黄海村(読み)きのみむら

日本歴史地名大系 「黄海村」の解説

黄海村
きのみむら

[現在地名]藤沢町黄海

南流する北上川東岸にあり、北は薄衣うすぎぬ(現川崎村)、南は三峰みつみね(三一六・二メートル)などに連なる山々。北寄りを黄海川が西流し七日なのか町で北上川に注ぐ。地名の由来については、昔雫石しずくいし(現岩手郡雫石町)まで続く湖に接しており、その湖水の色にちなんでつけられたとか、アイヌ語のケネオマ(鱒の住んでいる所)からきたとか諸説があり、北上川洪水により濁流に覆われたのをみた坂上田村麻呂が、それまで黄金郷と称されていた当地を黄海郷と改めたとも伝えられる。「安永風土記」には源頼義軍により討たれた安倍氏方の兵の血で川水が黄色に変じたことにちなむと記される。

天喜五年(一〇五七)一一月、河崎かわさき(現川崎村)を営所とした安倍貞任軍四千余人は、追討に向かった源頼義軍一千八〇〇人を「黄海」で迎え討った。激しい風雪と悪路、食料不足に悩まされた頼義軍は大敗を喫し、敵中にわずか七騎で取残された頼義は従臣の犠牲と長男義家の奮戦により、ようやく逃げのびたという(陸奥話記)。文治五年(一一八九)奥州合戦ののち、葛西清重に与えられた五郡二保のうちに黄海保が含まれていたとされる(余目氏旧記)。天正七年(一五七九)富沢日向守の反乱の際の清水しみず(現西磐井郡花泉町)での合戦の功により、葛西晴信から小野寺主計頭に「黄海村」一万五千刈が加増分として宛行われた(同年三月七日「葛西晴信知行宛行状」保呂羽小野寺文書)。同一四年七月一四日には黄海郷のうち二千刈などが増子与左衛門尉に与えられた(「葛西晴信知行宛行状」日形増子文書)。同一六年六月七日には浜田安房守の反乱鎮圧の戦功により、五千刈が安部小次郎に、三千刈が佐々木四郎右衛門尉に与えられている(「葛西晴信知行宛行状」石巻毛利文書など)。また「伊達世臣家譜」「留守系譜別本」によれば、天正末年頃に留守政景が当地に館を構えており、文禄元年(一五九二)清水村の館へ移ったという。政景の居館は深堀ふかぼり金山沢かなやまざわ館とされる。慶長六年(一六〇一)の留守政景知行目録写(留守文書)にみえる「ふかほり」一一〇貫六八一文は当村南部をさすとも考えられる。

寛永一九年(一六四二)の黄海村検地帳(県立図書館蔵)によれば、田方一一一町余・代一三二貫五五七文、畑方二五二町四反余・代六〇貫九六二文(うち屋敷一五町六反余・代三貫四八六文)、茶畑三反余・代六三九文、名請人数一七八。正保郷帳では田一二七貫四一六文・畑五六貫四二二文、ほかに新田八貫三二五文があり、水損・松山と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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