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オーストリア オーストリア Austria

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

オーストリア
オーストリア
Austria

正式名称 オーストリア共和国 Republik Österreich。面積 8万3879km2。人口 841万9000(2011推計)。首都 ウィーンヨーロッパ中部にある連邦制の共和国。

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百科事典マイペディアの解説

オーストリア

◎正式名称−オーストリア共和国Republic of Austria。◎面積−8万3879km2。◎人口−845万人(2013)。◎首都−ウィーンWien(171万人,2011)。
→関連項目インスブルックオリンピック(1964年)インスブルックオリンピック(1976年)ゼメリング鉄道ワルトハイム

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世界大百科事典 第2版の解説

オーストリア【Austria】

正式名称=オーストリア共和国Republik Österreich面積=8万3858km2人口(1996)=810万人首都=ウィーンWien(日本との時差=-8時間)主要言語=ドイツ語通貨=オーストリア・シリングAustrian Schillingオーストリアという呼称は英語名で,ドイツ語では,エスターライヒÖsterreich。〈東の国〉を意味するが,国土は,ヨーロッパの中央部を占め,ドイツはもとより,フランスイタリアとも深くかかわりあい,ヨーロッパ史上,重要な位置を占めてきた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

オーストリア
おーすとりあ
Austria

中央ヨーロッパの南東部にある共和国。「オーストリア」は英語による名称で、オーストリアではエスターライヒsterreichという。北をドイツ、チェコ、東をスロバキア、ハンガリー、南をイタリア、スロベニア、西をスイス、リヒテンシュタインと接する内陸国。面積8万3871平方キロメートル、人口803万2926(2001センサス)、人口密度は1平方キロメートル当り96人。首都はウィーン。国内は九つの州からなる。
 アルプス山脈が国土のおよそ3分の2を占める山国で、氷河や美しい湖が多く、またウィンタースポーツの条件も整っていて、スイスと同様に観光地、保養地が至る所にある。さらにウィーン、ザルツブルク、ブレゲンツはオペラや音楽祭でも知られている。15世紀から第一次世界大戦まではハプスブルグ家の公領、のちにオーストリア帝国となり、フランスに対峙(たいじ)してヨーロッパにおける覇権を唱え、1867年から1918年までオーストリア・ハンガリー帝国を形成した。第二次世界大戦後は、経済復興とともに工業国として発展し、民主的な内政と永世中立を背景とした外交によって、とくに東西冷戦時代の東西ヨーロッパの仲介役を果たしてきた。ウィーンは世界の政治、経済の中心の一つであり、国際原子力機関やヨーロッパ安全保障協力機構の事務局が置かれるなど、ジュネーブ、パリ、ニューヨークとともに国際都市として重要である。[木内信藏・平川一臣]

自然

アルプスの山地が広範囲を占めるオーストリアのなかでも、チロール州、ザルツブルク州、ケルンテン州北西部はとくに山がちである。ここのアルプスの標高は高く、氷河を伴ったホーエ・タウエルン山群(東アルプスの最高峰のグロースグロックナー山、3797メートルがある)、エッツタール・アルプス、チラータール・アルプス、シュトゥバイ・アルプスなどの山群が連なり、オーストリアの屋根とよばれる。これらの山群は結晶片岩、花崗(かこう)岩などでできており、地質や地形の観点から中部アルプスとよばれる。この中部アルプスの北側にはドナウ川の支流であるイン川、ザルツァハ川、エンス川などの上流部が地質構造の影響を反映して直線的に東西方向に流れ、大きな谷が広がっている。これらの谷の北側に連なるのが石灰岩質の北アルプスで、荒々しい山稜が目だつ。石灰岩質の北アルプスは北へ向かってしだいに低くなり、アルプス前地とよばれる平野への境界近くには、ウォルフガング湖、アッター(カンマー)湖、モンド湖、トラウン湖などの美しい湖が連続する。これらの湖は、氷河時代に氷河が削り込んだ深い谷底に水をたたえているもので、切り立った氷河のU字谷とあわせて典型的なアルプスの自然景観を生み出している。アルプスの地形景観は、中部アルプスの南側でも地質構造の影響を強く受け、ドラウ川(ドラバ川)の広い谷が東西方向に延び、さらにその南側には石灰岩質の南アルプスが連なっている。アルプス北麓よりさらに北側のチェコ国境付近では、標高500~900メートルほどの丘陵性の山地が波打つようにゆったりと広がる。このような景観は場所によってはドナウ川より南まで達している。ここは、ボヘミア山地の南縁にあたり、アルプスよりも古い時代(古生代)の造山運動によって生じた。首都ウィーンの位置する北東部はオーストリアでもっとも標高が低く、ノイジードラー湖周辺はプスタとよばれる温帯性の長茎草原で、ハンガリー平原の自然環境に含まれる。また、ドナウ川より北側の丘陵地帯はブドウ栽培地域でワインフィアテル(地域)として知られる独特の自然・土地利用景観をみせる。
 オーストリアは気候的には、西ヨーロッパの海洋性から東ヨーロッパの内陸性への漸移帯にあたる。北西部のとくにアルプス北側では、大西洋の影響を受けて冬も比較的温和で、年間を通して降水がある。東ほど降水量は減少し、たとえば、ザルツブルク付近までは年間1300ミリメートル以上、場所によっては2000ミリメートルに達するが、ウィーンでは600~700ミリメートルになる。さらに南東部ではいっそう乾燥化し、夏は非常に暑く、冬は寒冷である。オーストリアの気候はアルプスによって大きな影響を受ける。たとえば、イン川上流部の谷は雨陰(レイン・シャドー。湿った風が山にぶつかって雨を降らせ、山を越えるときは乾いた風となる現象)となるため、周辺の山地では2000ミリメートル以上に達するにもかかわらず、年間降水量は600ミリメートル程度にすぎない。アルプスの気候で特徴的なのは、気温の逆転現象である。とくに冬には冷気が流入する谷底や盆地では著しく低温になり、山地のほうが高い。また、春と秋にとくに顕著な、急激な気温上昇で知られるフェーンもアルプスの気候の特色である。フェーンは、アルプスの北方を低気圧が通過し、暖かい気流が南からアルプスを越えるときに生じ、融雪洪水や雪崩(なだれ)を引き起こす。イン谷はフェーンが頻発することで有名であり、インスブルックでは、フェーンの発生が年間104日に達したこともある。アルプス山脈が西から東へ低下するにつれて、植生も土地利用も居住高度限界も低下する。森林限界は西部では2200メートル、東部では1700~1800メートルである。南北方向でも、降水の多いアルプス北縁ではブナとその混合林(標高1000メートル以下)およびトウヒを主とする針葉樹林(1000メートル以高)が広がるのに対し、南部は地中海性気候の影響を受けて赤ブナが森林限界まで分布するところもある。東部の低地では、アルプスの植生とはまったく違うステップ(温帯草原)植生が現れる。[木内信藏・平川一臣]

