鹿野浦
かのうら
[現在地名]相川町南片辺・北片辺
戸中と南片辺の中間にあり、南片辺と北片辺両方の地籍に入る。鹿野浦川・中ノ川・京塚川の三本の川の流砂によって開けた地。南側の戸中から続く旧道の坂道は、四十二曲りといい、川路聖謨の「島根のすさみ」にも記される海府道最大の難所。渚に迫る水田から七―八世紀頃の素焼の製塩土器と開元通宝・熙寧元宝などの唐・宋銭が出土。県道山手の段丘上には経塚平・地獄平・笛吹野などの地名も残り、初期唐津焼の小徳利の破片なども発掘され、近世初頭までここに集落があったとみられる。元禄七年(一六九四)の北片辺村の検地帳(北片辺区有)によると、この辺りの水田面積は約三町四反歩。耕作者のほとんどが北片辺居住者で、当地の住人が、近世初頭に北片辺に移住したと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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