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正岡子規 まさおか

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美術人名辞典の解説

正岡子規

俳人・歌人。名は常規、別号に獺祭書屋主人・竹乃里人等。東大国文科中退。初め政治を志したが、哲学次いで文学に転じる。俳諧の新たな史的考察によって俳句革新を志し、次いで「歌よみに与ふる書」を発表、短歌革新にのり出し、高浜虚子らの「ホトトギス」刊行を支援した。また写生文の必要を説いて優れた随筆を発表する。カリエスによる長い病床生活を送ったが、その精力的な活動により、俳句・短歌に近代文学としての位置を確立した。明治35年(1902)歿、34才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

正岡子規

愛媛県生まれの俳人・歌人(1867~1902)。1895年初め、念願だった日清戦争への従軍が内定。戦争の指揮をとっていた広島大本営に履歴書などを提出するため同年3月に広島市に滞在し、その合間に1泊2日で呉を訪れた。子規が呉で投宿したのは1度だけで、その時詠んだのは「のどかさや檐端(のきば)の山の麥畠(むぎばたけ)」。このほか、呉港と題し、「大船や波あたゝかに鴎浮く」「呉かあらぬ春の裾山灯をともす」を詠んだ。

(2011-07-13 朝日新聞 朝刊 広島1 1地方)

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デジタル大辞泉の解説

まさおか‐しき〔まさをか‐〕【正岡子規】

[1867~1902]俳人・歌人。愛媛の生まれ。本名、常規(つねのり)。別号、獺祭書屋(だっさいしょおく)主人・竹の里人。俳句革新に着手し、俳誌「ホトトギス」により活動。また、「歌よみに与ふる書」で和歌改革を主張。写生文も提唱した。門下に高浜虚子伊藤左千夫などを輩出。句集「寒山落木」、歌集「竹の里歌」、俳論「俳諧大要」など。→日本派根岸短歌会
[補説]忌日となる9月19日は、子規忌のほか獺祭忌(だっさいき)糸瓜忌(へちまき)ともいう。

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百科事典マイペディアの解説

正岡子規【まさおかしき】

明治期の俳人,歌人。本名常規(つねのり)。別号獺祭書屋(だっさいしょおく)主人,竹の里人。伊予松山生れ。東大国文科中退。大学予備門夏目漱石と知り合う。在学中から俳句を研究,新聞《日本》の記者となり《獺祭書屋俳話》を連載して俳句革新運動を開始した。
→関連項目馬酔木アララギ運座歌論坂本四方太佐藤紅緑寒川鼠骨随筆鈴木虎雄内藤鳴雪長塚節日本(新聞)根岸俳諧俳句発句万葉調村上鬼城

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

正岡子規 まさおか-しき

1867-1902 明治時代の俳人,歌人。
慶応3年9月17日生まれ。明治25年日本新聞社入社,紙上で俳句の革新運動を展開。28年以降は病床にあり,30年創刊の「ホトトギス」,31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ,短歌の革新と写生俳句・写生文を提唱した。野球の普及にも貢献,平成14年新世紀特別表彰で野球殿堂入り。明治35年9月19日死去。36歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。帝国大学中退。本名は常規(つねのり)。別号に獺祭書屋(だっさいしょおく)主人,竹の里人。著作に句集「寒山落木」,歌集「竹乃里歌」,ほかに「獺祭書屋俳話」「歌よみに与ふる書」「病牀(びょうしょう)六尺」など。
【格言など】柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

