北上川(読み)キタカミガワ

デジタル大辞泉 「北上川」の意味・読み・例文・類語

きたかみ‐がわ〔‐がは〕【北上川】

岩手県北部の七時雨ななしぐれ山に源を発して南流し、宮城県の追波おっぱ湾に注ぐ川。長さ249キロ。流域には北上盆地があり、穀倉地帯となっている。

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精選版 日本国語大辞典 「北上川」の意味・読み・例文・類語

きたかみ‐がわ‥がは【北上川】

  1. 岩手県北部の七時雨(ななしぐれ)山に発し、岩手・宮城両県を南流して追波(おっぱ)湾と石巻湾に注ぐ川。北上高地奥羽山脈の間の低地を貫流する。寛永三年(一六二六)伊達政宗の命により、追波湾に注いでいた流路に加えて石巻湾への新流路を開削。のち交通河川として利用され、盛岡、花巻などの河港が栄えた。流域には北上盆地、仙北平野があり、ともに穀倉地帯。支流に多くのダムが建設され、総合開発が進む。全長二四九キロメートル。

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日本歴史地名大系 「北上川」の解説

北上川
きたかみがわ

岩手県中央部を南流して宮城県に入り、追波おつぱ湾と石巻湾に注ぐ。幹川流路延長二四九キロは全国第五位、流域面積一万一五〇平方キロは全国第四位、支流二一六を数える東北地方最大の一級河川。岩手県域の幹川流路延長一九二キロ、流域面積七八六〇平方キロ。源流は岩手・二戸両郡の境にある七時雨ななしぐれ(一〇六〇メートル)山麓説、岩手郡南部の丹藤たんとう川流域説、二戸郡一戸町の西にし(一〇一八・一メートル)南東山腹説など諸説があるが、建設省第一級河川指定における源流は、岩手郡岩手町の御堂みどう観音境内の湧水とされる。この湧水の流れが朽木くちき川に入り、同町北部の吉谷地よしやちを南下する流水と合流した地点の下流を北上川と称する。東西の分水嶺から流入する諸支流は、勾配が急で落差が大きい。東側の北上高地からは、北から丹藤川・古館ふるだて川・中津なかつ川・やな川・稗貫ひえぬき川・猿ヶ石さるがいし川・人首ひとかべ川・砂鉄さてつ川・千厩せんまや川などが、西側の奥羽山脈からは、同じくまつ川・雫石しずくいし川・滝名たきな川・豊沢とよさわ川・和賀川・胆沢いさわ川・ころも川・磐井いわい川などが流入している。このように北上川は、梨木状河川といわれるほど均整のとれた支流を合流し、落差の激しいところも瀑布もなくゆったりと流れる。流路全体として若干の変化がみられるのは、第一に盛岡市の雫石・中津・簗の三川合流地域で、水量が増加する。第二は一関市狐禅寺こぜんじ付近からの二〇キロにわたる狭窄部で、現在も豪雨などによって同市北部や西磐井郡平泉町付近の冠水の原因となる。第三は宮城県桃生ものう河北かほく町で東流して追波湾に注ぐ新北上川と、その北の同県本吉もとよし津山つやま町西部で分流して石巻湾に注ぐ旧北上川の地域である。

なお前記の狐禅寺より上流は北上盆地となり、胆沢扇状地六原ろくはら扇状地を含む県内第一の穀倉地帯で、下流は仙台平野となっている。また古代の東山道における胆沢城(現水沢市)志波しわ(現盛岡市)徳丹とくたん(現紫波郡矢巾町)などの築造や、近世の奥州街道のルートや宿場や町場の位置は西岸が中心で、唯一盛岡城下のみが東岸に位置している。これは地形的にみるならば、河岸段丘の発達の差が町場形成などに反映したものと思われる。

〔日高見川から北上川へ〕

「三代実録」貞観元年(八五九)五月一八日条に「授陸奥国正五位上勲五等日高見水神従四位下」とあり、日高見水神とは河伯神のことで、延喜式内社日高見ひたかみ神社(比定社は現宮城県桃生郡桃生町の日高見神社)のことと伝えられる。古代の岩手県は「日高見国」と記され(「日本書紀」景行天皇二七年二月一二日条)、蝦夷の国の大河北上川は日高見川と称されていた。


