豊沢団平(読み)とよざわだんぺい

精選版 日本国語大辞典 「豊沢団平」の意味・読み・例文・類語

とよざわ‐だんぺい【豊沢団平】

義太夫節三味線方二世本名加古仁兵衛。播磨国兵庫県)の人。三世豊沢広助に入門。弘化元年(一八四四)から団平を名乗る。三味線方としてははじめての文楽最高の地位紋下)につき、明治期の名人摂津大掾や大隅太夫を育てた。「壺坂」「勧進帳」などの作曲も多い。文政一〇~明治三一年(一八二七‐九八

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デジタル大辞泉 「豊沢団平」の意味・読み・例文・類語

とよざわ‐だんぺい〔とよざは‐〕【豊沢団平】

[1828~1898]義太夫節の三味線方。2世。播磨はりまの人。本名。加古仁兵衛。豊沢広助に師事。名人といわれ、明治期義太夫節の代表的太夫を育てた。「壺坂霊験記」などを作曲。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊沢団平」の意味・わかりやすい解説

豊沢団平
とよざわだんぺい

義太夫(ぎだゆう)節の三味線。

倉田喜弘]

2世

(1828―98)本名加古仁兵衛。播州(ばんしゅう)(兵庫県)加古川生まれ。竹本千賀太夫養子となり、1839年(天保10)3世豊沢広助(ひろすけ)に入門。力松、丑之助を経て、1844年(弘化1)2世広助の幼名を継いで団平となった。以来、3世竹本長門太夫(ながとだゆう)や5世竹本春太夫を弾き、また2世竹本越路太夫(こしじだゆう)(後の竹本摂津大掾(せっつのだいじょう))や3世竹本大隅太夫(おおすみだゆう)の三味線を弾き、明治文楽(ぶんらく)界を隆盛に導く大きな存在となった。『壺坂観音霊験記(つぼさかかんのんれいげんき)』『良弁杉由来(ろうべんすぎのゆらい)』『勧進帳(かんじんちょう)』など作曲も多い。明治31年4月1日、『花上野誉石碑(はなのうえのほまれのいしぶみ)』「志渡寺(しどうじ)」の段の舞台で脳溢血(のういっけつ)をおこし、没した。

[倉田喜弘]

3世

(1858―1921)2世の門弟。本名植畑九市。前名は4世豊沢仙左衛門(せんざえもん)。1907年(明治40)に襲名。じみな芸風ながら間拍子(まびょうし)がよく、堀江座や近松座へ出演したのち、晩年は東京へ移った。

[倉田喜弘]

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改訂新版 世界大百科事典 「豊沢団平」の意味・わかりやすい解説

豊沢団平 (とよざわだんぺい)

義太夫節の三味線演奏者。(1)初世 2世豊沢広助が1812年(文化9)に名のった名前。(2)2世(1828-98・文政11-明治31) 本名加古仁兵衛。播州加古川の生れ。3世豊沢広助の門弟。通称清水町。豊沢力松,同丑之助を経て,1844年(弘化1)に2世を継ぐ。65年(慶応1)には文楽の芝居で早くも三味線筆頭となり,83年には文楽座の三味線紋下,そして翌年には彦六座へ移り,没時にいたるまで紋下を勤めた。文楽座では2世竹本越路太夫(のち摂津大掾),彦六座では3世竹本大隅太夫を弾き,盛名を日本中にはせた。《壺坂》《二月堂》《勧進帳》をはじめ,新作や改作を数多く残した。明治期の名人。(3)3世(1858-1921・安政5-大正10) 本名植畑九市。大坂玉造の生れ。2世の門弟。初名豊沢九市。5世源吉,4世仙左衛門を経て,1907年に3世を継ぐ。先師の後を受けて3世竹本大隅太夫の相三味線となる。間拍子の良さは定評があった。明治後期の名人。
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百科事典マイペディア 「豊沢団平」の意味・わかりやすい解説

豊沢団平【とよざわだんぺい】

義太夫節三味線演奏家の芸名。3世まである。初世は2世豊沢広助の幼名。2世〔1827-1898〕は本名加古仁兵衛。加古川の生れ。竹本摂津大掾,3世竹本大隅太夫の三味線をひき,近世邦楽界の名人といわれた。作曲にもすぐれ,《壺坂》《良弁杉(ろうべんすぎ)》は名曲。
→関連項目壺坂霊験記

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