地誌

オーストリアの西部を占めるザルツブルク、チロール、フォアアールベルクの3州は、スイスから延びるアルプス山脈のなかにある。ザルツブルク州は、岩塩とグロックナー・カブルン水力発電所で知られ、温泉に富む保養地でもある。州都のザルツブルク市(人口約14万)は、ホーエンザルツブルク城と音楽祭とモーツァルトの生誕地で有名である。チロール州はウィンタースポーツのメッカであり、民家や自然の美しい観光地が多い。州都インスブルック(人口約11万)は、ウィーンとスイスを結ぶ東西交通路と、ブレンナー峠を越えてドイツとイタリアを結ぶ十字路にあたり、歴史的記念物に富む。オーストリアの最西部を占めるフォアアールベルク州は、観光で栄えるとともに水源地帯をなしており、繊維工業が盛んである。ボーデン湖に臨む州都ブレゲンツ(人口約3万)も音楽祭で知られる。
 オーバーエスターライヒ州の南部は、アルプス山脈にかかり、美しい湖沼が点在する景勝の地である。ドナウ川を挟んだ北部は、ボヘミアの森の南端がチェコとの国境をなしている。州都リンツ(人口約18万)はドナウ河畔の河港都市で、鉄鋼業、化学工業が発達している。
 ブルゲンラント、シュタイアーマルク、ケルンテン、ニーダーエスターライヒの4州はともに同国の農林業地域をなしている。ハンガリーとの国境に沿って南北に長いブルゲンラント州は、小麦、トウモロコシ、野菜、果実を豊富に産する。作曲家ヨーゼフ・ハイドンの活躍した州都アイゼンシュタットには彼の墓地がある。シュタイアーマルク州は林業が盛んである一方、エルツベルクの鉄鉱石やマグネサイトを原料とする製鉄業、機械工業、紙およびセルロースなどの工業が立地する。州都グラーツは人口約23万の同国第二の都市で、商工業の中心地である。ケルンテン州の西部はアルプス地域に含まれ、山地と湖水に富み、州都クラーゲンフルト(人口約9万)では国際材木見本市が開かれる林業州である。鉛、亜鉛、マグネサイトも産出する。首都ウィーン(人口約156万)には全国人口の19%が集中しており、ニーダーエスターライヒ州とともに工業が盛んである。ウィーン盆地北部には、天然ガスおよび石油資源があり、ドナウ川とその支流からの電力の供給も多い。[木内信藏・平川一臣]

