岩手県中央部を南流して宮城県に入り、
なお前記の狐禅寺より上流は北上盆地となり、胆沢扇状地や
「三代実録」貞観元年(八五九)五月一八日条に「授陸奥国正五位上勲五等日高見水神従四位下」とあり、日高見水神とは河伯神のことで、延喜式内社
岩手県北部の
「北上川」とみえるのは「吾妻鏡」文治五年(一一八九)九月二七日条で、奥州合戦後の論功行賞を終えた源頼朝が鎌倉に帰る直前、安倍頼時(頼義)の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奥羽山脈と北上高地の間を南流し,仙台平野に出て追波(おつぱ)湾に注ぐ河川。幹川流路延長249km,全流域面積1万0150km2,年平均流量351m3/s(1982)の日本有数の大河である。岩手県八幡平市北東端部にある七時雨(ななしぐれ)山の東方,西岳付近を源流とし,馬淵(まべち)川支流の小繫(こつなぎ)川とは十三本木峠(457m)において谷中分水界をなして,岩手山,姫神山間の厚い火山灰の波状地に狭い段丘を作りながら,西から雫石(しずくいし)川,松川,赤川,東から丹藤川などを合流して盛岡に至る。さらに一関までの約90kmにわたって,奥羽山脈,北上高地の間に広大な縦谷を作り,豊沢川,和賀川,胆沢(いさわ)川など脊梁山地(奥羽山脈)より発する各支流扇状地群の発達により,谷底では東に偏して南流する。一関付近で磐井川と合流して東流し,北上高地南部に25kmにおよぶ狐禅寺峡谷を作り,宮城県北部の沖積低地帯に入る。源流部付近の西岳山麓から南の狐禅寺峡谷までの縦谷盆地を北上盆地という。登米(とめ)市の旧津山町柳津(やないづ)で新旧北上川に分かれ,上流からの水は西側の新北上川の峡谷を南流し,石巻市飯野から東流して追波川となり追波湾に注ぐ。東側の旧北上川は,柳津水門で本流の水をせき止め,支流の迫(はさま)川,江合(えあい)川を合流して石巻湾に注ぐ。盛岡市以南の北上川は,平均こう配が0.6‰とゆるやかで,かつ狐禅寺の狭窄部より上流部でも水量が豊富なため,舟運に適している。藩政時代仙台藩の川村孫兵衛重吉が北上川下流路の付け替え,石巻河口港への構築を行って以来,盛岡・仙台両藩の米,物資輸送の動脈として活況を呈し,沿岸に40余の河港が栄えた。なかでも盛岡,花巻,黒沢尻(現,北上市),柵ノ瀬・狐禅寺・薄衣(うすぎぬ)・七日町(現,一関市),石巻が主要なものであった。しかし舟運は1890年,東北本線が岩手県に通じてからは急激に衰えた。
北上川の水は灌漑用水として,本支流沿岸の穀倉地帯に給水されている。また本流と各支流との合流点には古くから都市が形成されたが,脊梁山地側で年降水量が2000~2400mmと多いこともあって,盛岡,一関などでしばしば大洪水をおこした。特に狐禅寺の狭窄部では通水能力が6300m3/sなのに対して,1948年のアイオン台風では9000m3/sの洪水が押し寄せ,一関市全戸数の80%が損害をこうむった。仙台平野に至っても,出水時には本流の水が支流に逆流し,甚大な被害を及ぼしている。1953年に国土総合開発法による特定地域に指定され,本支流に多目的ダムが構築された。本流の四十四田ダム(1968完成)をはじめ,猿ヶ石川の田瀬ダム,胆沢川の石淵ダム,和賀川の湯田ダム,雫石川の御所ダムなど約30ヵ所のダムがある。発電所は総数30,最大出力合計約26万kW(1997)で,北上川上流部の災害防除はもとより,宮城・岩手両県の開発の動脈としての成果を上げている。1982年東北新幹線の開通に伴い,北上水系の遊水池に全長3872mの第一北上川橋梁が建設された。
執筆者:宮城 豊彦
北上川舟運が本格化したのは近世に入ってからである。1604年(慶長9)の伊達宗直の北上川改修につづき,元和・寛永期(1615-44)に藩命で川村孫兵衛重吉が下流の大改修を行うことにより,本流が石巻で注ぐようになり,舟運は飛躍的に発達した。米が最大の輸送品で,仙台藩は初期より買米(かいまい)制を実施し,江戸廻米を推進した。川筋各地に本石蔵および買米蔵が設けられ,貯蔵米は艜(ひらた),高瀬船などで石巻に下ろされた。代表的川船艜は180石積み程度が普通で,持主の艜主が運送に従事した。このほか役銭を納め商人荷を運ぶ渡世艜があったが数は少なかった。盛岡藩が北上川を利用するのは慶安期(1648-52)からで,黒沢尻以北は小繰舟が,黒沢尻以南は艜が舟航し,米のほか材木や銅などを運んだ。八戸藩も利用したが,共通して町舟の数が少なく,もっぱら藩の雇船による運送であった。
