ブルガリア(読み)ぶるがりあ(英語表記)Bulgaria

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブルガリア」の意味・わかりやすい解説

ブルガリア
ぶるがりあ
Bulgaria

正式名称はブルガリア共和国Republika Bǎlgaria。国名は、アジアから来住した遊牧民族ブルガール人に由来する。バルカン半島の東部に位置し、北はルーマニア、西はセルビアと北マケドニア共和国、南はギリシアとトルコ、東は黒海に接している。東西約520キロメートル、南北約330キロメートルの矩形(くけい)状である。面積11万0912平方キロメートル、人口792万8901(2001年国勢調査)。首都はソフィア。

 古来、この地域は、地中海東部およびアジアと西部・中部ヨーロッパとを結ぶ交通の要地であった。ヨーロッパにあるが、かつてはバルカンの後進国として、また、バルカンの農業国として知られてきた。しかし、第二次世界大戦後、社会主義国になって工業化が進み、著しい変貌(へんぼう)を遂げた。1989年民主化要求が高まり、1990年に共産党は一党独裁を放棄し大統領制に移行した。

 国旗は白、緑、赤の三色旗で、それぞれ平和と友好、農業と森林、軍隊の勇気と忍耐を表している。国歌は1964年制定の『ミラ・ロディノ』Mila Rodino(愛する祖国よ)。

[中村泰三]

自然

国土の3分の2は、標高500メートル以下の地域で、山地は国土の約3分の1を占める。国の中央に東西に延びる第三紀の褶曲(しゅうきょく)山脈スタラ・プラニナ(バルカン)山脈が、ブルガリアを南北2地域に分けている。平原はこの山脈の北のドナウ平原(国土の4分の1)と、南の上トラキア(マリーツァ)平原がある。スタラ・プラニナ山脈にはシプカ峠、トロヤン峠などの多くの峠があり、南北の交通は比較的容易である。一方、南西部から南部にかけては、リラ・プラニナ山脈、ピリン・プラニナ山脈、ロドピ山脈などの連なる山岳地帯で、バルカン半島の最高峰ムサラ山(2925メートル)がある。また、西部のスタラ・プラニナ山脈と南西部の山地間にソフィア盆地がある。スタラ・プラニナ山脈南斜面とこれに並行して走る中部山脈北斜面の間に多くの断層盆地があり、ブルガリアの特産バラ油の産地がここにある。国土面積に比して多いといわれる川は、ドナウ川をはじめ、イスクル川、ストルマ川、マリーツァ川、ヤントラ川などで、水力発電、灌漑(かんがい)用水などに利用されている。

 気候は弱い大陸性気候に属し、年平均気温は12℃である。北部のドナウ平原は、夏暑く、冬寒い大陸性気候であるが、南部は地中海性気候への遷移地帯となり、ストルマ川、マリーツァ川下流では地中海性気候である。年降水量は650ミリメートルで概して降雨は夏季に多い。しかし、しばしば干魃(かんばつ)にみまわれ、農作物に被害をもたらすので、灌漑設備を必要とする地域が多い。森林面積は国土の約30%で、その4分の3はカシ、ブナの広葉樹である。

[中村泰三]

地誌

ブルガリアはスタラ・プラニナ山脈により歴史的にも南北に二分され、そのおのおのでいくつかの地域に細分される。一般に、北を3区分、南を3~4地区に分ける。

 北部は農業が中心の地域であったが、ドナウ川の水運とかつてのコメコン加盟国に近いという有利な条件をもつことから、第二次世界大戦後の工業発展は著しい。とくに、北東部の諸都市で輸入原料をもとに、木材加工、化学、造船などの諸工業が発展している。また黒海沿岸の保養地も活況を示している。バルナを中心として「ブルガリアのリビエラ」とよばれる国際的な保養地帯が広がり、ズラトニ・ピャサツィZlatni Pyassatsi(「黄金の砂」の意)が著名で、多数の外国人が訪れている。農業は中部地帯でとくに盛んで、穀物(小麦、トウモロコシ)、工業用作物(テンサイ、ヒマワリ)のほか、野菜、ブドウ栽培も発展し、ヤントラ川とその支流ロシツァ川流域の灌漑地はブルガリア有数の菜園地域である。

 南部地域のうち、首都ソフィアのある南西部はブルガリアの行政、経済、文化の中心である。この地域の狭い山間盆地・河谷に、ブルガリアの人口の4分の1が集中している。工業は発展し、とくに電気機械、電子、工作機械、工業用設備などを製造する部門が盛んである。一方、農業生産は、タバコ、果物を除き、他地域からの移入に頼っている。

 南部地帯の中部、マリーツァ川流域の上トラキア平原とロドピ山脈のある地域では、中心都市プロブディフが牽引(けんいん)車的役割を果たしている。ロドピ山脈の水力、東マリーツァ褐炭田の褐炭を利用する電力の生産地で、他地域やトルコに送電している。鉱工業は地元産の鉱石を利用して、鉛・亜鉛などの非鉄金属、機械(電気機械、農業機械、ボールベアリング)、化学肥料、たばこ、缶詰製造工業が発展している。上トラキア平原はブルガリアの肥沃(ひよく)な農業地帯で、灌漑農業が発展している。小麦、米、タバコ、ヒマワリ、ワタ、ブドウ、野菜栽培や、養豚、ヒツジ飼養が盛んである。またブルガリアの山地は、一般に山地牧場でのヒツジの飼育で知られている。

 南東部はブルガスの石油化学、造船などの工業と、ブドウ、モモの産地で著名であるが、海岸地帯が国際的な保養地帯として発展、スランチェフ・ブリャグSlanchev Bryag(「太陽の海岸」の意)は有名である。

[中村泰三]

歴史

ブルガリア帝国時代まで

今日の記録に残されたブルガリアの最古の住民は、インド・ヨーロッパ語族のトラキア人である。ブルガリアの地は、紀元前4世紀にはマケドニア王国の支配下に入り、168年にこの王国がローマに滅ぼされるとトラキア、モエシア、マケドニアの3州に組み入れられ、後に東ローマ(ビザンティン)帝国に属することになった。民族大移動の時期にはゴート人やフン人が侵入したが、紀元後6世紀ごろからのスラブ人の南下は、この地の民族構成を根底から変化させた。一方、アゾフ海とカスピ海の間の地域に居住していたアジア系遊牧民のブルガール人は、4世紀後半にフン人の移動に押されて西進し、分裂後一部がハザール人に押されて670年代にドナウ川河口地域に進入し、この地のスラブ人を従えてビザンティン帝国を攻撃した。ビザンティン帝国は681年にアスパルフ・ハン(在位680~701ころ)と和議を結び、ブルガリア国家を承認した。現在の国名は、このブルガール人に由来する。

 新国家は、東部のプリスカに首都を置き、ドナウ川両岸に広がる地域を領土としていた。クルム(在位803ころ~814)の時代にブルガリアは、アバール人の衰退に乗じて領土を西に広げ、ビザンティン帝国を本格的に脅かすまでに勢力を伸ばした。当初ブルガール人は、ハン(汗)と貴族を中心とする政治制度や圧倒的な軍事力を背景として、数的に優位なスラブ人を支配していたが、しだいにスラブ化が進み、クルムの時代には、多数のスラブ人が国家の要職に登用された。このスラブ化を決定的にしたのはキリスト教への改宗である。ボリス1世(在位852~889)は、スラブ人とブルガール人の統合を図るためにキリスト教の導入を考えていたが、862年にブルガリアはビザンティンとの戦いに敗北し、864年にキリスト教への改宗をも含む和議に応じ、ブルガリア大主教座の設立を認めた東方正教会を870年に最終的に受け入れた。そのころ、グラゴール文字を考案してスラブ語で布教活動を行っていたキュリロスとメトディオスの弟子たちがチェコのモラビア地方から追放されると、ボリスは彼らに積極的な庇護(ひご)を与えた。そのため教会文書のスラブ語訳と典礼のスラブ語化が進み、キリスト教は急速に浸透して文化的にも繁栄した。現在使われているキリル文字(ロシア文字)は、この時代にブルガリアで考案され、セルビアやロシアに広まったものである。この改宗とキリル文字の採用は、その後のブルガリアの文化的、政治的な方向に大きな影響を与えることになった。

 ボリスの子シメオン(在位893~927)の時代にブルガリアは、フランク王国などと並ぶヨーロッパの大国に成長し、913年にシメオンはブルガリア皇帝(ツァール)の称号を認められた。しかし、ビザンティン帝国との長期にわたる戦いで民衆は疲弊し、シメオン没後には内訌(ないこう)で政治は乱れたので、ブルガリアは急速に衰退に向かった。このような状況のなか、後にイタリアやフランスのキリスト教異端のカタリ派にも大きな影響を及ぼすことになった二元論的な異端のボゴミル派が広まった。

 ビザンティン帝国はこの事態に乗じてバルカン支配の再建にとりかかり、10世紀後半には東ブルガリアを自国の領内に併合した。一方、西では、サムイル帝(在位997~1014)が、オフリドを中心として勢力を保っていた。しかし1014年にビザンティン皇帝バシレイオス2世の猛攻を受けて、1018年までにブルガリアは、完全にその支配下に置かれた。建国からこの時期までのブルガリアは、通例、第一次ブルガリア帝国とよばれる。

 バシレイオス没後、1185年にビザンティンによる特別税の導入がきっかけで、北ブルガリアで抵抗運動がもち上がった。タルノボ(現ベリコ・タルノボ)一帯を掌握していたクマン系のブルガリア人貴族ペータルとアセンの兄弟が蜂起(ほうき)し、3か月にわたる攻防戦の末に和議が結ばれ、1187年にタルノボを首都とする第二次ブルガリア帝国が成立した。

