鷹栖村(読み)たかのすむら

日本歴史地名大系 「鷹栖村」の解説

鷹栖村
たかのすむら

[現在地名]砺波市鷹栖

苗加のうか村の西にある大村で、北は神島かみじま村、南は本江ほんごう(現福野町)など。庄川旧流の野尻のじり川とみや川の中洲から起こった村と考えられ、小字に四津屋島よつやじま無佐島むさじま中の島なかのしま焼馬島やけうまじま五斗割島ごとわりじま仮又島かりまたじま瘧師島ぎやくしじま黒河島くろごじま中谷島なかやじま放生島ほうじようじま大道島おおみちじま寺島てらしま宮木島みやきじまなど、中洲からの開発の名残を示すといわれる島のつく地名が残る。南西部の下焼馬しもやけうま・黒河・神吾じんごなどは野村島のむらじま村から苗加村の南部に続く野尻川氾濫原で、元和年間(一六一五―二四)に開発された(鷹栖村史)。当地に伝わる伝承では、寿永二年(一一八三)倶利伽羅くりから峠での合戦で木曾義仲に打破られた平家の武士小倉六右衛門は白羽の鷹を追ってこの地に至り土着して郷士となり、鷹の巣籠った森にちなんで鷹栖村と名付けたという。また中世土豪の館跡といわれる庄官屋敷跡がある。庄官屋敷は小字の上島かみしま・無佐・黒河にまたがり、同所が小倉六右衛門の居所といわれる。


鷹栖村
たかすむら

[現在地名]旭川市東鷹栖一条ひがしたかすいちじよう東鷹栖二条ひがしたかすにじよう東鷹栖三条ひがしたかすさんじよう東鷹栖四条ひがしたかすよじよう東鷹栖一線ひがしたかすいつせん東鷹栖二線ひがしたかすにせん東鷹栖三線ひがしたかすさんせん東鷹栖四線ひがしたかすよんせん東鷹栖五線ひがしたかすごせん東鷹栖六線ひがしたかすろくせん東鷹栖七線ひがしたかすななせん東鷹栖八線ひがしたかすはちせん東鷹栖九線ひがしたかすきゆうせん東鷹栖十線ひがしたかすじつせん東鷹栖十一線ひがしたかすじゆういつせん東鷹栖十二線ひがしたかすじゆうにせん東鷹栖十三線ひがしたかすじゆうさんせん東鷹栖十四線ひがしたかすじゆうよんせん東鷹栖十五線ひがしたかすじゆうごせん東鷹栖東一条ひがしたかすひがしいちじよう東鷹栖東二条ひがしたかすひがしにじよう東鷹栖東三条ひがしたかすひがしさんじよう柏木かしわぎ旭岡あさひがおか東山ひがしやま緑台みどりだいなど、上川郡愛別あいべつ町字愛別など、比布ぴつぷ中町なかまち一丁目など、鷹栖町北一条きたいちじよう一丁目など、上川町中央町ちゆうおうちようなど

明治二五年(一八九二)から同三〇年まで存続した村。


鷹栖村
たかのすむら

[現在地名]綾部市鷹栖町・あさひ町・東山ひがしやま

山家やまが村のうちに属し、由良川右岸および支谷上林かんばやし川下流域右岸の段丘に位置する。北は上林の十倉とくら村・八田やた安国寺あんこくじ村、西は西原にしばら村。

近世山家藩領。近世初期、村の中央部に山家陣屋の町場がつくられ村から分離した。町場北方の若狭街道沿いに塩谷しおたにとよぶ小集落があり、その北の山間に朝金あさがね山入やまゆりとよぶ小集落がある。山入について「丹波負笈録」は「家数拾弐軒、山家町札場より道距三拾壱町弐拾七間、方角戌之方に当ル、右古来より之枝村ニ高分リ不申候、起立年数不知候」と記している。


鷹栖村
たかすむら

[現在地名]上川郡鷹栖町北一条きたいちじよう一―三丁目・北野西一条きたのにしいちじよう一丁目・北野西二条きたのにしにじよう一丁目・北野西三条きたのにしさんじよう一―二丁目・北野西四条きたのにしよじよう一―二丁目・北野西五条きたのにしごじよう一―二丁目・北野東一条きたのひがしいちじよう一丁目・北野東二条きたのひがしにじよう一―二丁目・北野東三条きたのひがしさんじよう一―二丁目・北野東四条きたのひがしよじよう一―二丁目・北野東五条きたのひがしごじよう一丁目・南一条みなみいちじよう一―六丁目・南二条みなみにじよう一―四丁目

大正一三年(一九二四)六月、上川郡鷹栖村が東鷹栖ひがしたかす村と改称し、すぐに東鷹栖村江丹別えたんべつ(現旭川市)および鷹栖村の三村に分れ、そのうちの鷹栖村にあたる。明治二〇年(一八八七)の「ヲサラツペ」原野・同林野の殖民地撰定に次いで、同二四年五月から区画測設が行われ、同年小暮粂太郎らがチカプニ原野に移住した。「撰定第一報文」には「ヲサラツペ林野」四八三万坪、「オサラツペ草原」三九七万坪とあり、肥沃で耕作に適当とされている。翌二五年二月、石狩川右岸の広大な地域に鷹栖村が成立。オサラッペ原野には明治二六年岩手県団体、翌二七年山梨県団体・徳島県団体、同三九年滋賀県団体などが入植、同時に農場が進出し、明治二七年に松平まつだいら農場一三戸・宮腰みやこし農場二〇戸、同二八年田中たなか農場二〇戸、同三三年大倉おおくら農場一〇戸・藤野ふじの農場四〇戸、同三七年石丸いしまる農場、同三九年神部かんべ農場一七戸・谷口たにぐち牧場一五戸などが開設された。


鷹栖村
たかすむら

明治三〇年(一八九七)から同三九年まで存続した村。明治三〇年七月鷹栖村から愛別あいべつ村が分村して新たに鷹栖村が成立。同三一年一一月第七師団が近文ちかぶみに設置されることが決定。同年下江丹別しもえたんべつ(現嵐山)に真宗大谷派説教所(のちの真龍寺)を開設。新潟県の松崎安之助ら二〇戸が上江丹別の又六士別またろくしべつ(現拓北)に入植。同三二年一月一線いつせん九号に近文郵便局開局。四月必富ぴつぷ(現比布町)に東尋常小学校開校。九月蘭留らんるで藤島慶五郎が澱粉工場、阿部与之助が石灰製造を開始。同三三年四月下江丹別―忠別太ちゆうべつぶとの間の石狩川に渡船場を開設。一一月第七師団歩兵第二六連隊・同二七連隊・同二八連隊・騎兵第七連隊・野戦砲兵第七連隊・輜重兵第七大隊・工兵第七大隊が札幌から近文兵舎に移駐。


鷹栖村
たかすむら

明治三九年(一九〇六)から大正一三年(一九二四)まで存続した村。明治三九年四月鷹栖村から比布ぴつぷ村が分村して新たに鷹栖村が成立。同月二級町村制施行。また十一線じゆういつせん九号に巡査駐在所・村医診療所を設置。同年九月二線にせん六号に北海人造肥料株式会社を設立。同四〇年九月近文ちかぶみ土功組合が通水式を実施。一一月村内に電話架設。同四二年四月一級町村制施行。同四四年一月近文駅を開設。同四五年一月合資会社鷹栖商会が味噌・醤油の製造を開始。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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