中国の黄河(こうが/ホワンホー)の中・下流域とその支流流域に発生し栄えた文明。黄河はその源を青海(せいかい/チンハイ)省に発し、甘粛(かんしゅく/カンスー)、寧夏(ねいか/ニンシヤ)、内モンゴル、陝西(せんせい/シャンシー)、山西(さんせい/シャンシー)の各省を経て河南(かなん/ホーナン)省中部に達し、やがて孟(もう)県以東で華北(かほく/ホワペイ)平野に流下する。その間、陝西、山西の黄土地帯を南下するとき、多くの支流から運び込まれた大量の土砂を含み、これが下流域に堆積(たいせき)したため、黄河下流の流路はきわめて不安定で、2年に一度といわれるほど頻繁に氾濫(はんらん)を繰り返し、水路もしばしば変わった。このような黄河の性格のため、中国の古代文明が発生したのは、下流ではなく中流域であった。文明が大河の定期的氾濫によってもたらされた肥沃(ひよく)な土壌を基盤に、肥料いらずの灌漑(かんがい)農業として成立したという図式は、黄河の場合には当てはまらない。黄河文明が黄河流域の黄土の沖積平原に発達したことは事実であるが、黄河の本流のほとりなどはとうてい人の生活できる場所でなく、黄河の支流に臨む小高い丘陵地が選ばれた。
中国においては早くから更新世(洪積世)の時代に人類が現れている。更新世の人類の化石と旧石器時代の遺跡は100か所以上もあり、全土に旧石器文化が分布しており、かならずしも黄河流域に限定されるものではない。華北の旧石器文化の発展は、大形剥片(はくへん)からつくられた石器をもつ文化と、小形剥片からつくられた細石器を特徴とする文化の二つの発達系統に大別される。そして前者は華北の磨製石器を中心とする新石器時代の農耕文化に発展してゆき、後者は狩猟を中心とした文化に展開したものと考えられている。旧石器時代から新石器時代への発展のメカニズムにはまだ不明な部分があるが、中国の農耕文化の起源は中国独自のものである可能性が高い。
[横田禎昭]
黄河文明の起源は新石器時代に求めることになるが、これまで彩陶(さいとう)で代表される仰韶(ぎょうしょう)文化がもっとも古いと考えられていた。しかし、1970年代の後半に入って、仰韶文化に先行する新石器時代初期文化の存在が知られるようになった。河南省新鄭(しんてい)県裴李崗(はいりこう)遺跡に代表される裴李崗文化と、河北(かほく/ホワペイ)省武安県磁山(じざん)遺跡に代表される磁山文化である。この二つは年代もほぼ同じで、文化内容もきわめて類似する同系統の農耕文化である。遺跡はそれぞれ川に臨む台地にあり、人々は集落を営み定住生活を行っていたが、その規模は小さい。住居は円形や方形の半地下式の竪穴(たてあな)で、その周囲には穀物用の貯蔵穴がつくられた。石製の鋤(すき)先を用いてアワが栽培され、イヌ、ブタ、ニワトリ、ヒツジなどの家畜も飼われた。土器は泥質と砂まじりの紅陶であるが、彩陶はみられない。ほかに有脚の柳葉形の石皿や、少数だが装身具もある。裴李崗文化では共同墓地が発掘され、単独の埋葬を中心とした多数の墓がみつかっており、すでに土器や石器などの副葬品を伴っている。C‐14による年代は紀元前5935~前5195年を示している。このように農業をおもな生業として定住的生活を営んだ新石器初期文化こそ、黄河文明の最初の姿であった。
[横田禎昭]
仰韶文化は新石器時代晩期に黄河中流域を中心に栄えた農耕文化で、すでに完全に定住生活を営み、アワやキビなどの穀物のほかにカラシナなどの蔬菜(そさい)を栽培し、またイヌやブタなどの家畜を飼育するとともに、並行して狩猟や漁労も行われた。集落は規模の大きなものとなっていたが、水害や外敵を避けるため河床より高い丘陵上に環濠(かんごう)を巡らした内側に営まれ、その外側に窯業場や公共墓地がある。居住地広場の中央には集会所とみられる大きな住居を中心に、その周りに多くの円形や方形の半地下穴式住居が建てられた。そして住居の周囲には地下穴式の貯蔵穴があって、内部には相当量のアワの堆積しているものもあり、華北の乾燥地に適応したアワ耕作が、かなり高い水準に到達していたことを示している。それはまた、石器や骨角器などの生産用具からも知ることができる。