 カロヤン(在位1197~1207)の時代には勢力を南に広げ、イワン・アセン2世(在位1218~1241)の時代にはさらに領土を拡大して最盛期を迎え、首都タルノボに独立の総主教座を復活させて、ブルガリアはかつての高い文化と国力を再興した。イワン・アセン2世没後の1242年モンゴルの侵略を受けると、ブルガリアは衰退に向かい、貴族の内訌が続いた。さらに、モンゴルがふたたび来襲してくると、権力に不満を抱く民衆は、1277年に豚飼いのイバイロを指導者とする大規模な農民反乱を引き起こした。西からは隣国セルビアの勢力の伸張を受けてブルガリアはさらに衰退し、14世紀中ごろには地方諸侯の割拠と国内の分裂が続いた。このような状況下で東からのオスマン帝国の来襲を受け、14世紀末までにはブルガリアのほぼ全域がオスマン帝国の支配下に置かれた。

[寺島憲治]

民族解放、公国、人民共和国成立まで

オスマン帝国は、原則としてイスラム教への改宗を強要せず、宗教的共同体の自治組織(ミッレト制度)による間接的な支配を行ったので、大部分のブルガリア人は同化されなかった。また、ティマール制とよばれるオスマン帝国の軍事封土制がこの地にも確立され、キリスト教徒農民は一定の租税を支払う限りは、以前よりも安定した生活を送れるようになった。18世紀に入ると西欧諸国やロシアなどの大国の関心が向けられ、いわゆる「東方問題」が発生した。オスマンの支配機構も変質していき、徴税請負制度(イルティザーム制)や、西欧の産業革命に呼応した商品作物をおもに栽培する私的大土地所有制度(チフトリキ制)が成立すると、キリスト教徒農民は過重な収奪にさらされた。ブルガリア地方では、群盗の跋扈(ばっこ)とこれに対抗する義賊の抵抗運動も活発になった。

 オスマン帝国の支配がもたらした新しい制度は、一方で、ブルガリア人にも多くの機会を与えた。彼らは手工業や商業に携わって力を蓄えてくると、民族的自覚も徐々に高まり、1762年に修道士パイシー・ヒレダールスキが、『スラブ・ブルガリア史』を著して民族覚醒(かくせい)の口火を切った。バルカン山麓(さんろく)の手工業や商業の村や町では、19世紀に入ると教会から独立したブルガリア語による世俗教育が整備され、しだいにブルガリア各地に広まった。また、近隣のセルビアとギリシアでの民族独立の達成も、ブルガリア人の民族的自覚の形成に大きな影響を及ぼした。

 オスマン帝国の首都に近かったブルガリアでは隣国とくらべて独立運動が遅れていたが、1839年のギュルハネの改革勅令やクリミア戦争(1853~1856)を契機に急速に進んだ。独立運動は、政治的支配者のオスマン帝国に対する抵抗と、支配機構と結びついて教会や教育を支配していたギリシア人に対する抵抗の両面で行われた。1860年代に西欧やロシアに留学し革命思想を吸収した者のなかには、オスマン帝国の領域外に拠点を設けて独立運動と蜂起準備を進める者も現れた。バシル・レフスキは、1869年にブカレストでのブルガリア革命中央委員会の設立に参加したが、運動半ばで逮捕・処刑され、運動はボテフらに引き継がれた。彼らは、前年のボスニア・ヘルツェゴビナの反乱に促されて1876年5月(旧暦4月)に蜂起した(四月蜂起)が、ブルガリア全土に広がるにはいたらず、逆にオスマン政府はチェルケス人や不正規兵を使って多数の住民を虐殺し鎮圧した。この事件は、「ブルガリアの恐怖」として国際的な反響をよび起こし、1877~1878年のロシア・トルコ戦争を誘発することになった。オスマン帝国はこの戦争に敗北し、1878年ロシアとの間にサン・ステファノ条約が締結された。西欧列強諸国は、この国が事実上ロシアの傀儡(かいらい)であり、バルカン半島の勢力均衡を崩すとして介入し、同年7月のベルリン条約で「大ブルガリア」は3分割され、バルカン山脈以北のブルガリア公国はオスマン帝国に貢納義務を持つ自治公国となり、南の東ルメリアはオスマン帝国の自治州に、マケドニアはオスマン帝国に戻された。これが、後に、マケドニア問題とブルガリアの「失地回復」運動を引き起こすことになる。

 ブルガリアはいまだ完全な独立を達成していなかったが、1879年に憲法を採択し、同年ドイツ人のバッテンベルク侯アレクサンダル(在位1879~1886)が公に選出された。1885年に東ルメリアでブルガリア人が蜂起し、公国との統合が宣言された。これがバルカン半島の勢力均衡を崩すとして、公は国内の反ロシア勢力とのつながりを強めてこの統一を承認した。オーストリアは、セルビアを煽(あお)ってブルガリアに宣戦させたが、ブルガリアはこれに勝利し東ルメリアの併合が国際的に承認された。しかし、ロシアの圧力はさらに強まり、1886年親ロシア派のクーデターで公は退位させられた。1887年フェルディナンド(在位1887~1918)が即位すると、国力の充実を図り、実権を握っていた反ロシア的な首相スタンボロフを解任し、長子を正教に改宗させてロシアとの関係改善を図った。国内では政党を対立させて操縦し、特権層を育成した。しかし農民は重税に苦しみ、暴動を頻発させた。このような動きのなかで形成された農民同盟は、後にブルガリア最大の政党にまで発展した。

 1908年の青年トルコ革命を機に、ブルガリアは完全独立を果たし、翌年、国際的にも承認され、公の称号も国王(ツァール)に改められた。1912年に第一次バルカン戦争でトルコに対して戦い多くの領土を得たが、1913年の第二次バルカン戦争で敗北し、先の戦争で得た領土の大部分を失い、さらに南ドブルジア(ドブルジャ)まで割譲した。問題のマケドニアも、北東部の一部を自国領土に加えただけで、国内に多くの不満を残すことになった。

 第一次世界大戦では、ドイツ・オーストリア側にたって参戦したが、長引く戦争に厭戦(えんせん)気分が広がった。結局ブルガリアは戦敗国となり、国王は退位して息子のボリス3世(在位1918~1943)が即位した。1919年のヌイイ講和条約で、ブルガリアは領土を失いエーゲ海への出口をも失って巨額の賠償金を課せられた。1920年には農民同盟のスタンボリースキが内閣を組織するが、彼の急進農本主義と対外協調路線が右派の反発を買い、クーデターで倒された。1923年には共産党の蜂起が失敗しテロが吹き荒れた。ボリス3世は、支配層の対立に乗じて徐々に勢力を伸ばし、1935年には国王独裁制を敷いた。

 第二次世界大戦では1941年に枢軸側について参戦した。左翼勢力は、1942年に労働者党(共産党)を中心に「祖国戦線」を結成して反ファシズム・パルチザン運動を開始した。1944年9月ソ連が宣戦を布告してブルガリア領内に入ると、それに時をあわせた「祖国戦線」のクーデターが成功して独裁体制が倒れ、10月に連合国と休戦協定が調印された。1946年には国民投票で王制が廃止されてシメオン2世(在位1943~1946)は国外に去り、同年、人民共和国宣言が発せられてディミトロフ内閣が成立した。

[寺島憲治]

社会主義時代から体制崩壊まで

東西対立の深刻化のなかで労働者党による権力掌握が進み、ニコラ・ペトコフNikola Petkov(1893―1947)などの野党勢力は圧力や粛清を受けた。1947年末には新憲法(通称ディミトロフ憲法)が採択され、翌1948年に労働者党は、党名を共産党に戻した。この時期以降、基幹産業の国有化と農業の協同組合化、急激な工業化が行われた。1949年以降になるとスターリン主義路線が実行され、1955年にはワルシャワ条約機構に加盟した。

 1956年のスターリン批判の影響で首相チェルベンコフが失脚し、共産党の第一書記のジフコフが全面的に権力を掌握した。1950年代から1960年代にはソ連型の工業化が追求され、ペルニクやクレミコフツィで大規模製鉄工場が建設された。この政策は、ブルガリアに高い経済成長率をもたらしたが、1960年代の半ばから計画経済のひずみも現れた。そこで、計画経済という枠組みは維持しながらも、労働者の参加や企業の自主性を促す政策がとられた。文化面でもリベラルな雰囲気が感じられたが、1968年のチェコ事件を機に締め付けが行われた。しかし、住民レベルでみると、1970年代は反動として物質的な豊かさが追求された時代で、1971年には「発達した社会主義社会」の建設を目標とする新憲法が制定され、乗用車が普及し、サービスや消費生活が向上し、各地に文化施設が建設された。

 1970年代の石油ショックは、ブルガリア経済にも徐々に影響を及ぼし抜本改革を迫るものであったが、1982年に導入された「新経済メカニズム」も不徹底で十分な成果を上げることができなかった。政府は、1980年代前半に「建国1300年」キャンペーンを大々的に繰り広げて民族文化を強調したが、一方で1980年代後半からイスラム教徒住民の名前を強制的にブルガリア風に改めさせる創氏改名運動を強行した。1989年には旅券法と国籍法の改正をきっかけとしてトルコ人の大量出国を招き、国内外の批判を招いた。同年10月にはソ連の改革の波を受けて設立された人権団体や環境団体が共産党体制の下で初の反体制デモを行った。党内の改革派は、この機会にジフコフの辞任とムラデノフPetar Toshev Mladenov(1936―2000)の新書記長就任を発表し、党の指導制や民主集中制を廃止して自己改革を図ったが、トルコ人問題に対する対応や上からだけの改革が国民の反発をよび、いっそうの改革を迫られた。相次いで設立された反体制諸勢力は、1989年12月に連合して「民主勢力同盟」を結成し、共産党との対決姿勢を明確にした。1990年には共産党が社会党と改名した。

