朝日日本歴史人物事典 「鶴沢清七(5代)」の解説
鶴沢清七(5代)
生年:文政11.4.15(1828.5.28)
幕末明治期の義太夫三味線の名手。豊沢団平や豊沢広助と並び称された。本名浅田嘉七。大坂の生まれ。鶴沢九蔵(のち2代目勝右衛門)の門下で,天保12(1841)年広吉の名で初出座。弘化4(1847)年に師名を継いで九蔵と改め,次いで3代目勝右衛門となる。3代目竹本長門太夫や3代目清七の教えも受け,両人没後の元治1(1864)年,芝居から退いて素人浄瑠璃の育成に努めた。明治18(1885)年清七を相続。清廉高潔な人柄は義太夫界の鑑と称賛され,6代目清七ほか多くの門下を輩出した。<参考文献>柳香散史「鶴沢清七」(『新小説』1902年7月号)
(倉田喜弘)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報