歴史


オーストリアの古代
ここは先史時代を通して交通の要地であり、諸民族の動きも激しかった。初期鉄器時代、紀元前8世紀ごろからハルシュタット文化の中心となり、定着したケルト人のなかから前2世紀にはノリクム王国も生まれた。紀元前後にはローマ人もドナウ南岸に達し、ノリクムを属州に加え、遅れてウィンドボナを建設する。南下していたゲルマン人も1世紀にはこの地方に進出し、ローマ帝国はその応対に苦慮しながら4世紀にはキリスト教を広げる。フン人の西進により5世紀にはアッティラの支配(435~453)を受けたが、その死後は、ゲルマン諸部族の再編と自立化が進む。しかし東方からスラブ人を伴ってアバール人が進出してきた5世紀末には、ローマ人もここから引き揚げる。[進藤牧郎]
オストマルクの成立
西方にあって5世紀後半以来王国を形成したフランク人は、6世紀にはローマ教会と結び、しだいに南東方へも進出し、カロリング朝カール大帝(在位768~814)のもとで8世紀末バイエルンを服属させ、さらに東進して791~796年アバール人を壊滅させ、ここに初めてオストマルクを設置する。9世紀末以来西進を始めたマジャール人は10世紀に入ってここにも進出し、カロリング朝断絶後の東フランク王国を引き継いだザクセン朝オットー1世(在位936~973)は、955年マジャール人を撃破し、ようやくオストマルクを再建し、962年神聖ローマ帝国が生まれたのである。[進藤牧郎]
バーベンベルク家の支配
従弟(いとこ)のバイエルン公と争って皇帝となったオットー2世(在位961~983)は、976年バイエルンからオストマルクを切り離して辺境伯領としバーベンベルク家に授封する。歴代の君主たちは、東方植民を進めて経済の発展を図り、叙任権をめぐる皇帝と教皇の争いを利用して世襲を慣行化し、シュタウフェン家とウェルフ家の争いに際しても、皇帝フリードリヒ1世(在位1152~1190)から1156年世襲の公領への昇格を獲得し、領域内の裁判権を認められる。1192年にはシュタイアーマルク公領をもあわせ、さらに南東方に家領を拡大したが、1246年ハンガリーとの戦いに、最後の君主フリードリヒ2世(在位1230~1246)は戦死し、オーストリアは空位時代(1246~1273)を迎えることになった。[進藤牧郎]
ハプスブルク家支配の成立
ねらわれたオーストリアは隣接諸侯の武力介入を招いたが、オーストリア貴族に招かれたボヘミア(ベーメン)王オトカル2世Pemysl Ottokar は、1251年ウィーンを占領し、アドリア海にまで進出して東欧に強大な勢力を築き、1256年に始まるドイツの大空位時代(1256~1273)もあって皇帝位を求めるに至った。これに反対してドイツ諸侯は1273年、エルザスとスイスに基盤をもつハプスブルク伯ルドルフを皇帝に選ぶ。皇帝ルドルフ1世(在位1273~1291)は帝国領の返還を求め、拒否したオトカルを1278年敗死させ、オーストリアを家領として確保したのである。しかし諸侯は、強大になったハプスブルク家に継続的に皇帝位を与えなかった。1291年以来、とくに14世紀には長い間のスイス独立戦争に苦しむとともに、カール4世(在位1347~1378)のもとで繁栄したルクセンブルク家とも対立し、1356年の金印勅書でも七選帝侯から排除され、この王朝がフス戦争(1419~1436)によって断絶してのち、ようやく1438年アルプレヒト2世(在位1438~1439)以後、ハプスブルク家は皇帝位を独占することになり、オーストリアは1453年、大公領に昇格する。[進藤牧郎]
結婚政策と世界帝国の成立
ハプスブルク家にとって諸子分割相続の伝統は、一方に結婚政策による家領の拡大を可能にしたが、他方では家領の分割と継承争いを生み、統一的国家への道を妨げる。1477年ブルグント公女と結婚した皇帝マクシミリアン1世(在位1493~1519)は、1495年ドイツ帝国の改革を図るが挫折(ざせつ)する。1496年にはその子フィリップがスペイン王女と結び、1515年にはその孫フェルディナントがボヘミア・ハンガリー王女と結ぶ。この結婚政策はフランスとの対立を恒常化し、これと結んだトルコの進出を導き、ハプスブルク家は東西からの圧迫に苦しむことになる。しかしフィリップの長子カール5世(在位1519~1556)が、フランス王との争いに勝って、1519年皇帝に選ばれると、ハプスブルク世界帝国が出現する。[進藤牧郎]
宗教改革とオーストリア
1517年を画期に激化した宗教改革の嵐(あらし)のなかで、1519年実現された世界帝国も、1521年スペイン系とオーストリア系に分割され、オーストリアのフェルディナント1世(在位1556~1564)は農民戦争にも直面する。トルコの北上にハンガリー王ラヨシュ2世(在位1516~1526)が、1526年モハーチに敗死すると、ボヘミア・ハンガリー王を相続する。しかし1529年にはウィーンを包囲されてかろうじて撃退し、1531年ドイツ王になるが、ハンガリーではわずかに北西部を支配したにすぎない。1555年のアウクスブルクの和議ののち、1556年カール5世から皇帝位を受け継ぐが、宗教争乱にはあまり干渉できなかった。ハプスブルク家の内紛ののち、フェルディナント2世(神聖ローマ皇帝、在位1619~1637)が1617年ボヘミア王となり、反宗教改革を強行すると、1618年、三十年戦争(1618~1648)が勃発(ぼっぱつ)する。[進藤牧郎]
