迫町)など。康暦二年(一三八〇)一一月一五日の某証状(白鶯山文書)に「なかをくへいのこほりのちしきたうたうの事」を「さなたの四郎さへもんに今年より」与えるとあり、書止文言のあとに「二迫うくひさわの住人木ほとけ殿もたするなり」とみえ、当地に比定される。またこの証状と同じ花押をもつ応永二五年(一四一八)九月四日の鶯沢諸郷先達職預ケ状(同文書)に「二迫うくひ沢□先達」とあり、秋山大夫・源内三郎などに預けられていた諸郷の先達職の成敗権が木仏に与えられている。


鶯沢村
うぐいすざわむら

[現在地名]清里村鶯沢

櫛池(くしいけ)川左岸の山間にあり、北東は中条(なかじよう)村に接する。正保国絵図に村名がみえる。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高二九石二斗余。天和三年郷帳によれば高三五石九斗余、うち山高二石四斗二升八合。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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