 1990年6月の、第二次世界大戦後、初の自由選挙では社会党が勝利したが、社会党政権は、大統領の退陣と経済危機の深刻化を前にした国民の退陣要求に屈して総辞職に追い込まれた。1991年の新憲法成立後に行われた選挙では、民主勢力同盟が勝利したが、同盟が三派に分裂したこともあって過半数には至らず、トルコ系住民の支持を中心とする「権利と自由のための運動」の閣外協力を仰ぐことになった。その後も、経済改革の不徹底と広がる住民の経済格差から、社会党と民主勢力同盟の間でめまぐるしく政権交代が続いた。1997年には急速なハイパー・インフレーション(超インフレ)による批判を受けて繰り上げ選挙が行われ、民主勢力同盟が勝利しコストフ政権が誕生した。ブルガリアの通貨レバは、ドイツ・マルクと連動されインフレは収まったが、法律は制定されても遅々として進まぬ民営化や農地の返却、工業生産の低迷と環境問題や原発問題など、抱える問題はいまだ抜本的解決をみるに至っていない。

[寺島憲治]

政治・外交・防衛

政治

1990年6月、戦後初の自由選挙となる国会選挙(400議席)で社会党(旧共産党)がかろうじて過半数を占めたが、民主勢力同盟(UDF)が進出し、同年中に大統領、首相が非共産系に変わった。1991年7月、新憲法制定。同年10月総選挙(240議席、任期4年)が行われ、UDFが辛勝、フィリップ・ディミトロフPhilip Dimitrov(1955― )を首相とする戦後初の非共産系内閣が成立した。しかし、新政権の急進的な改革は反対も強く、1992年10月ディミトロフ政権は辞職し、大統領顧問であったベロフLyuben Berov(1925―2006)が首相となった。しかし、政局は安定せず、1994年12月総選挙が行われた。この選挙で社会党が過半数を得て、社会党議長ビデノフが首相となった。社会党はこれまでの改革路線を一部修正しつつ改革を進めたが、経済の悪化は続き、国民の不満が強くなった。1996年11月の大統領(任期5年)選挙にUDFのストヤノフPetǔr Stoyanov(1952― )が勝利し、続発する全国的な反政府デモにより繰上げ選挙が1997年4月に行われ、UDFが大勝、5月UDF議長のコストフIvan Kostov(1949― )を首相に新内閣が発足した。2001年6月、任期満了に伴い総選挙が行われ、シメオン2世国民運動(NMS)が与党であるUDFを大きく引き離し第一党となり、元国王シメオン2世(1937― 、シメオン・サックス・コーバーグ・ゴータSimeon Saxe-Coburg-Gotha)を首相とし、権利と自由のための運動(MRF)との連立政権が樹立された。シメオン2世は王制廃止(1946)後スペインに亡命していたが、共産党政権の崩壊(1989)を経た1996年に帰国、2001年4月にNMSを発足させていた。

 また、2001年11月、任期満了に伴う大統領選挙が行われ、社会党(旧共産党)議長ゲオルギ・パルバノフGeorgi Parvanov(1957― )が、現職のストヤノフを破って当選、2002年1月大統領に就任した。

 2005年6月に行われた総選挙では社会党が第一党となり、8月に社会党党首セルゲイ・スタニシェフSergei Stanishev(1966― )が首相に就任し、NMSを含む3党による大連立内閣が発足した。また2006年10月には大統領選挙が行われ、パルバノフが再選された(2007年1月再任)。

 ブルガリアの地方行政地域は共産党政権時代、細分化されていたが、その後、九つの州にまとめられ、さらに現在は28州となっている。裁判所は最高裁判所、憲法裁判所を初めとして、州、地方自治体に裁判所がある。

[中村泰三]

外交

共産政権時代のソ連追従外交から変化し、西側先進国やトルコとの友好関係の増進に努めている。1993年3月EC(ヨーロッパ共同体)準加盟国となり、2004年3月にはNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)、2007年1月にはEU(ヨーロッパ連合)への加盟を果たした。国内の少数民族であるトルコ人に対するこれまでの差別を改めてトルコとの関係改善が進み、1995年7月、トルコの大統領がブルガリアを訪問した。また、1992年2月黒海経済協力グループに加入している。旧ユーゴスラビアから独立した隣国マケドニア共和国(現、北マケドニア共和国)との外交関係が1993年樹立され、ロシアとの関係も1992年8月のエリツィン大統領のブルガリア訪問以降、緊密化した。

[中村泰三]

防衛

18歳から27歳までの間に9か月の徴兵制をとっていたが、2007年11月に徴兵制は廃止された。兵力は5万1000人(2005)、うち陸軍2万5000人、空軍1万3100人、海軍4370人で、ほかに国境警備隊などが置かれている。国防予算は6億9000万ドル(2006)。

[中村泰三]

経済・産業

ソ連圏の崩壊後ブルガリアも経済改革を進め、国際通貨基金(IMF)の勧告を受け入れて1991年からショック療法による急激な経済変革を図った。国有企業民営化法、外資法、銀行法、没収資産の所有者への返還法などが採択されたが、ほかの東欧諸国と比べ、改革が不徹底で、不法な経済活動がはびこり、急速な生産低下が生じ、1991年の実質経済成長率は-11.1%であった。しかし、1994年は1.4%、1996年4.0%となり、ようやく経済の回復傾向がみられる。

[中村泰三]

資源

資源に恵まれているほうではない。エネルギー源として石炭、石油、天然ガスの埋蔵量は少ないが、褐炭に比較的恵まれ、火力発電に利用している。したがって、エネルギー資源の不足から原子力発電に熱心である。鉱物は鉛、亜鉛、銅がヨーロッパ諸国のなかでは多いほうで、開発が進められている。また、岩塩、大理石があり、化学工業、建設資材に利用している。なお、鉱泉は多く、温泉も各地にみられる。

[中村泰三]

農業

ブルガリアは農業生産物の自給が可能な国で、野菜、果物類はいまも重要な輸出品である。農産額はかつての農作物生産中心から、畜産の発達に伴い、畜産部門の比重が高くなっている。しかし、経済改革以降、農業生産の低下が著しい(1995年の生産は1990年の51.1%)。なかでも葉タバコ、野菜、果物や畜産の減少が目だっている。

 おもな農作物の1995年の生産は、穀物(小麦320万6000トン、大麦90万6000トン、トウモロコシ120万2000トン)のほか特産の葉タバコ(249万1000トン、1994)、テンサイ(249万1000トン、1994)などである。ブドウ(49万8000トン、1994)は経済改革後の生産低下が著しい。

 おもな家畜の1995年の飼育数はヒツジ(1339万8000頭)、ブタ(198万6000頭)、ウシ(63万8000頭)。

 かつての農業集団化時代から個人農場を認める時代になって、多くの集団農場が解体され、今では農業総生産の70%以上が個人農場で生産されている。

[中村泰三]

鉱工業

社会主義時代の工業化政策でブルガリアの工業は発展し、重化学工業の工業生産に占める比重も大きくなった。しかし、ソ連崩壊後の経済改革により生産は著しく低下し、1995年の生産は1990年の68%に落ち込んだ。なかでもコメコン(経済相互援助会議)加入時代のブルガリアの主要輸出品であった電動フォークリフト、エンジン・フォークリフトの減産が顕著である。電動フォークリフトは1991年の生産1万8600台から1994年3400台、エンジン・フォークリフトは9000台から1700台。そのほか、軽工業、食品工業生産も輸入品の増加、国内需要の低下により減少している。たとえば、綿織物は1991年の1億2600万平方メートルから1994年6900万平方メートル、肉製品は9万1000トンから3万7000トンに減産している。

[中村泰三]

輸出入

コメコン加入時代のブルガリアはコメコン加入国との取引が大きく、全体の4分の3を占めていた。体制変換後はEU(ヨーロッパ連合)との取引がコメコン加入国との取引よりも大きくなっている。1995年のEUとの貿易が全体の40%近くになり、かつてのコメコン加入国との取引は3分の1強に低下した。主要貿易相手国はロシアをトップとしてドイツ、イタリア、マケドニアなどである。ロシアはブルガリアのエネルギー供給国なので取引額が大きい。

 主要輸入品はエネルギー(原油)、消費財(砂糖、乗用車)、医薬品などであり、主要輸出品は鉱産物(銅、亜鉛)、農産物(家畜、乳製品、野菜缶詰、ワイン、紙巻タバコ)、化学製品(尿素、ポリエチレン)などである。日本との貿易は減少傾向にあり、1996年は取引額4900万ドルであった。

 外貨獲得のため観光業の発展に早くから力を入れており、外国客の誘引に熱心である。

[中村泰三]

金融・財政

1991年国立銀行法が制定され、中央・発券銀行としての国立銀行と民間銀行が分けられた。民間銀行は旧体制崩壊後、多数設立されたが、同時に統廃合も活発で、1995年36行を数えている。1995年の歳入は3403億レバ、歳出は3600億レバで赤字である。

 支出のおもなものは社会保障、補助金、国防費である。

 ほかの東欧諸国に比べ、民営化のテンポの遅れから外資の導入はまだ少ないが、外資導入に必要な法整備が進められ、先進国、国際金融機関からの資金援助も増えつつある。外国からの投資はエネルギー産業やインフラストラクチャー(道路、空港などの経済基盤)部門に大型投資がなされ、小規模投資は貿易、商業、観光部門に多い。1994年外国からの直接投資は1億ドルを超えた。対外債務は103億ドル、外貨準備高は5億ドルである(1996)。

[中村泰三]

交通・通信

1平方キロメートル当りの鉄道密度や舗装道路密度は旧東欧のなかで低かった。舗装道路は3万3900キロメートル、高速自動車道は266キロメートルで未発達である(1993)。