封建反動と啓蒙専制主義
三十年戦争は単なる宗教戦争ではなく、資本主義誕生の胎動でもあり、チェコ民族主義の動きでもあった。列国の干渉のなかでオーストリアの君主たちは、反宗教改革を通して再版農奴制を確立し、西方ではイギリスと結んでルイ14世の侵略を防ぎ、東方では1683年トルコによるウィーン包囲から反撃に転じてハンガリー全土を確保する。権力の集中を図り、家領の統合を試み、産業育成、農民保護に努めるが、スペイン継承戦争では海外への進出をあきらめ、スペイン王位を放棄してネーデルラントとイタリアに領土を得る。オーストリア継承戦争(1740~1748)ではプロイセンにシュレージエン(シレジア)を奪われたが、ようやく家領不分割のためのプラグマティッシェ・ザンクツィオンを認められ、マリア・テレジア(在位1740~1780)への相続を確保する。1756年フランスとの同盟に成功したが、七年戦争(1756~1763)でもシュレージエンを回復できず、かえってハンガリー貴族と妥協し、東方においてロシアの進出とドイツにおけるプロイセンの勃興(ぼっこう)を許すことになった。戦中戦後の復興のために行財政を中心に改革を進め、ヨーゼフ2世(在位1765~1790)のもとで1781年農奴解放令と寛容令となる。しかし1789年フランス革命の勃発、1790年ヨーゼフの死によって、この啓蒙(けいもう)的な改革政策も急激であっただけに、反動化のなかに挫折(ざせつ)する。[進藤牧郎]
ナポレオン戦争とメッテルニヒ体制
ナポレオンの登場に直面したハプスブルク家は、家領維持のために、ナポレオンの戴冠(たいかん)に先だって1804年オーストリア皇帝を称し、アウステルリッツに惨敗した翌1805年、中世以来の神聖ローマ帝国を解体し、その皇帝を辞した。メッテルニヒは、1810年皇女マリ・ルイーズとナポレオンの結婚による宥和(ゆうわ)政策をとるが、その没落に際しては巧みに解放戦争の主導権を握り、ウィーン会議(1814~1815)を主催し、復古、正統、連帯を基調に反動体制を国内的にも国際的にも確立し、自由の動きを弾圧する。[進藤牧郎]
三月革命と反革命の勝利
この反動体制のもとでも産業の発展につれて市民層の力も強まる。1848年フランスの二月革命からウィーンなど各地に三月革命が起こり、メッテルニヒは亡命する。革命の表面に下層市民が現れるにつれ、産業市民層は後退し、10月末には反革命の勝利に終わり、1851年以降新絶対主義バッハ体制となった。革命後は農民解放を定着させつつ、産業の近代化を進めたので産業革命も展開し、資本主義の発展もみられた。家領の基盤を東中欧に置いたためオーストリアは典型的な多民族国家となり、革命は諸民族自立の運動を顕在化させた。ハンガリー土地貴族による独立運動はロシアの軍隊の援助により1849年鎮圧されたが、チェコのオーストリア・スラブ主義はスラブ諸民族に影響を与え、クリミア戦争における外交的失敗と孤立化のなかで、イタリアの運動は、1859年独立戦争にまで高まり、その敗戦によってバッハ体制は崩壊する。[進藤牧郎]
二重王国とその崩壊
危機に直面したオーストリアは諸民族の要求を加味して、1860年連邦主義的な十月勅書Oktoberdiplomを、さらに1861年には二院制議会を認める二月憲法February-Patentを発布し、ブルジョア的権力の強化を図るが、1866年プロイセン・オーストリア戦争に完敗し、ハンガリー土地貴族と結び、その王国を認めて、1867年オーストリア・ハンガリー二重王国を成立させた。この路線は、反発するスラブ諸民族の要求を抑え、1873年恐慌を経て、1879年ドイツ・オーストリア同盟に至る。しかし民族主義の高まり、加えて労働運動の成長に、この年「すべての民族、政党を代表する皇帝の内閣」が成立すると、このもとでドイツ人とチェコ人の民族的対立を緩和するため、ボヘミアでは言語令Sprachenverordnungが繰り返されるが、かえって対立が日常生活にまで持ち込まれて激化し、1888年に結成された社会民主党は、1907年普通選挙制を獲得したにもかかわらず、1909年には民族別に分裂し、民族主義の高揚に巻き込まれる。帝国主義的バルカンへの進出は、汎(はん)スラブ主義と対立し、1914年サライエボ事件を契機に第一次世界大戦に突入する。[進藤牧郎]
二つの大戦と戦後
第一次世界大戦はこの帝国を解体し、1918年社会民主党の主導で共和国となり、国民議会決議にも「ドイツ系オーストリアはドイツ共和国の一構成分子」と明記されたが、この合併(アンシュルス)は戦勝国に認められず、もっとも産業的なボヘミアを失い、戦後経済の混乱、さらには1929年の大恐慌もあってキリスト教社会党が台頭し、1932年成立のドルフース内閣は、社共とともに合併を叫ぶナチスをも弾圧した。多くのドイツ民族主義者たちはナチスに走り、ヒトラー・ドイツの台頭の前に1938年ドイツ・オーストリア合邦となり、翌1939年第二次世界大戦に加わるのであった。ナチス・ドイツの敗北のなかで、1945年3月ウィーンはソ連によって解放されたが、戦後は米英仏ソの四国占領下に、経済再建のためマーシャル・プランを受け入れ、260回を超える四国会議を経て、ようやく1955年オーストリア国家条約が調印され、自由な永世中立国として主権が回復され、現在に至る。[進藤牧郎]

