鷲塚村(読み)わしづかむら

日本歴史地名大系 「鷲塚村」の解説

鷲塚村
わしづかむら

[現在地名]碧南市あさひ町・神有かみあり町・鷲林わしばやし町・荒子あらこ町・笹山ささやま町・二本木にほんぎ町・鷲塚町・天神てんじん町・城山しろやま町・鴻島こうじま町・霞浦かすみうら町・新道しんみち町・日進につしん町・尾城おじろ町・堀方ほりかた町・北浦きたうら町・縄手なわて

矢作川の右岸に位置する。北はあぶらヶ淵をもって根崎ねさき(現安城市)と境し、東は矢作川で中畑なかばた(現西尾市)に対し、南は伏見屋ふしみや新田に、西は大浜おおはま村に隣する。古代幡豆はず志貴しき庄に属したが、中世に矢作川の改修で碧海へきかい郡に編入。村の草分は神谷・河原・大岡・片山・与吾・青木・鷲塚で、「鷲塚の七軒」といわれる。村域内の願随がんずい寺・蓮成れんじよう寺・等覚とうかく坊・照光しようこう寺は中世以前の創建である。刈谷城主水野信元の弟忠重は、永禄六年(一五六三)一時鷲塚に閑居したといい(「神武創業録」三河志)城山しろやまの地名が残る。

鷲塚村
わしづかむら

[現在地名]小杉町鷲塚

大手崎おおてさき村の北東に位置し、北陸街道が通る。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(新田家文書)に「中郡わし塚」とみえ、同所の五六二俵余が佐々成政から林助右衛門尉に与えられている。寛永二年(一六二五)一二月の知行所目録(中川家文書)には「中郡鷲塚村」とあり、当村の一二一石余が前田利光から津田左京と沢田少二郎に与えられている。正保郷帳によると高九四三石余、田方五五町五反余・畑方七町三反余。

鷲塚村
わしづかむら

[現在地名]福井市川合鷲塚かわいわしづか

九頭竜くずりゆう川右岸に位置し、北は坂井郡針原はりばら(現春江町)、東は定正さだまさ石森いしもりの両村に接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川合庄に含まれたと考えられる。正保郷帳に村名がみえ、田方一千九一六石余・畠方一二〇石余。福井藩領。

安永二年(一七七三)福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によると、田方一千九二六石七斗余・八六町四反、畑方一一〇石・四町九反余。家数一〇五・人数三八八。農閑余業は縄・苧。馬一一疋。用水は河合春近かわいはるちか用水。八幡宮・神明宮があり祭礼は二月一五日・九月九日とある。享和四年(一八〇四)二月の宗門改帳(加藤家文書)では家数九九・人口四七七。

鷲塚村
わしづかむら

[現在地名]春江町藤鷲塚ふじわしづか

北東は兵庫ひようご川を隔てて東長田ひがしながた(現坂井町)、南は九頭竜くずりゆう川の支流磯部いそべ川を挟んで随応寺ずいおうじ村と接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では江留えとみ庄に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方一千三七八石余・畠方二七石余。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、元禄一〇年(一六九七)葛野藩領、のち再び幕府領となったが文政三年(一八二〇)福井藩預領となる。天保九年(一八三八)の村明細書上帳(大連家文書)によると、高一四〇六・三四石、うち田方一千二〇九石余で五二町三反余、畑方一九七石余で八町八反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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