 自動車はかなり普及していて、人口5人当り1台の割合である。電話は人口6人に1台、テレビは5人弱に1台である(1994)。

[中村泰三]

社会

ブルガリア人はスラブ人の一派で、先住民のトラキア人やブルガール人、トルコ人、ギリシア人などと混血して形成された。このブルガリア人が全人口の約85%を占める。少数民族のうち最大の人口をもつのは全人口の約9%を占めるトルコ人で、ほかにアルメニア人、ルーマニア人、ロマが居住するが少数である。公用語はブルガリア語である。

 ブルガリアの人口は近年減少している。1986~1995年の間に人口は50万人余、約6%減少した。主因は出生率の低下、死亡率の上昇で、1990年より自然増加率はほぼマイナスとなり、1999年の出生率は1000人当り8.8人、死亡率は13.6人であった。総人口は847万2724(1992)、877万5198(1995)、793万2984(2001)と推移している。

 1人当りGNI(国民総所得)と生活水準をみるとブルガリアは旧東欧のなかで下位に位置してきたが、農業生産が豊かなので食糧に恵まれ、生活が困難というわけではなかった。体制転換後は経済不振により、国民の生活は苦しくなっている。2000年の1人当りGNIは1520ドルで、ポーランドの2分の1以下、チェコの約3分の1である。その上貧富の差が拡大し、社会不安を引き起している。

 教育では初中等教育(6歳から17歳まで)のうち初等教育8年が義務教育となっているが、識字率は98%(2000)といわれ、ヨーロッパ諸国のなかでは低い。中等教育終了後に高等教育機関に入学を希望する学生は、大学(4総合大学)や42の大学相当の高等教育機関をはじめ、技術・教育・交通などの専門教育を行う準高等教育機関に入る。政府の奨励もあって私学が増え、高等教育機関数は増加している。

 宗教はブルガリア正教会が80%以上を占め、ほかにイスラム教、ユダヤ教、ローマ・カトリックなどである。

 社会主義政権時代からの無料の医療サービスは現在も続けられているが、かつて禁止されていた民営の医療は認められ、増加している。1996年の統計によると、医療施設289、ベッド数8万6160、医師(歯科医を含む)3万4996となっており、国民1000人当り、医師は4人、病院のベッド数は10である。また、失業、病気療養、産休手当や年金は支払われている。

[中村泰三]

文化

かつて農民の国ブルガリアといわれたこの国の人々は、勤勉で質素という特性で知られていた。また、現実的なものの考え方をするので、宗教への関心が比較的薄いともいわれる。今日でもこの傾向はみられ、住民生活は質実である。

 バルカンの他の国と同じように、古代、中世に栄えたこの国はトルコの長年の支配下に文化的発展への道が閉ざされ、19世紀後半のブルガリア復興期以降、ふたたび芸術も盛んになってくる。ただ、西欧文化の流入がこの時期以降になるので、音楽などは古い民謡・民族舞踊が多数残り、今日、伝統文化として保存に力が入れられている。一般に、ブルガリア人は歌が好きで、オペラ、合唱の水準は高く、オペラ歌手ではニコライ・ギャウロフ、ニコラ・ニコロフ、ニコラ・ギュゼレフなどが世界的に著名である。また、合唱団も国際的に知られ、「グスラ」「カバル」などの合唱団がある。また、バルナの国際バレエ・コンクール、ソフィアの若手オペラ歌手の国際コンクール、「太陽の海岸」での国際音楽フェスティバルなどが知られている。1984年の劇場数は63、延べ観客数は580万人であった。

 文学も復興期以降、盛んになり、当初はボテフらの詩人が活躍したが、日本で翻訳されたイワン・バーゾフの長編『軛(くびき)の下で』などの優れた小説も現れ、第二次世界大戦後も多数の作家が活躍し、ディミトル・ディモフの『タバコ』は日本で翻訳されている。

 これらの芸術活動の発展は、オスマン帝国の支配下に始まった「チターリシチェ」とよばれる読書クラブによるところが大きく、種々の文化、教育活動を組織し、100万人を超える会員をもっている。出版活動は盛んで、住民1人当りの書籍発行部数は6冊(1980)であった。また、1997年の統計では、国立図書館1、公立図書館4237、高等教育機関の図書館92となっている。

[中村泰三]

日本との関係

日本から遠いバルカンの国なので、日本人にはなじみが薄いが、ブルガリアは親日国である。1959年(昭和34)日本と国交を回復し、1975年文化交流協定に調印、1970年と1978年にブルガリアの元首(国家評議会議長)ジフコフが来日、日本からは1979年に当時の皇太子夫妻がブルガリアを訪問した。現在、双方の間に留学生の交換をしているが、少数で研究者も少ない。社会主義政権崩壊後、文化部門への無償資金援助、産業部門へのブルガリア研修生の受入れ、鉱・工業施設改善への円借款が実施されている。なお、2009年5月に秋篠宮夫妻がブルガリアを訪問している。また、大相撲で活躍した元大関琴欧州(本名、安藤カロヤン。1983― )はブルガリア出身である。

[中村泰三]

『今岡十一郎著『ブルガリア』(1962・新紀元社)』『香山陽坪著『ブルガリア歴史の旅』(1982・新潮社)』『矢田俊隆編『世界各国史13 東欧史』新版(1977・山川出版社)』『木戸蓊著『バルカン現代史』(1977・山川出版社)』『森安達也・今井淳子訳編『ブルガリア 風土と歴史』(1981・恒文社)』『C&S・ジェラヴィチ著、野原美代子訳『バルカン史』(1982・恒文社)』『ギュゼーレフ他著、寺島憲治訳「ブルガリアⅠ・Ⅱ」(『世界の教科書=歴史』1985・ほるぷ出版)』『Information Bulgaria (1985, Pergamon Press, Oxford)』『アーウィン・サンダース著、寺島憲治訳『バルカンの村人たち』(1990・平凡社)』『イーリ・アベル、小川和男訳『苦悩する東欧』(1991・TBSブリタニカ)』『田嶋高志著『ブルガリア駐在記』(1994・恒文社)』『小川和男著『東欧 再生への模索』(1995・岩波書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「ブルガリア」の意味・わかりやすい解説

ブルガリア
Bulgaria

基本情報
正式名称=ブルガリア共和国Republika Bǎlgarija/Republic of Bulgaria 
面積=11万0879km2 
人口(2010)=753万人 
首都=ソフィアSofija(日本との時差=-7時間) 
主要言語=ブルガリア語(公用語),トルコ語 
通貨=レフLev

ヨーロッパ大陸の南東端,バルカン半島の東部にある国。ブルガリア語ではバルガリアBǎlgariaと呼ばれる。第2次大戦後に社会主義国として〈ブルガリア人民共和国Narodna Republika Bǎlgaria〉と称したが,1990年の体制変革により〈ブルガリア共和国〉となった。北はドナウ川を隔ててルーマニアと接し,東は黒海,南はギリシアとトルコ,西はユーゴスラビアと国境を接している。

平野部が少なく,山と丘陵が多い。バルカン山脈(ブルガリア語ではスターラ・プラニナStara Planina山脈)が中央部を東西に横切り,気象条件の異なる南と北の部分に国土を両断している。

 国土を地形によって分けると,次の4地帯に大別される。

(1)バルカン山脈から北に向かって緩やかに下ってドナウ川に至る地域。ドナウ台地と呼ばれ,主として白亜紀石灰岩の水平層からなり,一部はレスに覆われている。冬には寒風が,夏には乾燥した強風が吹き,樹木の生育が悪い。西部にはこの国第2のイスカルIskǎr川が南~北に流れている。

(2)中央部は厚い森林の山脈地帯である。全長530kmに及ぶバルカン山脈は,アルプス山脈,カルパチ(カルパティア)山脈に連なる褶曲山脈で,西部には標高2000m前後の高峰があり,東部は1000mくらいで2~3の支脈に分かれている。山脈の多くは浸食されて丸みを帯び,高原の様相で,夏季には放牧場となる。山脈地帯の人口密度は希薄で,山あいの谷や盆地に集落が点在している。

(3)山脈の南部は北からの寒風が山脈によって遮られるので温暖で,地中海式気候から温帯大陸性気候への移行地域となっている。森林に覆われたスレドナ,スリエナの両山地がバルカン山脈と平行し,その間に数多くの盆地がある。草が多くて放牧地となっており,酪農が行われる。南東部の北トラキア平野は豊かな農業地帯が黒海まで続く。南西部のリラ山脈に源を発するマリツァ川が東流してギリシア,トルコとの国境をなしている。流域は肥沃な土壌で,一大農業地帯を成し,プロブディフなど多くの都市が発達している。

(4)南西部にはピリン山脈,リラ山脈,ロドピ山脈の三つの山脈があり,リラ山脈のムサラMusala山(2925m)はバルカン半島の最高峰である。これらの山脈は古い花崗岩や片麻岩からなり,その上を新しい堆積物が覆っているが,山頂部は浸食されて峻険な形状を呈している。森林は比較的豊かで,山麓にはブナ,ナラの樹林帯,その上にモミ,マツの樹林帯があり,山頂部は草原で放牧に利用され,アルプスのような風景が見られる。

 住民の87.9%がブルガリア人で,トルコ人(9.8%),ジプシー(1.8%),アルメニア人,ギリシア人,ロシア人,ユダヤ人,タタール人,ルーマニア人などがいる。国民の大部分はブルガリア語を用いているが,第一外国語はロシア語で,小学校の課程に入っている。宗教的には,東方正教徒が大多数を占めるが,イスラム教徒がこれに次ぎ,カトリック,プロテスタントも少数ながら存在する。