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朝日日本歴史人物事典の解説

正岡子規

没年:明治35.9.19(1902)
生年:慶応3.9.17(1867.10.14)
明治時代の俳人,歌人。本名常規。幼名は最初処之助,のち升。号は獺祭書屋主人,竹の里人ほか。伊予国(愛媛県)生まれ。常尚,八重の長男。松山藩の下級武士だった父は明治5(1872)年に40歳で死亡。母の裁縫の内職によって生計は支えられた。幼少時,外祖父大原観山(1875年死亡)の私塾で漢学を学ぶ。松山中学入学,明治16年同校退学,上京する。翌年松山藩常盤会給費生となり大学予備門(一高)に入学,夏目金之助(漱石)を知る。18年ごろから俳句,短歌の実作に入る。21年,前年に本郷で創立された常盤会寄宿舎に入舎。8月初めて喀血。22年内藤鳴雪が舎監として就任。鳴雪はのち子規の従弟藤野古白らと共に子規に俳句指導を受け,子規派の重鎮となる。5月約1週間にわたり喀血。血を吐くまで啼くと俗にいわれるホトトギスにちなんで「子規」と号する。23年帝大哲学科に入学。翌年2月国文科に転科。このころ松山中学の後輩河東秉五郎(碧梧桐),高浜清(虚子)が書を寄せ,指導を受ける。松山からはこうして明治の俳句革新運動の担い手が輩出した。 明治25年6月の試験に落第し,退学を決意(翌年3月中退),母と妹を東京に呼ぶ。母の弟加藤拓川の紹介で陸羯南の日本新聞社に入社。月給15円だった。子規は日本新聞社入社以前より「獺祭書屋俳話」を同紙に連載し,のち明治28年に,加筆された『増補再版獺祭書屋俳話』が同社より刊行された。これは子規の最初の評論集で,俳句革新の第一声となる。彼は同時代の俳句界に覚醒をうながす見解を次々に披瀝したが,その機知と諧謔に富んだ文章は,20代半ばですでに堂々たる指導者の風格を備えていた。この一書生の啓蒙的俳論がまきおこした反響は大きく,子規は驚くべき短期間に俳句革新の仕事を成しとげた。26年ごろから洋画家浅井忠,中村不折,下村為山らを知り,写生に眼を開かれた子規はこれを俳句の方法に応用する。28年,日清戦争に従軍記者として赴き,喀血,病を悪化させて帰国。当時松山中学で英語教師をしていた漱石の下宿に2カ月ほど同居,帰京後長い病床生活に入る。 30年,柳原極堂 が松山で『ほとゝぎす』を創刊,翌31年これが東京に移され,虚子により続刊,誌名は『ホトトギス』となる。同年「歌よみに与ふる書」を発表,短歌革新に乗り出し,根岸短歌会を始める。「歌よみに与ふる書」は書簡体の形式で,直截に思うところを述べようとするジャーナリストとしての子規の鋭い感覚がよくうかがえる。「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」という冒頭の強烈な断定は有名である。31年ごろから写生文を試み,「墨汁一滴」(1901),「病牀六尺」(1902),「仰臥漫録」(1901~02)などを書く。晩年は脊椎カリエスによりほとんど病床で過ごすが,甚だしい痛苦のなか,不屈の意志力をもって,快活さと創造性を備えた韻文,散文作品を生みつづけ,その後の近代俳句,近代短歌史全体にはかり知れない影響を与えた。「いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春行かんとす」(1901),「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」(1902,絶筆)などの作がある。

(大岡信)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

まさおかしき【正岡子規】

1867‐1902(慶応3‐明治35)
明治の俳人,歌人,随筆家。本名常規(つねのり),幼名処之助(ところのすけ),升(のぼる)。別号獺祭書屋(だつさいしよおく)主人,竹の里人(さとびと)。松山市生れ。松山中学を経て東京の大学予備門に入学。予備門が校名を改称した一高を経て東大中退。1892年には日本新聞社に入社。社長の陸羯南(くがかつなん)とその交友関係から国粋発揮の思想的な影響を受けている。創作としては,少年期から漢詩を試み,のち和歌,俳句に手を染めた。

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大辞林 第三版の解説

まさおかしき【正岡子規】

1867~1902) 俳人・歌人。松山市生まれ。本名、常規。別号、獺祭だつさい書屋主人・竹の里人など。新聞「日本」・俳誌「ホトトギス」によって写生による新しい俳句を指導、「歌よみに与ふる書」を著して万葉調を重んじ、根岸短歌会を興す。また写生文による文章革新を試みるなど、近代文学史上に大きな足跡を残した。著「竹の里歌」「俳諧大要」「仰臥漫録」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

正岡子規
まさおかしき

[生]慶応3(1867).9.17. 伊予,松山
[没]1902.9.19. 東京
俳人,歌人。本名,常規。 1892年東京帝国大学国文学科を中退,新聞『日本』に入社。同紙に拠って俳句革新運動ののろしをあげ,『獺祭書屋俳話』を連載,『文界八つあたり』 (1893) ,『俳諧大要』 (1895) などを書く一方,『歌よみに与ふる書』 (1898) 以後根岸短歌会を結成して短歌革新に力を尽した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

正岡子規
まさおかしき
(1867―1902)