政治

立憲制に基づく民主主義の連邦共和国で、三権分立の基礎のうえにたっている。憲法は1920年に制定されたものである。大統領は国民の直接選挙によって選ばれ、共和国を代表し、首相を任命し、首相の提言によって閣僚を任命し、国民議会の招集・解散を行う。大統領は3選以上を禁止され、また憲法裁判所の弾劾を受け、国民投票によって罷免されうる。
 国会は二院制で、上院(連邦議会)と下院(国民議会)からなる。国民議会は4年任期の議員よりなり、比例代表制によって国民から選出される。定員183名で、政党は社会民主党、国民党、自由党、緑の党などがある。社会民主党は第二次世界大戦前の社会民主労働者党の後身、国民党は戦前のカトリック的保守党の流れをくむ。1986年以降この2党で連立政権が確立されてきた。しかし1999年の国民議会選挙で、右翼保守的・国粋主義的な自由党とその分派であるリベラルフォーラム、さらには緑の党が勢力を伸ばした。翌2000年国民党と自由党の連立政権が誕生したが、2002年9月にはこの連立政権は解体、同年11月総選挙が行われ国民党が第一党、社会民主党が第二党となり、自由党と緑の党がそれに続いた。そして、国民党はふたたび自由党と連立を組んだ。2006年10月の国民議会選挙では、社会民主党が第一党となり、国民党は第二党となったが、翌年1月に社会民主党と国民党の連立政権が成立した。しかし、この政権は分裂し、7月には議会が解散、9月に選挙が行われた。この選挙で社会民主党と国民党はともに議席を減らしたが、第一党と第二党であることはかわらず、一方、右翼の自由党と、そこから分かれたオーストリア未来同盟は議席数を増やしている。選挙後、社会民主党と国民党の連立が新たにまとまり、連立政権が発足した。
 連邦議会は、九つの州から、人口数に比例して各地方議会により選出され、定員は64名である。上下両院とも法案提出権をもち、法案は両院を通過しなければならないが、両院の意見が一致しない場合には国民議会が優先する。宣戦布告など重大案件の決定には、両院議員で構成される連邦会議が招集される。また憲法改正には国民投票が必要である。内閣は、首相、副首相ほか閣僚を選び、大統領の任命を受けて国務を執行する。
 オーストリア国民は基本的権利と自由の権利とをもっている。その基礎は1867年の国家基本法に始まるが、第二次共和国の立法(1948)によって定められた。性、出生、人種、言語、身分、階級、信仰などによる差別は認められず、言論、集会、結社は法の限界内で自由である。ウィーンを含む九つの州は歴史的に自治権をもっており、住民によって選出された州議会があって、議会によって選ばれた州長官が行政を執行する。司法権は連邦に属しており、4階級に分かれた通常裁判所が設けられている。そのほかに憲法裁判所と行政裁判所があり、違憲の審査と行政権の監督にあたっている。
 外交の基本は、すべての国々との平和共存を求める永世中立の堅持である。第二次世界大戦後の1955年5月、占領国のアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国とオーストリアとによって締結された「オーストリア国家条約」によって、主権・独立を回復し、ドイツとの合併やナチズムおよび軍国主義を禁止し、人権尊重を誓約した。国民議会は1955年10月26日に「永世中立に関する法律」を採択し、「自らの意志によって永世中立を守り、いかなる軍事同盟にも加入せず、また領土内に外国基地を設置させない」ことを宣言した。この宣言に基づき、政府および国民は東西の隣接国と友好を進め、国際連合の任務に協力している。国連の事務総長としてワルトハイム博士が就任(1972~1981)するなど、事務局に人を出し、また国連軍に監視部隊や救護班を送ることなどを積極的に行っている。こうした状況のなかでウィーンでは、1979年ドナウ川左岸に国連センターが完成し、ニューヨーク、ジュネーブに次いで多くの国連機関の置かれる第三の都市となった。そこには国際原子力機関、国連工業開発機関などの複数の国連下部機関の本部が置かれている。また同施設に隣接して大規模な国際会議場もある。
 1980年代末から、東欧改革やドイツ統一などヨーロッパにおいて新しい地域秩序が形成される中で、オーストリアはEU(ヨーロッパ連合)加盟への道を進むこととなった。1994年4月にEUへの加盟が認められ、同年6月の国民投票では66%の賛成により国民の承認を得て、翌年1月に中立を条件にEUに正式加盟した。2002年には、シリングにかわってEUの統一通貨ユーロを導入している。また、北大西洋条約機構(NATO)には加盟していないが、「平和のためのパートナーシップ」は調印、NATOと協力関係にある。
 国家の防衛と安全のために、オーストリア連邦軍が組織されている。最高指揮権は大統領がもち、実際の指令は国防大臣から発せられる。国民皆兵で、18歳以上50歳までの男性は6か月の兵役義務がある。良心的理由による兵役拒否者には、非軍事勤務に服することができる兵役代替服務法が設けられている。[木内信藏・呉羽正昭]

