デジタル大辞泉 「夏」の意味・読み・例文・類語
か【夏】[漢字項目]
[学習漢字]2年
〈カ〉
1 なつ。「夏季/初夏・
2 古代中国の王朝名。「夏暦」
3 中国の自称。「華夏」
〈ゲ〉なつ。「夏至・
〈なつ〉「夏草・夏場・夏山/
[難読]
なつ【夏】
[補説]作品名別項。→夏
[類語]夏場・夏季・夏期
か【夏】
五胡十六国の一。大夏のこと。
中国宋の時代に北西部のタングート族が建てた国。
主として温帯地方でいう四季の一つ。次に示すようにさまざまな期間の取り方がある。
(1)天文学的には、太陽の黄経が90度の夏至(げし)から、これが180度となる秋分の前日までをいう。
(2)気象学的には、北半球では現行暦の6~8月を、また南半球では12~2月を夏という。
(3)俳句の季語などで使われる夏は、立夏(5月6日ごろ)から立秋の前日(8月7日ごろ)までをいい、初夏(立夏から芒種(ぼうしゅ)の前日、6月5日ごろまで)、仲夏(芒種から小暑の前日、7月6日ごろまで)、晩夏(小暑から立秋の前日、8月7日ごろまで)の三夏(夏全体)に分けていわれることもある。
日本の夏は、天候の経過からみると次の三つに区分できる。
(1)初夏 これは梅雨(つゆ)入り前の5月ごろの天候をいう。
(2)梅雨(ばいう)期 夏至を中心とした前後およそ20日くらいずつの雨期。年によって活発に雨の降る場合と、反対に雨のたいへん少ない場合があり、後者を涸梅雨(からつゆ)(空梅雨)という。
(3)盛夏期 梅雨明け以後、8月上旬ごろまでの一年中でもっとも気温の高い時期である。この後に残暑の候として9月中旬ごろまでを考えることもある。
日本の夏を特徴づける気象は(1)台風、(2)雷雨で、年によっては(3)干魃(かんばつ)や高温、低温がその年の目だった特徴となることがある。(1)の台風は多量の雨をもたらすことがあり、恵みの台風として喜ばれることもあるが、一般には暴風雨を伴うので、夏の風水害の原因となる。雷は梅雨期間中からすでに現れているが、夏の雷は短時間だが大量の雨を激しく降らせることがあり、都市型水害の原因の一つとなっている。年によって、北日本は低温だが西日本は干魃という気象災害が発生する。猛暑のもたらす影響も問題だが、北日本だけでなく西日本にまで及ぶ低温の夏(1993年や2003年)もあることを忘れてはならない。
[根本順吉・青木 孝]
春秋に対して夏冬の存在はやや比重が小さく、勅撰(ちょくせん)集などでも部立(ぶだて)や歌数が少ないが、夏が四季の一つとしてその一角を担っているのは、季節感の明確な日本の風土にもよる。四季の意識は『万葉集』の巻8や巻10の「夏雑歌(ぞうか)」や「夏相聞(そうもん)」の分類にみられ、ほととぎす、藤(ふじ)、卯(う)の花、花橘(はなたちばな)、ひぐらし、はねず(庭梅か)、あやめ(菖蒲)、なでしこ、姫百合(ゆり)、さ百合、榛(はり)、楝(あふち)、夏草、かきつばた、末摘花(すゑつむはな)、夏野、照る日などの歌材が詠まれる。『古今集』「夏」には、ほととぎす、花橘、卯の花、常夏(とこなつ)(なでしこ)などが受け継がれ、蓮(はちす)、短か夜(みじかよ)、六月つごもりなどが加わっている。『論春秋歌合(うたあわせ)』には「恋するにわびしきことをくらぶるに夏と冬とはいづれまされり」という問いかけによって、恋の苦しさの夏冬の比較を和歌で詠み合う言語遊戯がみられる。『古今六帖(ろくじょう)』「歳時」の夏の項目には、初めの夏、衣更へ(ころもがえ)、卯月(うづき)、卯の花、神祭り、五月(さつき)、五日、あやめ草、水無月(みなづき)、なごしの祓(はらえ)、夏の果てなどがあげられ、『堀河(ほりかわ)百首』の夏の題は、更衣へ(ころもがえ)、卯花(うのはな)、葵(あおい)、郭公(ほととぎす)、菖蒲(あやめ)、早苗(さなえ)、照射(ともし)、五月雨(さみだれ)、盧橘(ろきつ)、蛍、蚊遣火(かやりび)、蓮、氷室(ひむろ)、泉、荒和祓(あらにこはらえ)であり、夏の行事や風物の輪郭が整えられ、季題に継承されていく。『源氏物語』「少女(おとめ)」には、完成した六条院の夏の御殿のようすが、木陰のもとに涼しそうな泉があり、下風が通う呉竹(くれたけ)を植え、小高い森のように茂った木々が山里をしのばせる風情があり、卯の花垣根を巡らし、花橘、撫子(なでしこ)、薔薇(ばら)などが植えられ、水辺には菖蒲がある、と描かれ、兼好法師も『徒然草(つれづれぐさ)』で「家の作りやうは、夏をむねとすべし」といっているように、夏は涼しさが求められ、これが理想的な夏の住居の光景であった。激しい夕立のあとのすがすがしさなども夏の季節感の典型であろう。
