アレクサンダル(1世)(ブルガリアの公)(読み)あれくさんだる

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

アレクサンダル(1世)(ブルガリアの公)
あれくさんだる
Aleksandâr Ⅰ
(1857―1893)

ブルガリアの公。ドイツのヘッセン・ダルムシュタット公アレクサンダーの次男で、ロシア皇帝アレクサンドル2世の甥(おい)。前名Alexander Joseph von Battenberg。ドレスデンで軍人教育を受け、ロシア・トルコ戦争に参加。この戦争でブルガリアがトルコから解放されると、ロシア皇帝の支持を得てブルガリア公に選出された(1879)。当初ロシアの影響下で憲法を停止し、中小ブルジョアジーを代表する自由党を抑える政策をとったが、国内世論にも押されて、ブルガリアを属領視するロシアと対立するに至った。1885年、ベルリン条約でオスマン・トルコ帝国の自治州とされた東ルメリア反乱が起き、ブルガリア公国との合併が宣言されると、アレクサンダルは、ロシア外相と領土上の現状不変更を約束していたが、結局合併を承認した。これに態度を硬化させたロシアは派遣将校を全員引き揚げ、ロシアとの関係悪化を恐れた親ロシア派将校は、翌1886年8月に彼を国外に連行。アレクサンダルは9月に正式に退位した。その後、オーストリア亡命、オーストリア軍に勤務し、1893年11月17日グラーツで没した。

[寺島憲治]


アレクサンダル(1世)(ユーゴスラビア国王)
あれくさんだる
Aleksandar Ⅰ Karadjordjević
(1888―1934)

ユーゴスラビア国王(在位1921~1934)。1909年、父セルビア国王ペータル1世から皇位継承者に選定され、高齢で病気がちな父にかわり、1914年以後セルビア国摂政として国務に関与した。1918年、南スラブ人の統一国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」の建国を宣言し、1921年から統一国家の国王となった。集権分権かという国制の問題をめぐり、セルビア人とクロアチア人の対立が激化するなかで、1929年に議会を解散し国王の独裁を宣言、国名をユーゴスラビアと改称した。しかし国内の不満が高まり、1931年に新憲法を発布して議会を復活した。活発な外交活動を展開したが、国内問題が尾を引き、亡命クロアチア分離主義者により1934年マルセイユで暗殺された。

[柴 宜弘]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のアレクサンダル(1世)(ブルガリアの公)の言及

【ユーゴスラビア】より

…そして帝国瓦解直後の18年12月,セルビア,モンテネグロ両王国,旧帝国領内のクロアチア,スロベニア両地方を合わせ,セルビア王家の下に立憲君主制をとる〈セルビア人クロアチア人スロベニア人王国Kraljevina Srba,Hrvata i Slovenaca〉の樹立が宣言された。 新王国は摂政アレクサンダルAleksandar公(1888-1934。のち国王)を頂点とするセルビア政治エリート中心の体制をとったが,発足の当初から,中央集権を当然のこととするセルビアと連邦制を主張するクロアチアとの対立に悩まされ,ついにこれを克服することができなかった。…

※「アレクサンダル(1世)(ブルガリアの公)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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