鹿屋院(読み)かのやいん

日本歴史地名大系 「鹿屋院」の解説

鹿屋院
かのやいん

現鹿屋市域のうち、南部および西部の海岸地域を除く一帯で、肝属きもつき川上流域を中心とする。「和名抄」所載の大隅国姶羅あいら郡鹿屋郷が平安時代後期に国衙領として再編されたものと考えられる。鹿野屋・茄屋とも書かれる。大隅国建久図田帳には大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)領として鹿屋院内恒見つねみ八町のほか、島津庄寄郡として鹿屋院八五町九反とある。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)では、正八幡宮の修理検校兼順に鹿屋恒見分として八尺、島津庄寄郡の鹿屋院分として地頭名越公時に八丈五尺九寸の石築地役が割当てられている。

〔弁済使職の伝領〕

建久九年(一一九八)二月二二日、島津忠久は源頼朝から当院弁済使名田を宛行われた(「関東御教書案」島津家文書)。しかし建仁三年(一二〇三)比企氏の乱に縁座していったんすべての所職を失い、ほどなく薩摩国分は回復したものの、大隅国・日向国については鎌倉期を通じて失ったままであった。同三年一一月一〇日ならびに同四年一月一八日の島津庄政所下文(肝付文書、以下肝付文書は省略)によれば藤原義広が当院などの弁済使となった。両下文によれば肝属郡の大部分を除き、当院をはじめとする大隅半島の島津庄の主要部分の弁済使職が、前地頭島津忠久により押領されていた。弁済使となった義広は在地の庄官の代表的地位にあった人物で、藤姓富山一族と思われる。

建暦元年(一二一一)八月四日、伴(肝付)兼広が当院の弁済使職に補任されている(島津庄預所下文)。兼広は肝付氏祖兼俊の弟(萩原氏と号する)兼任の孫とされる(肝属氏系図)以後、寛元二年(一二四四)八月二日には兼広の次男兼賢、建長四年(一二五二)七月には兼賢の次男兼世(千寿丸)が同職に補任された。康元元年(一二五六)以後、地頭代の押領があり、当院弁済使職をめぐる一族間の係争は、この押領と深くかかわっていたとみられる(元徳二年八月日鹿屋院雑掌兼信申状・鹿屋院惣地頭代官等押領田在家山野注文)。しかし兼世は弘長元年(一二六一)七月に年貢未進などにより収納使に訴えられ、代わって兼賢の嫡男実兼が補任された。翌二年八月、文永七年(一二七〇)八月にも実兼に補任状が出されており、同職をめぐって実兼と兼世の間で相論が継続していたものと思われる。文永九年八月には右馬允実包(左馬允実兼か)、弘安四年(一二八一)八月には実兼が同職に補任されており(以上、島津庄預所下文)、代々肝付氏支族萩原氏が当院の弁済使職に補任された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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