精選版 日本国語大辞典 「殷」の意味・読み・例文・類語
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中国古代の王朝の名称。ただし、自名としては「商」と称し、これを滅ぼした周が前代の王朝を「殷」と称した。現在の中国では「商」とよぶ場合が多い。年代については諸説あるが、ほぼ紀元前17、16世紀の境より、前11世紀なかばごろまでと考えられる。
[松丸道雄]
『史記』殷本紀その他の古文献によれば、始祖契(せつ)の母簡狄(かんてき)は、有(ゆうじゅう)氏の娘で帝嚳(ていこう)の次妃であったが、玄鳥(ツバメ)の卵を呑(の)んで契を生み、契は禹(う)の治水を助け、舜(しゅん)によって商に封ぜられて、子姓を賜った、とされる。次代の昭明より第12代主癸(しゅき)(甲骨文では示癸)まで父子相続が行われ、その後、天乙(てんいつ)(成湯(せいとう)、甲骨文では大乙)が継いだ。これ以前、都を8回移したが、成湯のとき、亳(はく)(河南(かなん/ホーナン)省曹県近くか)に移ったのち、夏(か)の桀王(けつおう)を滅ぼし、武王と号し、天子の位についた。ここに殷王朝が始まる。それ以後もしばしば遷都が行われ、成湯から数えて第18代の盤庚(ばんこう)のときまでに5回移った、とされる。第30代帝辛(ていしん)(紂(ちゅう))のとき、国は大いに乱れ、西方に興った周によって滅ぼされたという。
このような史書中の伝承が、はたして史実であったか否かについては、長らく不明であったが、1899年、河南省安陽(あんよう/アンヤン)県近くの小屯(しょうとん)という村のわきを流れる洹河(えんが)が氾濫(はんらん)して堤防が崩れ、そこから、文字を刻した亀甲(きっこう)や獣骨の断片が多数発見された。偶然のきっかけから、これらを入手した劉鉄雲(りゅうてつうん)が、この文字を解読した結果、これらのうちに、前記の文献中の殷の王名が多数、読みとられた。これによって、これらが殷代の遺物であること、また逆に、史書中の記述が架空のものではなく、殷王朝が実在したことが確実になった。その後、甲骨片は同地域で多数発見され、1928~37年の間に中央研究院歴史語言研究所の手によって大規模な発掘が行われ、大量の甲骨片とともに、巨大な王墓や宮殿跡、その他無数の遺物、遺跡が発見されて、ここが『史記』にいういわゆる殷墟(いんきょ)であり、この地が、盤庚から末王帝辛までの都址(とし)であろうと考えられるに至った。20世紀、中国考古学、古代史研究における最大の発見といわれる。史書では、これに先行する夏王朝が存在したとされるが、その実在を証明する遺物、遺跡が未発見であるため、現在、殷王朝が中国史上、確認される最古の王朝である。
[松丸道雄]
前述の経緯から、殷代社会、文化の解明のための資料は、甲骨文の解読結果と考古学的知見とにほぼ限られる。甲骨文は、殷王室の卜官(ぼくかん)によって、殷王朝の祭祀(さいし)、農耕、天候、外敵の侵攻と征伐、王の行旅、狩猟、疾病等々、万般にわたって、殷人が人間世界に支配力を有すると考えた天帝に、その神意を問いただすために行われた占いの結果を書き刻んだものである。とりわけ祭祀に関する占卜(せんぼく)が多く、これは、殷王室の先王先妣(せんぴ)のいわば祖先神を対象とした場合と、河、岳など自然神を対象とした場合に分けられる。これらを祀(まつ)ることが政治における秩序形成の中核をなしていたという意味で、祭政一致の政治形態をもったといえよう。王都は、甲骨文中で「大邑(たいゆう)」とよばれているが、これを取り巻く氏族邑が多数存在して支配貴族の住地となり、さらにこれら氏族邑には多数の小邑が隷属していたと考えられる。これらの邑相互の累層的支配隷属関係が国家構造の基本であって、これを邑制国家ないし都市国家とよぶ。王都には、すでにある程度の支配官僚層の形成が認められる。
経済的には農業が中心であったと考えられ、キビ、アワ、大麦などが栽培されたほか、家畜(ウシ、ウマ、ヒツジ、ブタ、イヌ、ニワトリなど)を飼い、また養蚕も行われた。これらのために生産奴隷が使用されたかどうかには、まだ定説がないが、甲骨文中に羌(きょう)とよばれる異族が多数、祭祀の犠牲として用いられており、また発掘される王墓周辺から実際におびただしい殉葬人骨が出土するところからすれば、異族奴隷の広範な存在は否定できない。
文化的にもっとも特徴的なのは、この時期が中国青銅器文化の最盛期にあたっている点である。考古学的には、殷代全期を、前期・二里頭(にりとう)期、中期・鄭州(ていしゅう)期、後期・安陽期に区分するのが通例である。中国史上の青銅器の萌芽(ほうが)は二里頭期に認められるが、中期には早くも大型の精巧な青銅祭器類が多数制作されるようになり、後期に至ると質量ともに驚嘆すべき青銅祭器、武器などがつくられた。外范(がいはん)分割法によって鋳造された青銅器として、技術的に最高の完成度をみせている。かつ、複雑な文様を付して、世界的にみて古代青銅器文化の粋とされる。
こういった殷文明の来源については未解明の部分が多い。いわゆる世界六大文明のうち、メソポタミア・エジプト・インダス諸文明、およびメソアメリカ・アンデス両文明が、それぞれ相互に関係していることは認められている。しかし殷文明のみは、これらとの間にどのような関係があったかについては、今後の解明にゆだねなければならない。
[松丸道雄]
『貝塚茂樹編『古代殷帝国』(1957・みすず書房)』▽『伊藤道治著『古代殷王朝のなぞ』(1967・角川書店)』▽『松丸道雄著「殷周国家の構造」(『岩波講座 世界歴史4 古代4』所収・1970・岩波書店)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
商ともいう。前16世紀頃~前11世紀の中国古代の王朝。伝説では大乙(たいいつ)(湯王(とうおう))のとき夏を倒して王朝を創め,第30代帝辛(ていしん)紂王(ちゅうおう)のとき周に滅ぼされた。前半の史実は不明で,第19代盤庚(ばんこう)以後の都とされる殷墟(いんきょ)が発掘によって明らかとなった。殷人は国都の商(大邑商(だいゆうしょう))の周辺黄河中流域の諸族を支配する部族連合国家を形成していた。王位は初め兄弟相続,のちに父子相続に変わった。殷王は祭祀諸政を占卜(せんぼく)によって決する神政政治を行い,王のもとには氏族制による王族・貴族集団があった。これら支配階級は高度の青銅器文化を持ち,軍事を担当し,氏族奴隷を農耕や家事に使っていた。殷墟時代の主業は石器,木器などを使った農業とされる。その交易圏はモンゴル,華南,東南アジアに及んでいる。
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[王墓と帝王陵]
帝王陵の名に値する墓として,あるいは大規模な葬送儀礼が行われたことを示す墓として,かつて問題にされた墓を列挙してみよう。応神,仁徳に代表される古代天皇陵,殷の大墓,秦漢帝国以降の帝陵,朝鮮三国時代から新羅統一時代にいたる陵墓,西アジアのウルの王墓とウル第3王朝の陵,ペルシア帝国の王陵,ハリカルナッソスのマウソレウム,エジプトのマスタバやピラミッドなどが著名である。これらの墓は2種類に大別することができる。…
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