俳人・歌人。慶応(けいおう)3年旧暦9月17日(陽暦10月14日)伊予国温泉郡藤原新町(松山市新玉町)に生まれる。本名常規(つねのり)、幼名処之助、また升(のぼる)。別号獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)、竹の里人。父隼太(はやた)は松山藩の下級武士。政治家を志し、松山中学校を中退して、1883年(明治16)17歳のとき、叔父の加藤拓川(たくせん)を頼って上京した。やがて一ツ橋大学予備門(旧制一高の前身)に入学し、夏目漱石(そうせき)を知る。この前後に和歌や俳句をつくり始め、また人情本に親しみ落語なども好んだが、当時はやりだしたベースボールにも熱中した。一時、哲学者になろうとしたが、一方、古俳諧(はいかい)の研究を進め、友人と句作に励んだ。1889年に喀血(かっけつ)して子規と号し、翌年帝国大学文科大学(現東京大学)国文科に入学し志望が三転した。当時の新進作家幸田露伴(ろはん)の影響を受け、1891年小説『月の都』を書いたが成功せず、「僕は小説家となるを欲せず、詩人とならんことを欲す」と記して、結局俳人として生きる決意を固めた。
 1892年新聞『日本』に『獺祭書屋俳話』を連載。俳句革新運動の先駆けとなる。ついで大学を中退し、日本新聞社に入社。社長陸羯南(くがかつなん)の家の隣(当時下谷区上根岸町)に住み、終生羯南の庇護(ひご)を受ける身となった。1895年、日清(にっしん)戦争に志願して従軍し、帰途喀血、のち脊椎(せきつい)カリエスとなり、死ぬまでほとんど病床に釘(くぎ)づけになったが、その間の7、8年に子規は獅子奮迅(ししふんじん)の働きをした。発表の場は主として新聞『日本』と1897年創刊の雑誌『ホトトギス』で、洋画家中村不折らとの交流により、俳句に自然を描写する写生の重要性を悟り、また蕪村(ぶそん)の絵画的で自在な句境を学び、従来の月並や理屈を排して若い作者の中心となり俳句の革新を進めた。おもな俳論に『俳諧大要』(1895)、『俳人蕪村』(1897)などがある。1898年には和歌の革新に乗り出し、『歌よみに与ふる書』を発表して因襲にとらわれる旧派の歌人を攻撃し、『百中十首』(1898)をもって、当時としては破天荒の斬新な手法による短歌を示した。
 子規の俳句は自筆の稿本『寒山落木』全5巻、『俳句稿』全2巻などに2万近く収められ、短歌は『竹乃里歌』に記され、補遺をあわせて2400首ほど。晩年に近づくにつれて俳句も短歌も境涯を生かした至純な境地に進んだのは、『万葉集』からの摂取、また病苦の深まりによるものである。「(けいとう)の十四五本もありぬべし」「さまざまの虫鳴く夜となりにけり」「いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす」などの作は有名なもの。明治35年9月19日没。
 子規は新体詩、小説にも手を染めたが、随筆『墨汁一滴』(1901)、『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』(1902)、とくに日記『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』(1901~02)に率直な人間性がみられる。また経験を平明に客観的に書く写生文も提唱して、後世の平易な日本語の成立にも少なからぬ影響を与えた。彼の俳句は、『ホトトギス』に拠(よ)る高浜虚子(きょし)らに、短歌は『アララギ』に拠る伊藤左千夫(さちお)らに継承された。1981年(昭和56)郷里松山市に子規記念博物館が開館した。[宮地伸一]
『『子規全集』22巻・別巻3(1975~78・講談社)』

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世界大百科事典内の正岡子規の言及

【歌よみに与ふる書】より

正岡子規の歌論。1898年(明治31)2月12日~3月4日《日本》に連載。…

【映画】より

…〈活動写真〉ということばは福地桜痴が使い出したという説もあり,《東京日日新聞》がバイタスコープを〈便宜により邦語活動写真と称す〉と記したのがこの用語が定着するきっかけになったといわれる。1902年に正岡子規は,その病床日記(《病牀(びようしよう)六尺》)に〈自分の見たことのないもので,一寸見たひと思ふ物〉としてまず第1に活動写真をあげており,またほぼ同じ時期に〈活動写真〉という玩具について次のように書いている。〈今一つの玩器(おもちや)は,日比野藤太郎先生新発明の活動写真といふので,これは丁度,トランプ程の大きさの紙が三十枚程揃へてあって,それには相撲の取組んで居る絵が順を追ふて変化するやうに画いてある。…

【歌論】より


【近・現代】
 近代および現代では,印刷技術の普及および新聞,雑誌の発達を背景としておびただしい数の〈歌論〉が発表された。《二六新報》に発表された与謝野鉄幹の〈亡国の音(おん)〉(1894),《日本》に発表された正岡子規《歌よみに与ふる書》(1898),和歌革新運動の推進力となったこの二つの〈歌論〉が,早い時期のものとしてまず注目されるのである。近・現代の文学状況は小説中心に展開した。…