経済・産業

第二次世界大戦によって大きな被害を受け、戦後は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連による分割占領と、ソ連による生産設備の撤去、東西陣営の対立があって、復興が遅れた。1949年からマーシャル・プランによるヨーロッパ復興資金の援助を受け、1955年の独立以降は急速に立ち直り、1950年代は年平均6%に達する経済成長率を示して、経済構造の高度化をみた。1994年には国内総生産1965億米ドル、国民1人当りでは2万4476米ドルに達し、後者はヨーロッパのなかでも上位に位置する。その原動力は、旧ドイツ資産の返還による工業の国営化、技術革新、輸出努力であり、それらを支持してきたのは国内の資源とエネルギーの供給、安定した政治、社会条件にある。
 経済体制は資本主義をとる一方、基幹産業の国営化が進められてきた。しかし、企業経営が柔軟性を欠き、経営の構造転換が図られなかったため、1970年代の石油危機とともに国営企業の経営が悪化した。このため、政府は株式市場へ国営企業の株式を放出することで、また企業を売却することで民営化を進めた。1994年にVAテクノロジー(機械)とOMV(石油など)が民営化の先陣を切っている。民営化をさらに推進するためにオーストリア産業持株会社(新IAG)が、政府所有株式を信託管理し、持株比率を下げて民営化を推進している。
 国内総生産に占める割合は、第一次産業が2.4%、第二次産業が29.8%、第三次産業が67.8%である(1999)。産業人口別の構成では、1951年には第一次産業22%、第二次産業36%、第三次産業24%、その他18%であったが、1993年には、第一次産業6.8%、第二次産業35.1%、第三次産業57.6%となり、農業が激減して商業、サービス業が増加した。
 全国の雇用者合計は314万8200(2001)で、そのうち外国人労働者が32万9300人を占める。オーストリアへの外国人労働者の流入は、ドイツ、スイスなどに比べて少数であったが、1989年以降、東欧改革の進行とともに外国人労働者の数は2倍になった。出身地は旧ユーゴスラビア地域がもっとも多く(16万1852人、ただしスロベニアを除く)、次がトルコ(5万6902人)である。
 失業率は、1970~1980年にかけて2%台を維持、1982年以降は増加に転じ、1990年以降は6%前後を推移し、2001年には6.1%となっている。オーストリアの実質経済成長率は、1960年までは毎年6%程度であったが、その後減少し、1975年にはマイナス1.7%まで落ちた。その後、一時回復したが、1984~1994年までの平均は2.6%であった。2000年に3.3%の成長となったが、2001年には1.3%と落ち着いた。農林業を含む国民総生産の地域的分配は、ウィーン(29%)をはじめ国土の東半諸州に約7割が集まっている。[木内信藏・呉羽正昭]
農林業
国土の18%(約150万ヘクタール)が耕地として、24%(200万ヘクタール)が草地として利用されている(1993)。農家数は約27万戸に達し、その半数以上は兼業からの収入が多い第2種兼業農家であり、また農家の大部分は小規模経営である。農業の主体は、畜産と穀物生産にある。1993年の国内の農業生産額はおよそ637億シリングで、そのうち69%を畜産が占める。
 おもな畑作物は、大麦、小麦、トウモロコシ、ビート、ジャガイモで、これらは国内の需要をほとんどまかなっている。またキャベツを中心とした野菜や、リンゴ、洋ナシ、ブドウなどの果実の生産も多いが、それらは輸入量も多い。ブドウは、おもに白ワインに醸造される。畜産物では、ブタ、ウシ、ヒツジ、ニワトリが主である。
 オーストリア国内では農業の地域差が大きい。東部の低平地帯は一大農業地域で、穀物、果実および野菜栽培のほとんどが集中し、規模も比較的大きい。また丘陵地での白ワインの生産も盛んである。一方、西部諸州の農業は山地農業で、条件が悪いため畜産の小規模経営が多いが、それも衰退傾向にある。森林限界より上部の牧場(アルム)は、アルプスを代表する景観であり、観光業にとってもまた国土保全にも重要な役割を果たしている。その景観維持のためにさまざまな農業助成措置がなされている。
 国土の約47%にあたる390万ヘクタールが林地である。森林の76%が針葉樹林で、トウヒがもっとも多く、次いでカラマツ、モミである。近年では年間約1500万立方メートル程度の森林伐採が行われたが、行政による森林保護のプログラムが進められている。林業生産物である原木およびその加工品は輸出量も多く、重要な産業となっている。林業は各州にわたって行われているが、森林面積が大きいシュタイアーマルク州やニーダーエスターライヒ州でとくに盛んである。
 1999年の時点で、全就労人口の5%が農林業に従事し、農地面積の約10%で有機農法が行われている。環境問題への意識が高く、国は森林保全をはじめ環境保護のために国民総生産の約3%を投資している。[木内信藏・呉羽正昭]
鉱業・エネルギー
オーストリアの工業を支える各種のエネルギー資源は1日約2800×1012ジュールであるが、その3分の2は輸入し、3分の1を自国で生産している。輸入のおもなものは石油と天然ガスであるが、石油の12%と天然ガスの20%が国産である。水力発電は年々開発が進み、総エネルギーの約16%を占めるに至った。それらによって、年々増大するエネルギー需要と石油価格の上昇を緩和している。油田および天然ガス田はいずれもウィーン盆地にあり、未開発の鉱脈も確認されている。主要水力発電所はドナウ、エンス、イル、ドラウ、インなどの諸河川に建設されている。