北上川
きたかみがわ

岩手県北部の七時雨ななしぐれ(一〇六〇メートル)などを水源とし、岩手県を南北に貫流、宮城県に入り、追波おつぱ湾と石巻いしのまき湾に注ぐ。幹川流路延長二四九キロのうち宮城県域は五四キロ、流域総面積一万一五〇平方キロのうち県域は三七一平方キロ。支流数二一六を数える東北地方最大の一級河川。西の奥羽山脈、東の北上高地の間を、諸支流を集めながら比較的ゆったりした流れで南流し、盛岡市から石巻市まで、岩手・宮城両県の主要七市をその流域に抱える。宮城県に入り、登米とめ東和とうわ米谷まいや辺りでS字形に蛇行し、本吉もとよし津山つやま柳津やないづ付近で、ほぼ南流する新北上川と南西流する旧北上川に分流する。新北上川は桃生ものう河北かほく町で流路を東に変え、同郡北上町で追波湾に注ぐが、この間柳津より下流を追波川とも称していた。旧北上川は桃生郡桃生町と遠田とおだ涌谷わくや町の境付近ではさま川を合せ、すぐ南の桃生郡河南かなん町と桃生町の境で江合えあい川を合流し、石巻湾に注ぐ。この旧北上川は近世初頭、伊達政宗の代に改修されたものとされる。なお新北上川は公式には北上川だが、一般に新北・旧北とよびわけており、追波川という呼称は地元ではあまり用いられていない。迫・江合両川は山形県境の山嶺より発する県内では有数の河川であるが、また洪水によって人々を悩ませてきた暴れ川で、とくに当川との合流域一帯は近世からの氾濫原であった。治水のための改修工事は古くから行われてきたが、抜本的解決となる新北上川の開削完成は、実に昭和九年(一九三四)のことであった。これによって野谷地の開発、用水確保が可能となり、広大な水田を開くことになるが、近世初期においても、仙台藩の一門格などの有力家臣の知行地として新田開発が進められていた。また盛岡藩とともに仙台藩は、当川と江合・迫両川の流域の年貢米・買米を運ぶ大動脈として当川舟運を利用した。とくに領内の余剰米を藩が買上げて江戸市場で換金する買米制は、藩財政の基盤で、江戸廻米の湊として河口石巻は賑った。明治二三年(一八九〇)日本鉄道(現東北本線)が盛岡まで開通するに及んで、交通路としての役割は終わるが、以後も上下水道・灌漑用水水力発電など、岩手・宮城両県の発展に大きく貢献している。

〔名称〕

「北上川」とみえるのは「吾妻鏡」文治五年(一一八九)九月二七日条で、奥州合戦後の論功行賞を終えた源頼朝が鎌倉に帰る直前、安倍頼時(頼義)衣河ころもがわ遺跡(現岩手県胆沢郡衣川村)を訪ねた記事中である。

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改訂新版 世界大百科事典 「北上川」の意味・わかりやすい解説

北上川 (きたかみがわ)

奥羽山脈と北上高地の間を南流し,仙台平野に出て追波(おつぱ)湾に注ぐ河川。幹川流路延長249km,全流域面積1万0150km2,年平均流量351m3/s(1982)の日本有数の大河である。岩手県八幡平市北東端部にある七時雨(ななしぐれ)山の東方,西岳付近を源流とし,馬淵(まべち)川支流の小繫(こつなぎ)川とは十三本木峠(457m)において谷中分水界をなして,岩手山,姫神山間の厚い火山灰の波状地に狭い段丘を作りながら,西から雫石(しずくいし)川,松川,赤川,東から丹藤川などを合流して盛岡に至る。さらに一関までの約90kmにわたって,奥羽山脈,北上高地の間に広大な縦谷を作り,豊沢川,和賀川胆沢(いさわ)川など脊梁山地(奥羽山脈)より発する各支流扇状地群の発達により,谷底では東に偏して南流する。一関付近で磐井川と合流して東流し,北上高地南部に25kmにおよぶ狐禅寺峡谷を作り,宮城県北部の沖積低地帯に入る。源流部付近の西岳山麓から南の狐禅寺峡谷までの縦谷盆地を北上盆地という。登米(とめ)市の旧津山町柳津(やないづ)で新旧北上川に分かれ,上流からの水は西側の新北上川の峡谷を南流し,石巻市飯野から東流して追波川となり追波湾に注ぐ。東側の旧北上川は,柳津水門で本流の水をせき止め,支流の迫(はさま)川江合(えあい)川を合流して石巻湾に注ぐ。盛岡市以南の北上川は,平均こう配が0.6‰とゆるやかで,かつ狐禅寺の狭窄部より上流部でも水量が豊富なため,舟運に適している。藩政時代仙台藩の川村孫兵衛重吉が北上川下流路の付け替え,石巻河口港への構築を行って以来,盛岡・仙台両藩の米,物資輸送の動脈として活況を呈し,沿岸に40余の河港が栄えた。なかでも盛岡,花巻,黒沢尻(現,北上市),柵ノ瀬・狐禅寺・薄衣(うすぎぬ)・七日町(現,一関市),石巻が主要なものであった。しかし舟運は1890年,東北本線が岩手県に通じてからは急激に衰えた。