歴史時代以後のブルガリアの最も古い住民はトラキア人で,ホメロスの《イーリアス》に初めてその名が見られる。トラキア人に次いで古い住民は黒海沿岸の植民都市のギリシア人で,前7世紀ころから活発な貿易活動を行っている。前5世紀にトラキア人は部族連合から国家形成へと進むが,マケドニア王国,ケルト人,ローマ人の侵攻を相次いで受け,1世紀中ごろローマ帝国の支配下に入った。この時代ローマ風の都市が各地に建設されている。4世紀末の東西ローマ帝国の分立で,この地域はビザンティン帝国領となったが,ゴート族やフン族の侵入で著しく荒廃した。

 6世紀初めスラブ人の南下が始まり,7世紀前半の大規模な移住によってバルカン半島は急速にスラブ人の地と化した。次いでトルコ系のブルガール族(原ブルガリア人)がカスピ海付近からドナウ河口に移動して来たが,強力なビザンティン軍を前にして両者は連合し,681年アスパルフAsparuhのもとにスラブ・ブルガール国家(第1次ブルガリア帝国)が成立した。初め国の上層部を占めたのはブルガール族であったが,時とともに数的に優勢なスラブ人に同化され,新たなスラブ系〈ブルガリア人〉が形成されていった。9世紀中ごろまでにブルガリアは急速に領土を拡大し,ビザンティン帝国,東西両フランク王国に並び立つまでになった。864年ボリス1世(在位852-889)は東方正教を国教としたが,スラブ語典礼およびスラブ文字の普及に努め,続くシメオン1世(在位893-927)はさらに領土を拡大し,ビザンティン帝国に朝貢を課し,皇帝を称した。彼の時代にブルガリアは最盛期を迎えたが,その死後内部分裂で衰退に向かい,サムイル帝(在位997-1014)時代に一時的に勢力を回復したものの,1018年ビザンティン帝国に征服された。170年間のビザンティン支配の後,1186年ブルガリアは再び独立を回復し,タルノボTãrnovoを首都とする第2次ブルガリア帝国が建設された。カロヤンKalojan帝(在位1197-1207)とアセン2世Asen Ⅱ(在位1218-41)の時代にタルノボはスラブ中世文化の中心地として栄え,教会,修道院,学校が多数建てられ,そこで制作された典礼書や聖人伝などの写本はセルビア,モルダビア,ロシアへと伝えられて大きな影響を与えた。アセン2世の死後,ブルガリアはモンゴル軍の侵入で急速に弱体化し,内乱と分裂のすえ,1396年オスマン帝国に征服され,以後500年に及ぶ異民族支配の時代が始まったのである。

 西欧やスラブ世界とのつながりを失ったブルガリアは,経済的にも文化的にも極度に荒廃し,ハイドゥク(山地に拠った抵抗者)たちの抵抗や数次の反乱も容易に鎮圧された。18世紀後半オスマン帝国はようやく衰退に向かい,資本主義的経済関係の発生とともに,ブルガリア人の間にも富裕な階層や知識人が生まれ,彼らを中心に民族意識が芽生え始めた。この時期,民族的覚醒を促すうえで大きな役割を演じたのは修道士パイシーの《スラブ・ブルガリア史》(1762完成)であった。19世紀に入りギリシア人の文化的・宗教的支配に対してブルガリア語教育運動が展開され,1870年にブルガリア教会が独立するとともに,オスマン帝国に対する政治的独立の気運が急速に高まった。76年4月,国内各地に組織された革命委員会による一斉蜂起が決行されたが,オスマン帝国軍によって徹底的に鎮圧された(四月蜂起)。しかしこの時に起こった〈ブルガリア人大虐殺事件〉は国際問題となり,翌77年のロシアの対オスマン帝国宣戦の契機となった(露土戦争)。

 78年ブルガリアはロシア軍によって解放された。オスマン帝国は講和を余儀なくされ,サン・ステファノ条約が終結されたが,これによるとブルガリアはマケドニアや旧セルビア領にまたがる公国になるはずであった。ブルガリアを通じてのロシアのバルカン半島への勢力拡大を恐れた西欧列強は,これに強く反対し,ベルリン会議でサン・ステファノ条約は大幅に修正された。結局ブルガリア公国はスターラ・プラニナ山脈以北に縮小され,山脈以南は東ルーメリアの名でトルコの自治州にとどめられ,マケドニアは従来どおりトルコの直轄領とされた。79年憲法制定会議に次いで第1回国民会議が召集され,ドイツのバッテンベルク家のアレクサンダル(ロシア皇帝の甥。在位1879-86)が公に選ばれた。85年東ルーメリアのブルガリア人が武装蜂起し,ブルガリア公国との統一が達成されたが,この問題をめぐってアレクサンダル公とロシアの関係が悪化し,翌86年親露派の軍事クーデタによって公は退位させられた。この後ブルガリアの政治は長く親露派,独立派,反露派の対立という図式をとるようになった。87年,次の公にオーストリア出身のフェルディナント(在位1887-1928)が選ばれた。東ルーメリアの合併で国内市場が拡大し経済活動が活発になるとともに,各階層の利益を代表する政党が生まれ,19世紀末には労働者社会民主党(共産党の前身)や農民同盟も結成された。1908年オスマン帝国で〈青年トルコ〉による革命が起こったのを機に,フェルディナント公はブルガリアの完全独立を宣言した。12年ブルガリア,セルビア,ギリシアはマケドニア解放を名目にオスマン帝国に宣戦して勝利を収めたが(第1次バルカン戦争),マケドニアの領有をめぐってブルガリアは他の諸国と対立し,13年第2次バルカン戦争が始まった。四方を敵としたブルガリアは敗れ,マケドニア領有の試みは失敗に終わった。

 14年第1次世界大戦が勃発すると,国論は親独派,親露派,非戦派に分裂したが,中央同盟(ドイツ,オーストリア・ハンガリー)側からマケドニア領有の密約を得た政府は15年10月に参戦した。戦況は一時優勢だったが,18年9月ギリシア戦線が突破されて総崩れとなり,連合国側に降伏した。フェルディナントは退位し,息子のボリス3世(在位1918-43)が即位した。19年農民同盟のスタンボリスキが首相に就任し,急進的な農地改革,累進課税を実施し,一方で反労働運動的な政策をすすめたが,23年右翼,軍部,ブルジョア政党の組織したクーデタで惨殺された。このとき共産党は傍観的態度をとったためコミンテルンに批判され,ようやく武装蜂起に踏み切ったが,徹底的に弾圧された。その後世界経済大恐慌のもとでブルジョア政党間の政権交代が繰り返されたが,35年ボリス3世自らファシスト的な独裁権を握った。

 39年第2次世界大戦が起こると,初め中立を守っていたが,41年3月,日独伊三国同盟に加盟し,12月,イギリス,アメリカに宣戦した。しかし,ソ連に対しては中立を守った。42年左翼政党による〈祖国戦線〉が結成され,パルチザンの活動も活発化した。43年ボリス3世が急死し,6歳のシメオン(在位1943-46)が即位したが,この頃から東部戦線のドイツ軍が敗退し,アメリカ空軍の爆撃も始まった。44年9月5日ソ連はブルガリアに宣戦布告し,8日にはソ連軍のブルガリア領内への進撃が開始された。9日パルチザンと祖国戦線はソフィアその他の都市で権力を握り,祖国戦線による政権が成立した。新政権は〈ズベノ〉その他無所属によって構成され,10月連合国と正式に講和した。46年9月国民投票によって王制は廃止され,人民共和国が宣言された。

1947年12月4日に人民共和国憲法(通称ディミトロフ憲法)が採択され,さらに71年5月の新憲法によって,ブルガリアは〈労働者階級を先頭とする都市および農村の勤労者の社会主義国家〉と規定されている。

 国家権力の最高機関は一院制の人民議会で,定員400人,任期は5年である。人民議会は常設の国家評議会を選出し,国家評議会は少なくとも年3回人民議会を召集し,その活動について議会に報告する。国家権力の執行機関としての閣僚会議(政府)のメンバーは議会によって任免される。閣僚会議は議長(首相)1名,副議長(副首相)若干名,閣僚(大臣)二十数名から成る。地方行政は地方とコンムーナ(都市および農村)との2段階制になっていて,それぞれに人民議会が設けられている。司法・裁判制度は3段階制で,最高裁判事と検事総長は人民議会によって選ばれる(任期5年)。

 政党には共産党と農民同盟があり,共産党が指導的な位置にある。農民同盟は共産党に対立するものとしてでなく,共産党の指導方針の下に農村において社会主義建設に協力するものである。大衆的社会政治組織として1942年に設立されたブルガリア共産党を中心とする祖国戦線があり,ディミトロフ青年共産同盟,労働組合,婦人委員会などがそれに結集している。

 ブルガリア共産党は1891年に生まれた社会民主党に始まり,1919年に共産党と改称した。23年9月に反ファシスト蜂起に失敗して非合法化されたが,27年に合法活動のために労働者党と改称して復活した。42年反ナチス・レジスタンスの祖国戦線を結成,44年9月に王党・ファシスト政権を倒して政権を獲得し,48年以降再び共産党と呼ばれる。49年初代書記長ディミトロフの没後スターリン主義者のチェルベンコフが党を掌握していたが,54年の第6回党大会でジフコフTodor Zhivkov(1911- )が第一書記に選ばれ,以来ジフコフ政権が続いている。

 農民同盟は1899年に啓蒙団体として発足した。1908年に政治団体となり,党首スタンボリスキは19-23年の間首相の座に就いた。その後王政の下で左右に曲折し,42年に左派は祖国戦線に参加,右派は44年になって同盟から追放された。

 国の防衛は国民全部の義務とされ,男子は徴兵制により2年間の兵役に服する。陸海空の三軍があり,ワルシャワ条約機構に加盟している。

 外交の基本路線は対ソ友好と平和共存である。セフ(コメコン)の創立(1949)に参加し,ワルシャワ条約(1955)との二つの柱を立てた上で近隣諸国との友好を進めている。また,国の工業化推進のため先進資本主義国との貿易を伸ばし,日本との関係も深い。