執筆者:渡辺 信夫
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岩手県北部、七時雨山(ななしぐれやま)(1063メートル)に源を発し、岩手県を南流して宮城県東部の追波湾(おっぱわん)に注ぐ東北一の大河。一級河川。延長249キロメートル、流域面積1万0150平方キロメートル。東に古生界を主とする北上高地、西に新第三系を主とする奥羽山脈があり、その間の低平な北上低地を流れる。岩手・宮城県境の磐井(いわい)丘陵を切る約20キロメートルの狐禅寺(こぜんじ)峡谷により下流部と中流部に、盛岡付近で中流部と上流部に分けられる。盛岡を下ると沖積低地の幅が広がり、岩手県の低地の主要地域を形成し、盛岡、花巻、北上、水沢、一関(いちのせき)などの都市が分布する。下流部では東の北上高地沿いに緩い峡谷をつくって南流し、西にきわめて低平な沖積地が広がる。中・下流部では稲作中心の農業が行われるが、上流部は水田率が低く、稲作に加えて乳用牛の飼育が行われている。
北上川の名は「日高見国(ひたかみのくに)」の川、すなわちヒタカミ川に基づくといわれている。この地方が日高見国といわれた古代から、北上川は最大の交通路として利用されていた。近世には、流域の北半が盛岡藩領、南半が仙台藩領となったが、仙台藩では近世初めに下流部の大改修を行い、追波湾へ直接注ぐ河道を、石巻(いしのまき)市鹿又(かのまた)から、一方は石巻湾へ、一方は追波湾へ流し、迫(はさま)川の合流点を付け替え、江合(えあい)川を合流するなどの工事を実施した。これにより、仙台藩領北部と盛岡藩の米が北上川を通じて石巻に集められ、江戸へ海上輸送されることになった。流域には藩庫が置かれ、河港が発達し、石巻には藩の米蔵や役人の屋敷が設けられ、江戸、上方(かみがた)からの物資が集まるなど繁栄した。改修工事は宮城県北部の新田開発をも促した。北上川の舟運は、明治維新後は旧藩時代のさまざまな制約が取り除かれてさらに活発化し、東北経済の大動脈の役割を果たした。宮城県中部、鳴瀬(なるせ)川河口の野蒜築港計画(のびるちくこうけいかく)に伴い、北上川河口の石巻から8キロメートル上流の石井閘門(こうもん)とを結ぶ全長12.8キロメートルの北上運河が1882年(明治15)完成した。これは一時活況を呈したが、野蒜築港の失敗などにより目的を達成できなかった。1889年に東北線上野―盛岡間が完成すると、北上川の舟運は衰退し、鉄道が通らない下流部の河港の多くは繁栄から取り残された。昭和の初め、北上川は登米(とめ)市津山(つやま)町柳津(やないづ)から南へ直線的旧流路を利用して石巻市飯野川(いいのがわ)で追波川と結ばれ、以後これが本流となり、石巻への流路は旧北上川とよばれることになった。1951年(昭和26)の「国土開発法」により、北上川流域は特定地域の指定を受け、1953年から本・支流に治山治水、発電、灌漑(かんがい)のための多くの多目的ダムが建設され、総合的な地域開発が進められた。1975年には、下流部の宮城県石巻市に治水、灌漑、上水用として北上大堰(おおぜき)が完成した。また、北上川の洪水を防止する目的で、一関市では遊水地が建設中である。2011年(平成23)3月11日の東北地方太平洋沖地震では津波が河口から約50キロメートル上流まで遡上した。
[後藤雄二]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…陸奥国
[中央から遠い北国]
岩手県の地は,〈みちのく〉といわれた奥州のうちでも中央文化からほど遠い辺境の地とされてきた。8世紀中ごろ奥州開発が積極化し,坂上田村麻呂の蝦夷攻略を通して岩手は北上川沿岸から開かれ中央と結びつけられていった。奥州藤原氏が平泉の地に独自の黄金文化を築いたが,中世の岩手は鎌倉御家人によって分割支配され,盛衰・興亡をくりかえした。…
※「北上川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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