 北上川の水は灌漑用水として,本支流沿岸の穀倉地帯に給水されている。また本流と各支流との合流点には古くから都市が形成されたが,脊梁山地側で年降水量が2000~2400mmと多いこともあって,盛岡,一関などでしばしば大洪水をおこした。特に狐禅寺の狭窄部では通水能力が6300m3/sなのに対して,1948年のアイオン台風では9000m3/sの洪水が押し寄せ,一関市全戸数の80%が損害をこうむった。仙台平野に至っても,出水時には本流の水が支流に逆流し,甚大な被害を及ぼしている。1953年に国土総合開発法による特定地域に指定され,本支流に多目的ダムが構築された。本流の四十四田ダム(1968完成)をはじめ,猿ヶ石川の田瀬ダム,胆沢川の石淵ダム,和賀川の湯田ダム,雫石川の御所ダムなど約30ヵ所のダムがある。発電所は総数30,最大出力合計約26万kW(1997)で,北上川上流部の災害防除はもとより,宮城・岩手両県の開発の動脈としての成果を上げている。1982年東北新幹線の開通に伴い,北上水系の遊水池に全長3872mの第一北上川橋梁が建設された。
執筆者:

北上川舟運が本格化したのは近世に入ってからである。1604年(慶長9)の伊達宗直の北上川改修につづき,元和・寛永期(1615-44)に藩命で川村孫兵衛重吉が下流の大改修を行うことにより,本流が石巻で注ぐようになり,舟運は飛躍的に発達した。米が最大の輸送品で,仙台藩は初期より買米(かいまい)制を実施し,江戸廻米を推進した。川筋各地に本石蔵および買米蔵が設けられ,貯蔵米は艜(ひらた),高瀬船などで石巻に下ろされた。代表的川船艜は180石積み程度が普通で,持主の艜主が運送に従事した。このほか役銭を納め商人荷を運ぶ渡世艜があったが数は少なかった。盛岡藩が北上川を利用するのは慶安期(1648-52)からで,黒沢尻以北は小繰舟が,黒沢尻以南は艜が舟航し,米のほか材木や銅などを運んだ。八戸藩も利用したが,共通して町舟の数が少なく,もっぱら藩の雇船による運送であった。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「北上川」の意味・わかりやすい解説

北上川【きたかみがわ】

岩手県北西部,七時雨(ななしぐれ)山に発し,奥羽山脈と北上高地の間の縦谷を南流,宮城県の石巻湾と追波(おっぱ)湾に分かれて注ぐ。長さ249km,流域面積1万150km2。古代には日高見川とみえ,中世には葛西氏・大崎氏によって領内統治に利用されている。流れがゆるやかで,江戸時代,奥州東部の大動脈として盛岡・仙台両藩の物資を運ぶ高瀬舟や平田舟が往来,40余の河港が栄えた。灌漑(かんがい)用水として北上盆地や仙北平野を潤すが,洪水の被害も多いため,国土総合開発地域に指定され,本支流に湯田ダム(和賀川),田瀬ダム(猿ヶ石川),石淵ダム(胆沢川),四十四田ダム(本流)などが建設され,洪水調節,農業用水利用が図られている。
→関連項目胆沢[町]石鳥谷[町]石巻[市]岩手[県]岩手[町]江合川江刺[市]河南[町]河北[町]北上[市]北上高地北上盆地猊鼻渓紫波[町]仙台平野津山[町]東和[町]豊里[町]登米[町]花泉[町]東山[町]平泉平泉[町]藤沢[町]前沢[町]水沢[市]宮城[県]桃生[町]盛岡[市]矢巾[町]湯田[町]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北上川」の意味・わかりやすい解説

北上川
きたかみがわ

岩手県北部、七時雨山(ななしぐれやま)(1063メートル)に源を発し、岩手県を南流して宮城県東部の追波湾(おっぱわん)に注ぐ東北一の大河。一級河川。延長249キロメートル、流域面積1万0150平方キロメートル。東に古生界を主とする北上高地、西に新第三系を主とする奥羽山脈があり、その間の低平な北上低地を流れる。岩手・宮城県境の磐井(いわい)丘陵を切る約20キロメートルの狐禅寺(こぜんじ)峡谷により下流部と中流部に、盛岡付近で中流部と上流部に分けられる。盛岡を下ると沖積低地の幅が広がり、岩手県の低地の主要地域を形成し、盛岡、花巻、北上、水沢、一関(いちのせき)などの都市が分布する。下流部では東の北上高地沿いに緩い峡谷をつくって南流し、西にきわめて低平な沖積地が広がる。中・下流部では稲作中心の農業が行われるが、上流部は水田率が低く、稲作に加えて乳用牛の飼育が行われている。