 鉱業事業所は93、従業者は4437人で、いずれも減少しているが、出荷価格は65億シリング(1994)で、1990年の93億シリングから減少を続けている。おもな金属資源は鉄鉱石およびマグネシウムなどを産し、非金属では石膏(せっこう)、滑石、陶土、塩、大理石、ドロマイト(苦灰岩(くかいがん))、石英などがある。鉄鋼業の原料として、年約400万トンの鉄鉱石が輸入され、クロム鉱、鉛鉱、ボーキサイトなども輸入している。エルツベルクなどから採掘される国内の鉄鉱石は、鉄分含有量26%、埋蔵量26億トン程度である。[木内信藏・呉羽正昭]
工業
製造工業の就業者数は61万3900(2001)となっている。オーストリアの工業は高い評価を得ている。製造工業は28業種にわたり、製鉄、機械、化学、自動車などの重工業や、窯業、繊維、食品加工などの軽工業が盛んである。重工業は鉄鉱石、電力などの資源に基礎を置き、石油、天然ガス、一部の原料を海外から輸入し、国営工業として第二次世界大戦後に発達をみた。しかし、1990年代に入り、諸々の社会的、経済的条件の変化とともに国営企業の民営化が進められている。中規模の企業が多く、プラント建設や電子工学などが重要視されている。
 オーストリアには国際的な大企業は存在しない。国内には石油、鉄鋼、化学、電子・電気、機械、自動車などの大企業がある。石油関連の化学工業を中心としたコンツェルンOMV社(オーストリア石油管理会社)は、雇用者1万1000人、売上高は680億シリングに達し、国営企業であったが、民営化が進んでいる。これに鉄鋼関連企業のウェースト・アルピーネ社が売上高381億シリングで続く。ドイツ・ジーメンス社の子会社、オーストリア・ジーメンス社は売上高332億シリング、半導体を中心に製造している。このほかドイツの自動車関連企業であるBMWや電機のフィリップスなどの子会社も大規模である(1994)。この他の代表的な大企業としては、BAホールディング、テレコム・オーストリアがある。
 重化学工業に対して、中小規模の軽工業が各地に発達しており、国民生活や観光に役だっている。製粉、精糖、醸造をはじめ、肉加工、製パン、製菓などの食料品の製造業は、ウィーンなどの都市周辺や交通の要地に立地している。手工業も発達しており、陶磁器、ガラス工業などは有名。繊維工業は大消費地であるウィーン郊外に綿紡工場が立地し、国内西部の山麓地帯には婦人の労働力による麻紡、織物、刺しゅうなどの工場が分布している。[木内信藏・呉羽正昭]
商業・金融・貿易
ほかの先進国と同様に第三次産業は著しく発展している。卸売・小売業、飲食業、ホテル業には71万人の従業者がある。卸売・小売業は、その業者数、従業員数および売上高ともにウィーンに著しく集中している。飲食業とホテル業は観光産業の重要な部門であり、チロール州が事業所数、従業員数ともにもっとも多い。サービス業の従業員数は全国で88万人にも達する。
 かつての二大銀行、クレディット・アンシュタルトとレンダーバンク(現バンク・オーストリア)はともに国営銀行であったが、ここでも民営化が推進されつつある。ほかに特殊な銀行として、郵便貯蓄銀行もあり、郵便局を通じて運営されている。全国の銀行数は1053で、支店、営業所などの数は5736店に達する(1994)。ウィーン証券取引所は、マリア・テレジアの時代(1771)に創設された古い起源のものである。
 貿易の総額は輸出5125億シリング、輸入6289億シリング(1994)であって、過去長期間輸入超過が続いている。品目別にみると、輸入額の多いものは自動車を中心とした機械・輸送機器、加工品、化学製品、食料品(野菜・果実)、石油で代表される燃料・エネルギー、鉱石などの原材料、衣料品などである。一方輸出額の多いものは産業・電気機械などの機械・輸送機器類、鉄鋼・紙などの加工品、化学製品、木材などの原材料となっている。またスキー用品の輸出も多い。貿易相手国は、ドイツが輸出入ともにもっとも多く、ついでイタリア、スイス、フランスなどとなる。また、地域別にみると、EU(ヨーロッパ連合)が輸出の63%、輸入の66%を占めており、EFTA(エフタ)(ヨーロッパ自由貿易連合)が輸出の9%、輸入の7%、旧ソ連・東欧は輸出の15%、輸入の10%となっている。日本は輸入国の第5位に位置する(1994)。[木内信藏・呉羽正昭]
観光業
芸術と歴史の都ウィーン、アルプスの山岳、湖沼の景観やスキー場を目ざし多数の観光客が訪れ、1970年代半ばには1年間の宿泊数合計は約1億2000万泊に達した。しかしその後は停滞傾向が続き1995年には1億1171万泊(2007年現在で1億2140万泊)である。州別、季節別にみると、東部に比べチロール州やザルツブルク州のある西部で宿泊客が多く、東部では夏季観光の、西部では冬季観光の占める割合が高い。全宿泊客の約7割は外国人で、もっとも多いのはドイツ人、次いでオランダ人となる。外国からの観光客の割合は、西部とウィーンで9割程度に達する。アルプスの山村地域では多くの農家が民宿を経営するが、近年ではその規模拡大や、宿泊業の専門化が目だつ。全国で宿泊施設の改善が進んでおり、トイレとバスが備わった部屋が一般化してきた。さらに台所を備えた部屋も増加している。観光業による外貨収入は約1500億シリング(2007年現在156億ユーロ)に達し、国内総生産の8%程度を占める。とくにスキー観光は1人当りの消費額が多く、フォアアールベルク州のレッヒ・チュルス、チロール州のザンクト・アントン、ゼルデン、キッツビューエルなどは国際的に有名なスキー場である。[木内信藏・呉羽正昭]