[小町谷照彦]
『根本順吉著『熱くなる地球――温暖化が意味する異常気象の不安』(1989・ネスコ、文芸春秋発売)』▽『村松照男監修、オリンポス著『気象のしくみ――図解雑学』(1998・ナツメ社)』▽『川崎宣昭ほか著『気象データひまわりを楽しむ本――EXCELによる気象データCD-ROMの読み方・使い方』(1998・丸善)』▽『気象庁編『今日の気象業務』平成11年版(1999・大蔵省印刷局)』▽『黄色瑞華著『一茶歳時記』(1999・高文堂出版社)』▽『平沼洋司著『気象歳時記』(1999・蝸牛社)』▽『山田圭一撮影『雲の四季』(1999・白水社)』▽『宮沢清治著『近・現代 日本気象災害史』(1999・イカロス出版)』▽『日本気象協会編著『暦と天気のかかわりを探る』(2001・ポプラ社)』▽『卜蔵建治著『ヤマセと冷害――東北稲作のあゆみ』(2001・成山堂書店)』▽『桜井邦明著『夏が来なかった時代――歴史を動かした気候変動』(2003・吉川弘文館)』▽『根本順吉著『超異常気象――30年の記録から』(中公新書)』▽『石井和子著『平安の気象予報士紫式部――「源氏物語」に隠された天気の科学』(講談社プラスアルファ新書)』
中国で殷(いん)王朝より以前に存在したとされている最古の王朝。夏、殷、周の3王朝をあわせて「三代」とよび、旧中国では諸制度の整った理想的な時代とされていた。殷に先だつ王朝として夏が存在した可能性は十分にあるが、現在のところ、その都がどこにあったかは定説がない。近年、河南省の登封(とうほう)市の「王城崗(おうじょうこう)」遺跡が、禹(う)の都した陽城の跡だとする説が出されているが、異論も多い。『史記』の「夏本紀」が伝えるところによると、夏王朝の始祖禹は黄河の洪水を治めるのに献身的に努力し、その功により、舜(しゅん)の死後、諸侯から推されて天子となった。禹は自分も禅譲の原則により民間から賢者を選んで天子の位を譲ろうとしたが、諸侯は禹の子啓(けい)を後嗣(こうし)として推戴(すいたい)し、それ以後子孫が相次いで天子となったという。17代目の履癸(りき)すなわち桀(けつ)に至って、政治が暴虐を極めたため、民心を失い、殷の湯(とう)王によって攻め滅ぼされた。
周代には、夏后(かこう)氏の子孫は河南省東部の杞(き)国に封じられたが、「夏」という称号は、「華夏」「諸夏」などと熟して「中華」文化を共有する諸侯を総称する際に用いられた。『史記』の「匈奴(きょうど)列伝」では、匈奴の先祖も夏后氏とされている。この伝説を受けて、五胡(ごこ)十六国時代に長安を中心に建国した匈奴の赫連(かくれん)氏は、国号を「大夏」と名のった(407~431)。
さらにその数百年後、チベット系タングート出身の李元昊(りげんこう)が興慶府(寧夏回族(ねいかかいぞく)自治区の銀川(ぎんせん))に建てた政権も、「大夏」と号した(1038~1227)。これは普通「西夏」とよばれる国家で、宋(そう)王朝の北西辺にあって東西貿易の利によって栄え、のちモンゴル勢力によって滅ぼされた。
[小倉芳彦]
①殷(いん)よりもさかのぼる中国史上最も早い王朝。司馬遷(しばせん)の『史記』の本紀には,五帝本紀と殷本紀の間に,夏本紀がはさまっており,夏王朝の存在を認めている。そこには始祖の禹(う)に始まり,啓(けい),太康(たいこう)以下,桀(けつ)に至る17人の君主の系譜と簡単な事跡が記されている。また『竹書紀年』によれば,夏王朝は14代,471年続いたという。しかし『史記』の禹王の記事は『尚書』禹貢をそのまま載せており,夏王朝の存在は後世の仮託として疑われてきた。しかし1950年代後半から,考古学者は『史記』などの文献にみえる禹都の「陽城」「夏墟(かきょ)」「平陽」「安邑(あんゆう)」の遺跡を探し求めようとした。河南省洛陽東部と山西省南部が候補地となった。実際に河南省の二つの遺跡,一つは伊河(いが)・洛河(らくが)流域の偃師(えんし)県二里頭(にりとう)遺跡,もう一つは登封県嵩山(すうざん)南麓の王城崗(おうじょうこう)遺跡で発掘が進められた。前者では大型の建築遺構や青銅器,後者では前2000年前後の城壁が発見された。しかし殷墟(いんきょ)のように文字は未発見であり,最終的な決着はついていない。