 北上川の名は「日高見国(ひたかみのくに)」の川、すなわちヒタカミ川に基づくといわれている。この地方が日高見国といわれた古代から、北上川は最大の交通路として利用されていた。近世には、流域の北半が盛岡藩領、南半が仙台藩領となったが、仙台藩では近世初めに下流部の大改修を行い、追波湾へ直接注ぐ河道を、石巻(いしのまき)市鹿又(かのまた)から、一方は石巻湾へ、一方は追波湾へ流し、迫(はさま)川の合流点を付け替え、江合(えあい)川を合流するなどの工事を実施した。これにより、仙台藩領北部と盛岡藩の米が北上川を通じて石巻に集められ、江戸へ海上輸送されることになった。流域には藩庫が置かれ、河港が発達し、石巻には藩の米蔵や役人の屋敷が設けられ、江戸、上方(かみがた)からの物資が集まるなど繁栄した。改修工事は宮城県北部の新田開発をも促した。北上川の舟運は、明治維新後は旧藩時代のさまざまな制約が取り除かれてさらに活発化し、東北経済の大動脈の役割を果たした。宮城県中部、鳴瀬(なるせ)川河口の野蒜築港計画(のびるちくこうけいかく)に伴い、北上川河口の石巻から8キロメートル上流の石井閘門(こうもん)とを結ぶ全長12.8キロメートルの北上運河が1882年(明治15)完成した。これは一時活況を呈したが、野蒜築港の失敗などにより目的を達成できなかった。1889年に東北線上野―盛岡間が完成すると、北上川の舟運は衰退し、鉄道が通らない下流部の河港の多くは繁栄から取り残された。昭和の初め、北上川は登米(とめ)市津山(つやま)町柳津(やないづ)から南へ直線的旧流路を利用して石巻市飯野川(いいのがわ)で追波川と結ばれ、以後これが本流となり、石巻への流路は旧北上川とよばれることになった。1951年(昭和26)の「国土開発法」により、北上川流域は特定地域の指定を受け、1953年から本・支流に治山治水、発電、灌漑(かんがい)のための多くの多目的ダムが建設され、総合的な地域開発が進められた。1975年には、下流部の宮城県石巻市に治水、灌漑、上水用として北上大堰(おおぜき)が完成した。また、北上川の洪水を防止する目的で、一関市では遊水地が建設中である。2011年(平成23)3月11日の東北地方太平洋沖地震では津波が河口から約50キロメートル上流まで遡上した。

[後藤雄二]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北上川」の意味・わかりやすい解説

北上川
きたかみがわ

岩手県北西部,七時雨山付近に発し,追波湾に注ぐ川。北上高地奥羽山脈の間を南流,途中東西両山地から流れる多くの河川を合流し,宮城県石巻市中北部付近で北東に方向を転じる。全長 249km。宮城県登米市南東部付近で分流する旧本流は,石巻湾に入る。江戸時代は奥州東部の交通の大動脈で,仙台藩盛岡藩の物資の輸送路であった。沿岸には盛岡,花巻,北上 (黒沢尻) ,江刺 (岩谷堂) ,一関などの河港が繁栄したが,1890年東北本線の開通により舟運は衰微した。勾配がゆるやかで水量が多く,北上盆地,仙北平野の灌漑用水に利用されてきた。県境の峡谷部ではしばしば洪水が起こり,下流部では支流の流入不能による洪水が多かった。そのため国土総合開発地域に指定され,本支流に四十四田ダム,田瀬ダム,湯沢ダム,湯田ダム,石淵ダム,栗駒ダム,花山ダム鳴子ダムなどのダムが建設され,発電,灌漑,治水がはかられている。

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「北上川」の解説

きたかみがわ【北上川】

宮城の日本酒。味わいは淡麗辛口。大吟醸酒、純米酒、本醸造酒など。蔵元の「石川酒造店」は明治15年(1882)創業。現在は廃業。蔵は石巻市住吉町にあった。

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事典 日本の地域遺産 「北上川」の解説

北上川

(岩手県盛岡市)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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世界大百科事典(旧版)内の北上川の言及

【岩手[県]】より

陸奥国
[中央から遠い北国]
 岩手県の地は,〈みちのく〉といわれた奥州のうちでも中央文化からほど遠い辺境の地とされてきた。8世紀中ごろ奥州開発が積極化し,坂上田村麻呂の蝦夷攻略を通して岩手は北上川沿岸から開かれ中央と結びつけられていった。奥州藤原氏が平泉の地に独自の黄金文化を築いたが,中世の岩手は鎌倉御家人によって分割支配され,盛衰・興亡をくりかえした。…

※「北上川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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