王制時代のブルガリアは,ヨーロッパ大陸の南東端に位置する資本主義的に最も遅れた農業国であった。重工業はほとんどなきに等しく,繊維,タバコ,食品工業があっただけで,産業の基幹部分はドイツを中心とする外国資本に支配されていた。第2次大戦後に共和国として発足し,工業化路線をとるようになった。1950年には農林業就業人口が80%に達していたが,30年後の80年には24%となり,工業および建設業就業人口が44%で,東ドイツ,チェコスロバキアに次ぎ東ヨーロッパで第3位となっている。

 47年の共和国憲法制定とともに国民経済の基幹部門を順次国有化して計画経済の基盤をつくり,49年から第1次五ヵ年計画を実施した。以来五ヵ年計画を着々と実行し,第8次五ヵ年計画(1981-85)を実施した。計画経済の実施に当たっては,他の東欧諸国がそうであったように,ソ連型の中央集権的国民経済管理制度を採用したが,スターリン批判の後に分権化を試み,以後集権化と分権化を繰り返して試行錯誤を重ねている。56年4月に行われた党中央委員会総会で行政主義を改めて経済主義を導入し,重工業優先の原則を承認して農業政策の手直しをした。これを〈四月路線〉といい,これによってジフコフ政権が実質的に発足した。70年代になると農業部門に〈農工コンプレクス(略称APK)〉が,非農業部門に〈国家経済連合〉が,望ましい企業形態として登場した。

 工業の中では重工業の発展をまず挙げねばならない。機械製作,金属加工,化学(肥料,硫酸など)の発展がとくに顕著であるが,これらは戦前にはほとんどなかった部門である。鉱業も主要産業であり,石炭,鉄,マンガン,鉛,亜鉛などが採掘される。軽工業では,食品工業の分野で新たに製糖,缶詰,植物油,ブドウ酒醸造などが興った。綿,羊毛,絹を原料とする繊維工業も古くから根強い。タバコ産業も輸出源の一つである。第2次大戦後,抗生物質,セメント生産の新工場ができた。また各地に発電所が新設されたことも国の工業化のための原動力として大きな役割を演じている。

 農業は共和国になって以後もしばらくは国の主産業であった。作付面積の4分の3は小麦,トウモロコシなどの穀物である。野菜と果物はソ連をはじめ,広く東西のヨーロッパ諸国に輸出されている。特産物として世界一の生産高を誇るバラ油がある。畜産では古くから豚の飼養が有名であり,最近は鶏卵の生産高が急増した。

 国内各地に観光資源が豊富で,国営観光会社バルカン・ツーリストの主導する観光事業も国の大きな収入源の一つである。黒海沿岸のバルナ,ニュセーベル,ブルガスなどには西欧諸国からも多数の避暑客が滞在してバカンスを楽しんでいる。観光客は年間550万人(1980)に上る。

 対資本主義国貿易の国際収支が78年以後黒字に転じたことは,ポーランド,ルーマニア,ユーゴスラビアなど赤字に悩む東欧の近隣諸国の中でひときわ異彩を放っている。国別にみると貿易額の多いのは西ドイツ,ギリシア,スイス,イタリア,フランス,イギリス,オーストリア,イラクとなっている。重化学工業製品を中心とする日本からの輸入も最近は漸増しており,現在東欧で最大規模のホテル・ビトシャの建設をはじめ,各種のプラント輸入も次々と行われている。対社会主義国貿易では赤字が微増している。相手国はソ連,東ドイツ,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリー,ユーゴスラビア,ルーマニアである。全体として,現況ではブルガリアの貿易収支は黒字基調を示している。

〈ブルガリアは人殺しのいない国〉ということがよく言われる。この言葉は総体としてのブルガリア社会を実感的によく表現していると思われる。ブルガリアは,古代からの栄光の歴史をもちながら,東洋と西洋を分かつ重要な通路にあったため,東西南北からの吹きだまりとなり,自らの社会を独自に発展させることができなかった。幸いにもオスマン帝国はイスラムを強制することなく,トルコ風に社会制度を改変しようとはしなかった。しかし,この時代のブルガリア人は,社会の支配的地位に就くことを許されず,農業,牧畜,ごく少数の家内工業で黙々と働く納税者であった。一般に背が低く,ずんぐりした体型で,その勤勉さのゆえにかつて〈ヨーロッパの日本人〉と呼ばれたこともあるが,ブルガリア人のこうした農民的性格は長期にわたる被圧迫社会の中に生まれたものである。さらに近世のブルガリアにとっての不幸は,オスマン帝国支配の下でのギリシア人の進出であった。オスマン帝国の支配体制を利用しながらおもに商人としてバルカン各地に地歩を築いたギリシア人が,ブルガリア社会に入り込むと,支配者に迎合する上層階級と一般大衆との間に大きな断層ができていた。20世紀を迎えるまでのブルガリアには,10世紀にわたるギリシアとトルコの支配の跡が色濃く残っていて,それを払拭するのにはさらに約半世紀を必要とした。

 第2次大戦を挟んでブルガリアは,王制廃止,人民共和国誕生,資本主義体制から社会主義体制への移行と大きく三段跳びをした。それが社会構造の隅々にまで浸透し,定着するためにはあまりにも短い期間ではあった。

 社会主義への移行,遅れた農業国から工業国への転進により,雇用関係をはじめ教育,医療,社会保障などが抜本的な変化を遂げた。実質賃金が上昇し,失業問題が解消された。原則として男性60歳,女性55歳に達すると,全国民に年金が支給されるのは他の社会主義国と同様であるが,とくに工業労働者に比べて不利であった農業労働者の年金額が著しく増額されている。1951年以降全国民の医療が無料となり,その内容も充実している。教育はすべて無料であり,さらに高等教育機関の学生には,それで就学できるだけの奨学金が支給されている。文字をたいせつにする国で,日本の書道展が行われた(1979)こともある。教育文化の日(6月23日)が数少ない国民祝日の一つになっているのも特筆に値しよう。高等教育機関での就学率は世界で一,二を争うほどである。国の予算規模からすれば日本では考えられないほどの額を割いてアジア,アフリカなどから留学生を迎え入れており,ソフィアの郊外に建設中の大学地区ダルベニツァではまことに国際色豊かな光景が見られる。西欧や日本からの留学生も少なくない。託児所,幼稚園のほか,ピオネール宮殿などの少年・幼児教育の施設も行き渡っており,交通機関での座席の優先第1順位が幼児に与えられるなど,むしろ過保護ではないかと思われるほどである。こうして何世紀にもわたる圧制から解放されたブルガリア社会は,社会消費ファンドを充実させ,〈人殺し〉とはますます無縁のものに向かっているといえるかもしれない。
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ブルガリアの古い文学は,9世紀にスラブ人へキリスト教を布教するという目的のために文字を考案したキュリロスメトディオス兄弟の弟子たちが著した聖人伝や教訓書,民衆の間に広まった経外典や異端のボゴミル派による説話など,宗教的なものが多かった。14世紀末,オスマン帝国に支配されてから,文学活動は教会や修道院で細々と続けられたが,民謡など口碑文学が民衆の間では盛んであった。18世紀後半,アトス山ヒランダル修道院の修道士パイシーは《スラブ・ブルガリア史》を著して民族意識の目覚めを促し,以来啓蒙家や文学者が次々と現れた。このころから文学は民族解放運動と密接に結びつき,ロシアや西欧の進んだ文学や思想の影響を受けて発展したが,民話や民謡を素材に詩を書いたスラベイコフPetko Račev Slavejkov(1827-95),リアリズムの基礎を築いたカラベロフ,若くして解放闘争に倒れた詩人ボテフは,〈復興〉期の文学を代表する人々である。

 1878年のオスマン帝国支配からの解放は文学活動にも有利な状況をもたらした。国民文学の父バゾフは《軛(くびき)の下で》で,1876年の四月蜂起を中心とした解放闘争を生き生きと描き出したが,解放後の現実は解放運動家が夢見た理想とは大きく隔たっていた。こうした現実の否定的側面をえぐり出して見せたのは,バゾフをはじめ,風刺詩人ミハイロフスキStojan Nikolov Mihajlovski(1856-1927)やブライコフTodor Genčov Vlajkov(1865-1943)ら,リアリズムの作家たちであった。コンスタンティノフAleko Ivanicov Konstantinov(1863-97)の《バイ・ガーニュ》(1895)は,薔薇油を商う成金農民の姿を借りて現実を風刺した傑作である。19世紀末から20世紀初頭にかけて,文学にさまざまな傾向が現れてきた。個人主義を標榜しつつも《血まみれの歌》(1911-13)を書いたスラベイコフPenčo Petkov Slavejkov(1866-1912),フランス近代詩の影響を受けた象徴派詩人ヤボロフやデベリャノフDimčo Velev Debeljanov(1887-1916)らに対し,ブラゴエフを理論的指導者とするプロレタリア文学も興ってきた。しかし,カラベロフやバゾフらのリアリズムの伝統は《小さなソドム》(1920)のスタマトフGeorgi Porfiriev Stamatov(1869-1942),ストラシミロフAnton Todorov Strašimirov(1872-1937),とくに農村を描いた短編で有名なエリン・ペリンヨフコフらによって受け継がれた。

 両大戦戦間期はファシズムの嵐が吹き荒れ,それに対する抵抗運動が強まり,文学にも反映した。詩では《九月》のミレフ,《昼来たれ》(1922)のスミルネンスキHristo Smirnenski(1898-1923),《モーターの歌》(1940)のバプツァロフNikola Jonkov Vapcarov(1909-42)の〈プロレタリア三人組〉や,自由を希求する女性を歌ったバグリャナElisaveta Bagrjana(1893-1991)らが有名である。小説では,ファシストの暴虐を描いたストラシミロフの《連舞(ホロ)》(1926),ストヤノフの反戦小説《コレラ》,農村における葛藤を描いたカラスラボフGeorgi Slavov Karaslavov(1904-80)の《嫁》(1942),カラリーチェフAngel Ivanov Karalijčev(1902-72)の短編小説,風刺作家ミンコフの作品などが異彩を放っている。

