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鎌倉彫刻 かまくらちょうこく

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鎌倉彫刻
かまくらちょうこく

平安時代後期の藤原彫刻が当時の貴族文化を反映して,優美平明で女性的特色をもっていたのに対し,これに続く鎌倉時代の彫刻は,仏教が武士や庶民に広く浸透し,また中国の宋彫刻の影響を受けて,力強い男性的な写実主義を中心としたものに代表される。こうした鎌倉彫刻の特色は,治承4 (1180) 年,平重衡の兵火に焼けた東大寺,興福寺の復興事業が一つの大きな要因と考えられるが,そのなかで仏師運慶の活躍が特筆される。運慶とともに鎌倉時代の新様式樹立に貢献した快慶を中心としたいわゆる慶派の活躍は,当時京都を中心に伝統的様式を重んじて制作を続けていた院派円派を圧倒し,その後も湛慶康弁,康勝,定慶らの子弟によって受継がれた。また当代にはすぐれた肖像彫刻が行われ,東大寺俊乗堂の『重源像』などは写実の妙を得た傑作。さらに当代に興った特有の肖像彫刻として禅宗の頂相彫刻と俗体形彫刻があり,興国寺の『法灯国師像』,円覚寺の『仏光国師像』などの個性的表現の頂相,明月院の『上杉重房像』,建長寺の『北条時頼像』,東京国立博物館蔵の『源頼朝像』などの俗体像の優品があげられる。また鎌倉地方でも多くの仏像が制作されるようになったが,それらは概して中国の宋時代の影響の強いものといえる。また復古主義的精神の現れの一つとして,清涼寺式釈迦像や善光寺式阿弥陀三尊像が各地で模刻されるようになった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鎌倉彫刻
かまくらちょうこく