【紀貫之】より

…勅許を得て和泉の国に創建した船守神社から帰京の途中,蟻通し明神の祟りを受けて馬がたおれたときに和歌を奉納した逸話(《袋草紙》,謡曲《蟻通》など),藤原公任が具平親王と人麻呂・貫之の優劣を論争したこと(《袋草紙》),順徳院が《八雲御抄》に〈貫之さしもなしなどいふ事少々聞ゆ。歌の魔の第一也〉と記していること,近代になって桂園派の観念的な歌風を打破しようとした正岡子規が,和歌の即興性を重んじた貫之を理解しえずして《歌よみに与ふる書》で〈貫之は下手な歌よみにて,古今集はくだらぬ集に有之候〉と極論したように,歌人としての貫之の評価にかかわるものばかりであった。【萩谷 朴】。…

【写生文】より

…文芸用語。正岡子規が俳句で活用した〈写生〉を文章にも用いてつくり出した新文体をいう。子規の《小園の記》(1898),高浜虚子の《浅草寺のくさぐさ》(1898)などを最初とし,《ホトトギス》での誌上募集もあり,1900年からは病床の子規の枕頭で写生文を読む〈山会〉ももたれた。…

【根岸短歌会】より

…明治時代の短歌結社。和歌の革新にのり出した正岡子規を中心に東京上根岸の子規庵で始められた歌会。1899年(明治32)3月14日に香取秀真(かとりほずま),岡麓(ふもと)らが集まったのを第1回とし,以後回を重ねるごとに活発となり,伊藤左千夫,長塚節らが参加した1900年には最盛期を迎えた。…

【俳諧】より

…なおまた,その過程では雑俳川柳など,より庶民的な文芸をも派生させている。このように大衆化すればするほど,俳諧は享保俳壇や天保俳壇のようにはなはだしく卑俗化する傾向にあるが,それも天明中興期の蕪村らによる高踏的・浪漫的改革運動(天明俳諧)や,正岡子規らの俳句革新運動の洗礼を受けてみごとに再生し,近代の俳句にまでよく俳諧の伝統を持ち伝えていったのである。ただ,明治以後は俳諧之連歌(連句)も多少は行われたが,子規が革新運動で〈連句非文芸論〉を唱えるころにはしだいに影が薄くなり,もっぱら発句だけが〈俳句〉の名のもとに創作され,鑑賞されるようになった。…

【俳諧大要】より

正岡子規の俳論書。1899年,ほとゝぎす発行所刊。…

【俳句】より

…〈俳諧の句〉を縮約した〈俳句〉という語は,俳諧集《尾蠅(おばえ)集》(1663),上田秋成の《胆大小心録》(1808)などに用例がある。しかし,江戸時代には一般化せず,この語が5・7・5音の組合せを基本にした定型詩を指すようになったのは,明治時代,すなわち正岡子規による俳句革新が行われた過程においてである。それまでは発句(ほつく)という言い方が普通であった。…

【俳論】より

…貞享期(1684‐88)の古風に帰ることを主張した麦水の《蕉門一夜口授(くじゆ)》(1773),自然の姿を重んじ私意を排すべしとする白雄の《加佐里那止(かざりなし)》(1771),《冬の日》《春の日》の高邁を慕い,俗語を用いて俗を離れることを説いた蕪村の《春泥句集》序(1777)などが名高い。 明治以降,俳文学の近代化をめざした正岡子規は,《獺祭書屋(だつさいしよおく)俳話》(1893)などで芭蕉の偶像化を批判し,伝統的な連句形式や月並俳諧を否定した。当時の文壇を風靡した自然主義は,河東碧梧桐の〈無中心論〉や,荻原井泉水の〈季題無用論〉などを生んだ。…

【ペンネーム】より

…著者・執筆者が作品発表にあたって本名のかわりにつける作者名。筆名ともいう。中国では古くから,親のつけた実名・幼名のほかに自称の字(あざな)や雅号が文人のあいだで尊重されてきた。日本でもとくに詩文については雅号で互いに呼び合うという慣習が続いたが,その雅号もペンネームとみることができる。ヨーロッパでも近代になると,また日本でも明治時代になると,発表する作品ごとに筆名を変えるため一人で生涯におびただしい数の筆名をのこした作家・評論家が出現した。…

【ホトトギス】より

…俳句雑誌。松山の俳句団体松風会を母体とし,正岡子規を指導者として,1897年1月に創刊。翌年10月東京に移して高浜虚子が経営。…

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