 1944年の社会主義政権成立後は〈社会主義リアリズム〉が金科玉条とされ,画一的,図式的な作品が多く書かれたが,それにもかかわらずスタネフEmilujan Stanev(1907-79)の《桃泥棒》(1948),ディモフの大河小説《タバコ》(1951),タレフDimitǎr Talev(1898-1966)の歴史小説《鉄の灯台》(1952)などの傑作も生まれた。1956年のソビエトにおけるスターリン批判以後,ブルガリアでもそれまでの偏狭な社会主義リアリズムのとらえ方が反省されて,SFや推理小説など新しいジャンルが開拓され,表現形式も多様化した。最年長のカルチェフ(1914- ),ベジノフ(1914- ),グリャシキ(1914- )らの小説家,ラデフスキ(1903- )やイサエフ(1907- )らの詩人,バシレフ(1904-79)やジダロフ(1902- )らの劇作家の活躍はもちろん,それに続く世代のハイトフ(1919- ),ライノフ(1919- ),イバイロ・ペトロフ(1923- ),ラディチコフ(1929- )らの小説家,ハンチェフ(1919-66),バレリ・ペトロフ(1920- ),ディミトロバ(1922- ),ボジロフ(1923- ),マテフ(1924- ),ジャガロフ(1925- )らの詩人,さらにドンチェフ(1930- ),スラフ・カラスラボフ(1932- ),レフチェフ(1935- )ら,より若い世代の作家たちの活躍が目ざましい。
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1972年バルナにおいて,シュメール文明に先行すると考えられる銅器時代の遺品が発見され,前4千年紀のブルガリアの先進性が注目された。その後この地に住んだトラキア人によって,黒海沿岸にオデッソス(現バルナ)やメセンブリア(現ネセバル)ほかのギリシア植民都市が建設され,現在失われてしまった古代ギリシアの壁画を彷彿とさせるカザンラクKazanlâkの墳墓の天井画(前300ころ)や,パナギュリシテPanagjurište出土の金工品(前3世紀)など,当時の一級品が見られる。46年以降,トラキアとモエシアとしてローマ帝国の属州となり,セルディカ(現ソフィア)など新たにローマ都市が建設されたが,ローマ時代末期のポモリエPomorieの墳墓などは,ローマの建築技術によりつつもトラキア人の伝統に従っている。ビザンティン時代は首都コンスタンティノープルの後背地として,とくにユスティニアヌス帝によって各地に数多くの軍事施設が建設された。教会堂はおもにバシリカ式で,6世紀のソフィアの聖ソフィア教会がその例である。スラブ人に続いて侵入したブルガール人によって8世紀にマダラMadaraの岩壁に彫られた騎馬像は,故地におけるササン朝ペルシアとの接触を推測させ,またプリスカPliskaの宮殿跡などの整えられた切石によるみごとな建築技術は,ササン朝の影響を受けたアルメニアの建築に見られるものである。864年の東方正教改宗後,当時すでに一般的ではなくなっていたバシリカ式の教会堂が多く建てられたが,前記の石工技術は急速に失われ,シメオン1世の宮廷礼拝堂と考えられるプレスラフPreslavの集中式教会堂(10世紀)以降,しだいにビザンティン建築との同時代性を示しはじめた。そのなかで特徴的なのは,1185年建造のベリコ・タルノボVeliko Tǎrnovoの聖ディミタル・ソルンスキ教会にすでに見られる,煉瓦と切石による幾何学的文様に彩色陶片の装飾を加えて教会堂外壁を色彩豊かに飾る傾向で,12~14世紀に栄えたネッセバルに残る多くの教会堂にその例が見られる。絵画では,プレスラフ近郊出土のテオドロスを描いた900年ころの陶板のイコンは特異なものであるが,その後,12世紀,コムネノス朝期のバチコボBačkovo修道院のフレスコ以下,洗練された肖像表現を見せるボイヤナBojana教会のフレスコ(1259)や,勢いある自由な筆づかいを見せるイバノボIvanovoの岩窟教会のフレスコ(14世紀)など,ビザンティン絵画の優品が生まれた。

 15世紀末から約500年にわたるオスマン帝国の支配下で,ビザンティン時代の美術の多くが破壊され,伝統はわずかにリラ修道院など西部の修道院で守られたが,フレスコは1500年ころのクレミコフツィKremikovci修道院のものを例外として,様式の力が失われ,素朴な装飾性が加わり,イコンも工芸的になっていった。18世紀末より,トリヤブナTrjavnaやサモコフSamokovを中心として多く制作された,アトス山に起源をもつ細かな木彫で飾られたイコノスタシスは,その傾向の到達点を示すものである。

 18世紀後半から1878年まではブルガリア・ルネサンスと呼ばれる民族主義覚醒の時代で,教会・世俗にかかわらず,建築・芸術活動が盛んとなった。張り出した2階に広間をもつ木造住宅建築が,プロブディフPlovdivやコプリフシティツァKoprivšticaなどの各地に残っている。
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民俗音楽の伝統は豊かで変化に富む。本質的にスラブ民族の特徴をもつが,11世紀から170年間のビザンティン帝国や14世紀から500年近いオスマン帝国の支配など,この地の歴史的・文化的背景と深く関連している。伝統的なブルガリア民謡は一般に2人かそれ以上の集団で斉唱したり,2グループに分かれ応答の形式で歌われる。また,第1声部が旋律,第2声部がドローン(持続音)を歌う2声の歌もある。とくに西部中央地方や南西部ピリン地方など2声による不協和音が頻繁に出てくる歌い方が特徴的である。民謡の最も活気にあふれた歌い手は女性たちで,力強く張りのあるよく響く声で歌う。旋律の音域は一般に狭く,4度,5度,6度,まれには2度か3度で,概して下行的な性格をもつ。五音音階はおもに南西部や南東,北西地方にもあるがわずかで,おもに七音音階のフリュギア旋法やエオリア,ドリア旋法(教会旋法)など短調系のものである。また増2度を含んだり,半音より狭い微少音程を含むもの(とくに古い儀礼の歌)もある。旋律はふつう順次進行で動くが,4度下行や5度上行する跳躍が多い。また収穫や草刈りの歌には,フレーズの終わりに短7度もの広い音程で跳躍する,いわゆる〈さけび声〉が付く。民俗音楽のもう一つの特徴は,そのリズムや拍子が非常に多彩な点である。2/4,3/4,4/4拍子に加えて5/8,7/8,9/8,11/8,13/8拍子などの付加的拍子がよく使われるが,それらは,たとえば7拍子は(2+2+3)か,(3+2+2)といったように,2と3の単位の組み合わせから構成されている。一方,拍子にとらわれない自由なリズムで装飾音がたくさん付いた歌も歌われている。

 おもな民俗楽器には,管楽器として,斜めに吹く木製の笛カバルkaval,リコーダー式のデュデュックdjudjuk,バッグパイプのガイダgajda,双管のドボヤンカdvojanka,オーボエ属のズルナ(スルナイ)などがある。弦楽器では弓奏のガドゥルカgǎdulka,長棹の撥弦リュートのタンブーラtambura(タンブール),太鼓では大型の両面太鼓タパンtǎpanが最もよく使われ,ほかに素焼きで花杯形の片面太鼓タラブッカtarabuka(ダルブッカ)なども用いられる。こうした楽器にはトルコの影響がうかがわれ,婚礼時や祭りの舞踊(手をつなぎ円になるホロhoro(コロ)など)の伴奏に際して,とくに笛は羊飼いが羊の番をするときに奏される。

 伝統的民謡や民俗音楽は作曲家クーテフFilip Kutev(1903-82)によって舞台化され,こうした動きが引き金となって各地にプロやアマチュアの民俗楽団ができている。地声を中心とした合唱団による力強い歌声は人々の関心をよび,日本でも来日公演などでよく知られている。また19世紀以降,都会の流行歌が革命歌やパルチザンの歌,軍歌や労働者の歌を生んだ。

 宗教音楽としては,864年に東方正教が国教とされ,ビザンティン聖歌に影響を受けた古いブルガリア聖歌が歴史的に重要である。

 近代的芸術音楽は長いトルコ支配からの解放(1878)後に開花した。マノロフEmanuil Manolov(1860-1902),ピプコフPanajot Pipkov(1871-1942),アタナソフGeorgi Atanasov(1882-1931),フリストフDobri Hristov(1875-1941)らが民俗的主題によるオペラや合唱曲などを作曲した。20世紀初頭には,音楽院やオペラ協会が設立され,その後そこで学んだ多くの音楽家が第1次,第2次大戦をはさんで活躍している。
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百科事典マイペディア 「ブルガリア」の意味・わかりやすい解説