優美典麗を旨とする藤原文化は、武家ではあるが公卿(くぎょう)化した平氏に受け継がれ、いっそう繊細化したが、武家の鎌倉幕府へ政権が移る時期に南都奈良の焼亡(1180)という不幸な事件があり、それが新しい鎌倉彫刻への転換には願ってもない機会となった。その復興にあたって、新しい時代は藤原風を否定し、天平(てんぴょう)・平安初期の古典から学んだ新しい写実傾向と、宋(そう)代美術の影響を加味することによって、新しい様式をつくりあげることに成功した。
 11世紀前半に活躍した定朝(じょうちょう)が生んだ様式は、藤原貴族の理想像として一世を風靡(ふうび)したが、しだいに形式化した魅力の乏しいものになり、12世紀後半には、これに飽き足らず、定朝様式を乱してゆこうとする傾向が、当時の文化的中心京都からやや離れた近畿周辺の各地におこった。その急先鋒(きゅうせんぽう)というべきものが奈良の仏所であり、康慶・運慶の父子をもつ慶派仏師たちであった。彼らは京都で勢力を振るっていた院派、円派の仏師たちと同様、定朝の流れをくむ人たちだが、早く京都を離れ興福寺仏所に属し、造仏に従事していた。康慶の当時の作品は残っていないが、その子運慶が1176年(安元2)につくった奈良円成寺(えんじょうじ)の大日如来(だいにちにょらい)像(父康慶の影響がこの像に及んでいることは推察される)をみても、その鋭く緊張した面貌(めんぼう)や引き締まった体躯(たいく)など藤原彫刻と異なった要素をもっていることがわかるし、翌77年(治承1)に「法橋□慶」という慶派仏師の作になる静岡瑞林寺(ずいりんじ)の地蔵菩薩(ぼさつ)像にも、後の運慶様の萌芽(ほうが)をみることができ、そのころの慶派仏師の傾向がうかがわれる。また康慶が文治(ぶんじ)年間(1185~90)につくった興福寺南円堂不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)、法相六祖(ほっそうろくそ)像からみても、当時、康慶は、おそらく中国宋(そう)代彫刻などに学んだと思われる複雑な衣文(えもん)に代表される写実的傾向や、天平復古の動向をみせていたと想像される。こうした要素をさらに集約的に完成させたのが運慶であり、単なる天平復古以上に日本彫刻の集大成ともいうべき運慶様式をつくりあげている。こうした新様の成立に拍車をかけたのは1180年の兵火に焼けた南都の復興事業で、失われた古仏をできるだけもとの姿に近く再現する努力が復古の傾向を決定的にした。またこのころ中国から将来された宋の仏像や仏画も仏師の手本になった。生々しいほど写実的で、衣文の複雑な動きをみせる宋代の美術も、写実に目覚めつつあった日本の彫刻に影響するところがあったと思われる。写実傾向は玉眼(ぎょくがん)という技法をも採用させた。そのもっとも早い例が1151年(仁平1)の奈良長岳寺阿弥陀(あみだ)三尊像であり、変革はすでにそのころに始まっている。この時代の肖像彫刻の流行も、そうした写実精神の表れである。
 当時の彫刻界の主流、院派や円派が時の権力者だった朝廷や平家と強く結び付いたのに対し、運慶は新しく政権を握った鎌倉武士団に受け入れられ、伊豆(静岡県)願成就院(がんじょうじゅいん)や相模(さがみ)(神奈川県)浄楽寺などの像をつくっており、これらの像の作風は後の運慶様の基礎となっている。その後、運慶一門のつくった興福寺北円堂の弥勒(みろく)、無著(むじゃく)・世親(せしん)像などは、1212年(建暦2)ごろ完成した鎌倉彫刻の最高傑作ともいうべきものである。
 また慶派一門から出た快慶の作風は安阿弥(あんあみ)様とよばれ、運慶と違った繊細な美しさ、整った理知的な感じの作が多く、宋風の影響を受けてもいる。東大寺の僧形八幡(そうぎょうはちまん)神像や、同寺公慶堂の地蔵菩薩像はその代表作である。
 運慶や快慶によって確立された鎌倉様式は運慶の息子たちに受け継がれ、運慶の長子湛慶(たんけい)のつくった高知雪蹊寺(せっけいじ)の毘沙門天(びしゃもんてん)三尊や京都蓮華王院(れんげおういん)(三十三間堂)の本尊千手観音(せんじゅかんのん)坐像など、落ち着いた、力を内に秘めた名作があり、三子康弁の興福寺天灯鬼・竜灯鬼像、四子康勝の京都六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の空也上人(くうやしょうにん)像、慶派一門に属すると思われる定慶(じょうけい)の作も鎌倉様式を踏襲したものである。
 また鎌倉彫刻の特色の一つとして、仏師集団の徹底した組織化があり、1203年(建仁3)東大寺南大門の金剛(こんごう)力士像がたった72日間で完成していること、興福寺北円堂の造像に運慶自身は手をつけていないが、運慶様を忠実につくりだすことのできる仏師たちによって、運慶の指揮のもとにつくられていることなどは、その表れといえよう。
 しかし、鎌倉彫刻の全盛も長くはなかった。初期ほどの造仏が行われなくなると、膨張した仏師組織を支えるのがむずかしく、いたずらに末技に走り発展性に乏しくなったことも原因だが、鎌倉彫刻自体のもつ写実性のゆえもあった。
 天平彫刻が写実性に富むことは周知のとおりだが、その特長は人間の理想の姿を仏の形にまで昇華させたことにある。だが鎌倉彫刻では仏の姿を人間の形に当てはめようとした。同じ写実でも、そこには質の相違があり時代精神の違いがあった。鎌倉彫刻の写実性が高い品格と精神性に支えられている間は多くの力作をつくりだしているが、中期以後になると写実を追求するあまり、その面貌はまったく人間臭く、衣のひだなども宋風彫刻の影響で細かく乱れ、いたずらに複雑さだけを目だたせることによって事足れりとするに至ってしまう。いわば写実の形式化であり卑俗化であった。これが当時の仏教の民衆化と相まってますますその傾向を強め、その後にあるものは写実の行きすぎと低俗さが目だつだけのもので、彫刻としての格調は下り坂の一途をたどっていった。
 ただ、そうした風潮のなかで、中期以後にあっては、当時の政治的中心であった鎌倉地方で、運慶様と宋風との融合のもとに、個性的な作品を多く生み出し、その作風はその後室町時代に至るまで長く維持されたのであるが、これは東国人の趣向が激しい運慶様に共感するところがあったゆえであろう。[佐藤昭夫]
『毛利久著『日本の美術11 運慶と鎌倉彫刻』(1964・平凡社) ▽三山進文、矢萩和己写真『鎌倉の彫刻』(1966・東京中日新聞出版局) ▽伊藤延男・小林剛著『原色日本の美術9 中世寺院と鎌倉彫刻』(1968・小学館)』

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