社会組織は氏族制であったが、女性中心の埋葬法から母系的な社会と考えられている。仰韶文化はC‐14による年代によれば前五千年紀に始まって前2500年ごろまでの相当長期間にわたって継続した文化であるため、仰韶文化を一元的、かつ各地域において同じような経過をたどって推移してきたものとは考えがたく、時代による推移の差異や地域差が複雑に交錯している。代表的なものに陝西省西安(せいあん/シーアン)市東郊の半坡(はんぱ)遺跡の最下層を標式とする半坡類型と、河南省陝県廟底溝(びょうていこう)遺跡の下層を標式とする廟底溝類型とがあり、半坡類型のほうが古い。土器は細泥紅陶と砂まじりの灰陶が主で、人面文、魚文、鈎葉(こうよう)文などを描いた彩陶は仰韶文化の一つの重要な特徴にすぎない。仰韶文化の分布はきわめて広範囲で、陝西省南部、山西省南部、河南省西部一帯の黄土高原を中心に、東は河南省東部と河北省南部、南は湖北(こほく/フーペイ)省北部の漢水(かんすい/ハンショイ)上・中流域、西は渭河(いが/ウェイホー)上流および黄河支流の洮河(とうが/タオホー)流域、北はオルドス付近にまで達しており、その周辺地域の湖北省、四川(しせん/スーチョワン)省、東北などの彩陶を伴う地方文化にも大きな影響を与えた。しかし、一方において揚子江(ようすこう/ヤンツーチヤン)下流には、仰韶文化に劣らぬくらい古い河姆渡(かぼと)文化や、山東(さんとう/シャントン)方面には仰韶文化に並行する大汶口(だいぶんこう)文化があり、それぞれが相互に関係をもちながらも、系譜的には各地域の土着の在来文化を継承したものであるため、中国の先史文化は多元的で、しかもきわめて多様性をもっていることを認めざるをえない。しかしながら、華北においては、黄河中・下流域が高文明を生み出す、一つの重要な核としての諸要素をはらんでいたことも注目すべき事実である。
[横田禎昭]
仰韶文化にかわって前2500~前1700年ごろまで黄河流域を中心に栄えたのは竜山(りゅうざん)文化である。この地域の竜山文化はほとんどの場合、仰韶文化と殷(いん)文化層との間に重なって発見されており、仰韶文化と竜山文化が連続する新石器時代の文化であることを示している。竜山文化の広がりは仰韶文化よりもはるかに広い地域に及んでいる。土器もろくろを使い緻密(ちみつ)で堅く卵殻のように薄く、優美な造形とよく磨かれた黒陶がつくられた。黒陶には鼎(かなえ)、鬲(れき)、斝(か)、甗(げん)、(き)などの三足器があり、こののちずっと続く中国の陶器や青銅器の基本的な器形がこの時代にだいたい出そろう。このことは土器製作の専業化がかなり高度に進行していることを示している。また、仰韶文化にはまったくみられなかった、動物の肩甲骨を焼いて吉凶を占う風習が始まった。住居はやはり竪穴式であったが、床面を石灰で塗り固めるものが盛行した。社会組織は氏族制であるが、完全に父系制となっていた。生産用具の磨製石器は一段と精巧なものとなり、石や貝製の鎌(かま)、骨製の鋤(すき)、木製の鋤(耒(らい))など新しい農具が登場し、農業経済は著しく発達した。竜山文化の時代には銅に錫(すず)を混ぜた青銅が使用され、玉製品も数多くみられるようになった。こうしたさまざまな分野における技術的な発達は、古い生産関係を打破して高文明の生まれる諸条件を整え、やがて社会の構造も変わり、先進的地域ではいち早く王朝を建設する道を開いたのである。
[横田禎昭]
この竜山文化のなかから夏(か)文化が出現する。文献によると、中国の歴史が堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)の3王に始まって、禹の時代から王位が世襲となり、禹より桀(けつ)に至る17代の王朝が夏であり、それを継いだのが殷である。夏は初め黄河中流域の河南省西部方面を占拠し、しだいに活動範囲を陝西省東部、山西省南部から黄河下流域、すなわち河南省南部と東部、安徽(あんき/アンホイ)省西部、山東省方面へと拡大していった。古典に記載された河南省西部の嵩山(すうざん/ソンシャン)付近を中心にした活動地域と一致している。夏文化の実体はまだ不明なところが多いが、河南竜山文化晩期から殷代早期にかけての河南省偃師(えんし)県二里頭遺跡と、河南省登封(とうほう/トンフォン)市告成鎮王城崗(おうじょうこう)遺跡などでは、版築でつくられた城壁や宮殿があり、男女や子供の犠牲を埋めた穴なども発見されている。社会史的には原始氏族制は崩れ、羅城(らじょう)(城壁都市)築造に示されるような階級社会への発展段階にあった。生産用具は、なお竜山文化晩期から継続する石器や骨器が中心であるが、すでに青銅器も登場している。陶器の形状は明らかに竜山文化に起源をもち、そのなかから発展したことを示している。しかし、青銅器の発達、文字や暦の使用、広範囲な地域における政治的秩序の確立、都市の成立、社会階層の分化と諸制度の発達、宮殿や巨大な王陵の建設など、前の時代に比べて文化が飛躍的に発達し、中国の文明として明確にできるのは次の殷王朝になってからである。