ブルガリア

◎正式名称−ブルガリア共和国Republic of Bulgaria。◎面積−11万1002km2。◎人口−725万人(2013)。◎首都−ソフィアSofija(120万人,2011)。◎住民−ブルガリア人86%,トルコ人9%,ロマ(ジプシー)4%,アルメニア人など。◎宗教−ブルガリア正教85%,イスラム13%,カトリック,プロテスタント。◎言語−ブルガリア語(公用語)が大部分,ほかにトルコ語など。◎通貨−レフLev。◎元首−大統領,プレブネリエフRosen Plevneliev(1964年生れ,2012年1月就任,任期5年)。◎首相−ボリソフBoyko Borisov(2014年11月就任)。◎憲法−1991年7月発効。◎国会−一院制(定員240,任期4年)(2014)。◎GDP−499億ドル(2008)。◎1人当りGDP−3990ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−5.8%(2003)。◎平均寿命−男69.6歳,女76.7歳(2007)。◎乳児死亡率−11‰(2010)。◎識字率−98.4%(2011)。    *    *ヨーロッパ南東部,バルカン半島東部にある共和国。東部は黒海に臨み,北部はドナウ川流域平野。中央部を東西にバルカン山脈が走り,南西部にロドピ山脈がある。両山脈の間はマリツァ川流域の平野。全般に山地・丘陵が多く,最高点はムサラ山(2925m)。気候は大陸性。住民の大部分はブルガリア人で,他に総人口の1割前後のトルコ人が住む(南部の山間地域と北東部のドブロジャに集住)。第2次大戦前は農業国であったが,戦後の数次にわたる5ヵ年計画で工業化が促進された。農業の集団化も1960年にほぼ完了したものの,1989年の体制転換後は解体の方向に向かっている。農産物は小麦,トウモロコシ,綿花,テンサイ,タバコ,バラ油,ブドウなどで,うちタバコ,バラ油,ブドウは重要な輸出品である。林産も重要。工業は食品加工,繊維のほか機械工業の発展が著しく,特に運輸機械,電気機械が多い。鉱産としては銅,鉛,亜鉛,石炭,石油などがある。〔歴史〕 6世紀からスラブ人がバルカンへの南下を始め,ついで移動してきたトルコ系のブルガール人は,スラブを服従させて共同でビザンティン帝国を破り,7−11世紀に東欧随一の強国〈ブルガリア帝国〉を形成した。一時ビザンティン帝国に併合され,12世紀後半に再建したが,14世紀後半からオスマン帝国(トルコ)の支配下におかれた。露土戦争の結果,1878年オスマン帝国に貢納する自治公国としてブルガリア公国が創設され,1908年ブルガリア王国として完全独立した。バルカン戦争,第1次大戦に敗れ,第2次大戦では1941年に日独伊三国同盟に加わって英,米に宣戦した。1944年9月8日ソ連軍のブルガリア領内への進撃が開始されると,翌日にはパルチザン,祖国戦線が首都その他で権力を掌握,9月4日人民民主政権が誕生した。1946年9月人民共和国となり,ソ連との協調関係を柱に社会主義への道を歩んだ。1954年から共産党を率いてきたジフコフが,1989年11月突然辞任し,1990年1月共産党と野党勢力との円卓会議で自由選挙などの民主化が合意された。1994年の総選挙で社会党(旧,共産党)が過半数を獲得して政権に復帰したが,1997年の総選挙では大敗し,再び野に下った。1992年,1996年の大統領選挙では反社会党候補が当選している。なお,この改革の過程で,人口の1割にあたるブルガリア・トルコ人の問題が改めて浮上し,従来の同化政策が批判され,トルコ系住民を中心に1990年に政党〈権利と自由のための運動〉が結成された。〔2000年以降〕 2001年の総選挙では,亡命先のスペインから帰国した元国王シメオン2世(サクスコブルグ)の率いる新党〈シメオン2世国民運動〉が半数の議席を確保し,〈権利と自由のための運動〉との連立内閣が発足,サクスコブルグ政権は,2004年3月他の中東欧6ヵ国とともにNATO(北大西洋条約機構)に加盟を果たすなど外交面では成果をあげたが,国民生活の向上を果たせず,汚職・組織犯罪の撲滅にも成果をあげることができなかった。2005年の国民議会選挙では,社会党党首スタニシェフが率いる〈ブルガリアのための連合〉が勝利し,〈シメオン2世国民運動〉〈権利と自由のための運動〉の3派による大連立政権が発足,スタニシェフが首相に就任した。スタニシェフ政権は,2007年1月ヨーロッパ連合(EU)加盟を果たし,高い経済成長,雇用増大など国民生活の向上を一定程度果たしたが,汚職・組織犯罪対策・司法改革などでは成果をあげることが出来ず,さらにEU資金の運用に関して,欧州委員会から不適切を指摘されEU資金を凍結された。2009年7月5日の任期満了に伴う総選挙では,ボリソフを首班とする新興右派野党〈ブルガリアの欧州における発展のための市民(GERB)〉が第1党となり,単独少数与党内閣を発足させた。汚職・組織犯罪対策等において一定の評価を得て,インフラ整備の推進,EU資金の活用等の景気浮揚策に取り組んだが,電気料金高騰を機に大規模な市民デモが発生,2013年2月に総辞職した。同年5月の総選挙で,第1党とはなったものの過半数を獲得できなかったGERBは大統領に組閣委任権限を返上し,第2党となった社会党(BSP)が他党の協力を得て組閣を行った。しかし,2014年5月の欧州議会選挙での与党社会党は大敗,8月に社会党連立内閣は総辞職した。2014年10月の総選挙でも,過半数を制する政党がなく8党乱立という状況の中で,紆余曲折を経て,第1党GERBと改革派ブロック(RB)の2党による連立内閣を愛国戦線(PB)と〈ブルガリアの復興のためのオルターナティブ〉(ABR)の2党が支持する〈2+2〉で第二次ボリソフ政権が発足した。
→関連項目ジフコフブルガリア共産党

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブルガリア」の意味・わかりやすい解説

ブルガリア
Bulgaria

正式名称 ブルガリア共和国 Republika Bǔlgariya。
面積 11万1036km2
人口 689万6000(2021推計)。
首都 ソフィア

ヨーロッパ南東部,バルカン半島の東部に位置する国。北はドナウ川を隔ててルーマニアと,西はセルビア北マケドニアと,南はギリシアトルコと国境を接し,東は黒海に臨む。1990年11月ブルガリア人民共和国から現国名に変更。国土はバルカン山脈によって南北に二分される。北は黄土に覆われたドナウ台地,南はおもにマリツァ川流域の盆地および河谷地域で,その南部にはロドピ山脈が,その西部にはリラ山系およびピリン山系が連なる。最高峰はリラ山系のムサラ山(2925m)。ドナウ台地は大陸性気候,バルカン山脈は温帯冬雨気候(地中海式気候)の影響が及ぶ北限で,中部ブルガリアのトラキア平野は温帯冬雨気候-大陸性気候の漸移地帯。黒海沿岸は内陸部に比べて冬は温暖,夏は冷涼であるが,強風地域として知られる。住民はブルガリア人が約 85%を占め,ほかにはトルコ人,ロマ(ジプシー。→ロム)が多い。公用語はスラブ語派に属するブルガリア語で,キリル文字を用いる。第2次世界大戦前は農業国であったが,戦後は一連の 5ヵ年計画によって工業化が進み,機械,金属,化学,繊維など各種の工業が発展した。農業も集団化,機械化のもとで,コムギを中心とした穀物,タバコ,ヒマワリなどの工芸作物,ブドウなどの果物の栽培,牧畜が行なわれる。1990年以降,国営企業の民営化,集団農場の私有化が進められている。輸出は機械や金属加工品,石油精製品などの工業製品が高い割合を占める。ヨーロッパ連合 EU,北大西洋条約機構 NATO加盟国。(→ブルガリア史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ブルガリア」の解説

ブルガリア
Bâlgarija

バルカン半島東部の共和国。首都はソフィア。現在ブルガリア人が住民の多数を占め,トルコ人,ロマなどの少数民族がいる。681年ブルガール人はスラヴ人とともにブルガリア国家(第1次ブルガリア帝国)を形成。864年にはキリスト教を受容。シメオン1世の時代に最盛期を迎えたが,1018年ビザンツ帝国に滅ぼされた。1185年タルノヴォ地方の領主が蜂起し,87年第2次ブルガリア帝国が成立。イヴァン・アセン2世(在位1218~41)統治期に最大版図を得たが,14世紀末までにオスマン帝国支配下に入った。19世紀教会独立運動や武装蜂起が起こり,ロシア‐トルコ戦争後1878年自治公国成立。85年東ルメリアを併合し,1908年独立して王国となった。サン・ステファノ条約が規定したマケドニア地域領有をめざすが,バルカン戦争,第一次世界大戦で敗戦。第二次世界大戦では枢軸国側に加盟。46年人民共和国となり,48年以降共産党支配下に社会主義体制が続き,89年の東欧革命後,90年国名をブルガリア共和国と改称。現在EUNATO(ナトー)への加盟をめざしている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ブルガリア」の解説

ブルガリア
Bulgaria

東ヨーロッパ南部,ドナウ川に沿い,黒海に臨む共和国。首都ソフィア
民族大移動期に北方から移住したスラヴ民族を,トルコ系のブルガール族が征服して681年に建国(第1次ブルガリア王国)。のち圧倒的な人口差から文化的にはスラヴ化され,9世紀にはバルカン半島の大半を領有する王国となり,ボリス1世は864年にギリシア正教を国教とし,シメオン1世は皇帝を称して最盛期を迎えた。その後1018年ビザンツ帝国に併合された。1187年再び独立したが,14世紀末からはオスマン帝国に支配された。19世紀末オスマン帝国の衰退に乗じて独立運動を起こし,露土(ロシア−トルコ)戦争の結果,1878年ベルリン会議でオスマン帝国主権下の自治国となった。1908年青年トルコ革命を機に完全独立を宣言。第1次バルカン戦争でオスマン帝国に勝ち領土を拡大したが,第2次バルカン戦争で敗れると,ドイツ・オーストリア側に接近し,第一次世界大戦では同盟側についた。第二次世界大戦にも枢軸側に参加し,1944年ソ連軍の侵入と同時に労働者党による政府が成立し,46年人民共和国となった。以後ソ連と密接な関係を保ち,1950年代からはジフコフが政権を握っていたが,89年の東欧革命で退陣。1990年に国名をブルガリア共和国と改めた。

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