②〔五胡十六国〕407~431 五胡十六国の一国。匈奴(きょうど)の赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)が寧夏(ねいか),陝西(せんせい)北部に建てた国。都は統万城。418年勃勃が長安を攻略して帝位につく。子の赫連昌(しょう),赫連定(てい)のとき,北魏の太武帝(たいぶてい)に滅ぼされた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
中国古代の王朝名。始祖禹は黄帝の子孫といわれ,帝舜のとき,中国を襲った大洪水を,13年かけて治めることに成功し,舜から帝位を譲られ,夏后と称した。その死後,子孫が位を継ぎ,最初の世襲王朝となった。第17代の履癸(桀王)は暴君で,諸侯が背き,殷の成湯大乙に滅ぼされた。殷の卜辞(甲骨文)のごとき文字史料が未発見で,その実在は未確認であるが,最近,河南省偃師県二里頭遺跡が発見され,その文化の性格をめぐり,夏の存在が強く主張されるにいたった。この遺跡の文化は前後2期に大別され,その前期は新石器の竜山文化晩期に性格が近く,後期は殷の二里岡期に近い。現在中国の歴史考古学界では,前期を夏文化,後期を殷文化とする説と,前・後期ともに夏文化,殷二里岡の文化を殷前期とする説とがあり,結論は得られていない。前期の文化は河南省黄河南岸域に分布し,後期になると黄河北岸,山西南部,湖北北部にまで拡大する。山西南部,河南中部には,夏の都跡と伝えられる地が含まれ,すでに西周時代からこの地域を中国とよんで,古代の政治・文化の中心とみなし,また〈夏〉という語が,華夏,中華すなわち中国文化と同義語として古代から使用されてきたことを考えると,中国文化の原型は夏王朝の文化であるという意識が,早くからあったことがわかる。文字史料が未発見であるとしても,夏の存在を一概に否定することはできないと考えられる。
→三皇五帝
執筆者:伊藤 道治
中・高緯度地方で,1年の中で太陽高度が高く高温が現れる季節をいう。古代中国では立夏(太陽の黄経が45°になる日)から立秋(同135°)の前日までを夏と呼んだ。現在の分け方は西欧流のもので,北半球では夏至(同90°)から秋分(同180°)の前日までである。慣習的には北半球では6,7,8月,南半球では12,1,2月が夏である。夏の気候的特徴は強い日射と継続的高温である。実際の天候推移に基づく自然季節としての夏の期間は場所により異なる。日本の夏は初夏(5月22日~6月10日),梅雨(6月11日~7月16日),夏(7月17日~8月7日),晩夏(8月8日~8月20日)に細分される。
執筆者:前島 郁雄
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…里長(100戸の長)の経験をもつ在地有力農民であったが,611年(大業7)煬帝(ようだい)の高句麗遠征の強行に抗して群盗に身を投じた。のち任俠的人柄と果敢な行動力によって頭角を現し,618年農民から士人層におよぶ広範な支持を背景に,河北のほぼ全域を領有する夏を建国。領内をよく治め,唐の最大の敵となるが,621年(武徳4)の虎牢関(河南省)の戦闘に敗れ,殺された。…
…中国の殷・周王朝の時代から秦による統一までを扱う。はじめ夏(か)に天下を治める徳があったとき,遠方の国々は物の図を献じ,鼎(てい)を鋳てその図を彫り込んだ(《左氏伝》)という。楚王が周室の鼎(かなえ)の軽重を問うたときの話である。…
…淮河は湖北省境の桐柏山脈から発し,潁河(えいか),汝河(じよか),賈魯河(かろか),渦河などの支流を入れて安徽省に向かう。これらの支流は西部山地から急速に落下し,夏季には水害が激しいので,上流に多数のダムを作って水量を調節している。ちなみに秦嶺山脈と淮河とをつらねる東西の一線は,中国の気候・風土を大きく南北に分ける自然境界とされる。…
… 季節の相違をきめる昼夜の時間の長短や気温の高低は,地球の太陽に対する相対的位置が1年の間に変化することにより生ずる。地球は太陽のまわりを1年かかって公転しているが,地球の自転軸が公転面に対して約23度30分傾いているため,北半球についてみれば,夏至には太陽高度が最も高くて,昼間の時間が最も長く,地表で受け取る太陽エネルギーの量も最大となるのに対し,冬至には反対に,昼間の時間が最も短く,太陽エネルギーも最小になる。春分と秋分には昼夜の時間は等しく,太陽エネルギーの量は夏至と冬至の中間になる(図1,図2)。…
※「夏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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