殷代の社会は、政治上、宗教上の絶対的な王権を頂点として王族や貴族などの支配階級と庶民がおり、最下層に奴隷が存在する奴隷制社会で、多数の被征服民の奴隷が生産のさまざまな分野に従事した。農業だけでなく牧畜も行われ、甲骨文によると、アワ、禾(か)(イネ)、キビ、麦、米、桑などが栽培されていた。手工業が農業から完全に分離し、石工、玉工、骨工、陶工、銅工などの専門的工人がいて、すでに絹織物やきわめて精緻な漆工芸もつくられた。とくに鋳銅技術は高度に発達し、あらゆる点で最高潮の段階に到達している。また太陰太陽暦による暦法がすでに成立し、干支(かんし)も使われた。王は祖先神や諸神に対する盛大な祭祀(さいし)だけでなく、軍事、狩猟、国家の行事などすべてを占いによって行う祭政一致の神権政治を行っていた。殷王朝の歴史的実在を証明した有名な河南省安陽(あんよう/アンヤン)市の殷墟(いんきょ)は、後期の第20代の盤庚(ばんこう)から最後の第31代紂王(ちゅうおう)の滅亡までの約300年にわたる歴代の王都で、卜辞(ぼくじ)にみられる大邑商(だいゆうしょう)にあたる。この地で発見された巨大な王墓には、数百人に上る殉葬者と青銅器や玉器をはじめとしたおびただしい副葬品があり、殷王室の強大な権力を物語っている。殷文化の分布は非常に広く、河南省を中心に、東は山東半島と江蘇(こうそ/チヤンスー)省北部と安徽省、北は山西省、河北省藁城(こうじょう)から遼寧(りょうねい/リヤオニン)省、南は湖北省黄陂(こうは)、江西(こうせい/チヤンシー)省清江あたりにまで及んでいる。
[横田禎昭]
前11世紀の中ごろ、殷に服属していた周がしだいに勢力を伸ばし、やがて武王の時代に東方に進出して殷を滅ぼし周王朝を建設した。周は陝西省西安市西郊の鎬京(こうけい)に都したほかに、洛陽(らくよう/ルオヤン)付近に第二の都として洛邑(らくゆう)(成周)を建設し、殷の遺民を統治するとともに、東方の政治と経済の中心を支配した。周の文化は殷のそれをそのまま継承したもので、広大な領土を分割して重要な拠点には周と同姓の一族や異姓の功臣をそれぞれ封じて諸侯として統治させ、封建制度を確立した。周の封建制が衰えた前770年ごろ都を東に移し、これより東周時代が始まるが、この時代の前半を春秋時代、後半を戦国時代とよんでいる。春秋時代の後期から戦国時代初頭にかけて鉄製の工具や農具が出現し、のちには鉄製の犂(すき)をウシに引かせることも行われ、大規模な水利工事も行われた。鉄器の使用により、きわめて効率的な農耕が行われ、また耕地面積の拡大に伴い農業生産は著しい発展をみせ、貨幣経済の発達を促し商工業も栄え、諸侯の都城は繁栄を極めた。前3世紀ごろ、秦(しん)・漢帝国という初めての中央集権的な統一国家が成立して、文化も中国全体に拡散され平均化されて強固な中国文明圏が成立する。したがって、黄河の中・下流域に発生し栄えた黄河文明は、農耕の始まった新石器時代から青銅器時代の夏・殷代を経て、鉄器がほぼ完全に普及する前漢の中央集権的統一国家の成立までをいい、そして、その後に続く中国の文化の母体といいうるのである。
[横田禎昭]
『中国・文物編集委員会編、関野雄監訳『中国考古学三十年』(1981・平凡社)』▽『貝塚茂樹編『世界の歴史Ⅰ 古代文明の発見』(1983・中央公論社)』▽『貝塚茂樹著『中国古代再発見』(岩波新書)』▽『伊藤道治著『中国社会の成立 新書東洋史1』(講談社現代新書)』▽『関野雄編『世界考古学大系5 東アジアⅠ』(1960・平凡社)』
中国文明が黄河流域に発生したとする見方をいう。中国古代の王朝の都は夏,殷(いん),周,秦,漢,北魏,隋,唐と長安,洛陽を中心とした黄河の支流に位置しているので,たしかに黄河流域が先進地域であった。しかし文明とは農業,青銅器,都市,文字などの精神・物質文化の総体をいい,20世紀後半には長江流域にも新石器時代に稲作や城郭都市の遺跡が発見されているので,黄河文明に一元化してしまうことはできない。黄河文明が強調されたのは,文明論的な立場で19世紀後半以来20世紀前半まで中国を探検,発掘をしてきたヨーロッパ人から出された見方である。彼らが調査をしたのはもっぱら黄土地帯に限られ,黄土の豊かさが新石器時代に農耕(アワ),彩陶(さいとう)を生み出したと考えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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