社会

全国平均人口密度は1平方キロメートル当り96人である。人口分布は地域差が大きく、ウィーン盆地ではその値が200人以上に達するのに対し、西部の山地では人口がまばらである。オーストリア全体の人口は微増を続けているが、2001年の出生率は9.3%、死亡率は9.2%で、近年の人口増加の多くは、増えつつある外国人労働者などの移住者による社会的増加が要因である。2001年の外国人の総数は76万1700人である。しかし西部の諸州では、依然として出生率も高い。人口の自然増加が減少したこと、また死亡率の低下とともに高齢化が進んできている。この傾向はウィーンやその他の州都などの都市部で顕著である。
 オーストリアの社会は、ドイツ文化とローマ・カトリックの精神的基礎のうえに、第一次世界大戦後の1920年に成立した憲法による民主主義の三本柱によって支えられている。それは西ヨーロッパ社会のもつ特色とほとんど異ならないが、社会福祉、社会保障などにおいては世界的にみて進歩した国の一つである。これらの制度は19世紀後半の帝政時代に始まり、第一次世界大戦後の変革によって一歩進み、第二次世界大戦後に仕上げられた。労働関係では、労働時間の短縮が進められてきた。その一方で有給休暇制度が確立し、とくに年間5週間のバカンス休暇の取得は義務とされる。女性労働力が増加しており(1971年の120万3000人が2001年の139万9900人に増加)、就業は男女の区別がないものとなっている。社会福祉制度も著しく発展している。高齢者、障害者、失業者、就学者などへの対策がさまざまな方向から十分に整備されている。たとえば、大学生の学費は無料(2002年から有料化)であるし、職をもつ女性には出産後2年間の産後休職期間が認められている。さらに、健康保険制度もすべての医療をカバーし、医療の水準も高い。こうした社会福祉に費やされる金額は国内総生産の約3割に達する(1996)。
 教育制度は、4年間の基礎学校(国民学校)の上に、職業教育を中心とした基幹学校(5年)と一般教育を中心とした高等学校(ギムナジウム、8年)がある。義務教育期間は9年である。基幹学校5年間の卒業者は、さらに3年間、職業学校で職業教育を受ける。また基幹学校4年修了時に、職業高等学校(5年、卒業時に大学入学資格取得)または高等学校後期課程に進むこともできる。高等学校は前期課程と後期課程からなり、国家資格・高等学校卒業試験(マトゥーラ)があり、これに合格すると、大学入学資格を得る。総合大学、単科大学がこれらの上にある。このように、職業の選択と能力に対応して、教育は複線型をとっている。
 スポーツは冬季のスキーと、会員25万を超えるサッカーがもっとも愛好されている。連邦スポーツ評議会と63の部門別評議会とによって構成されている連邦スポーツ協会には、1万3500余のスポーツ団体が参加し、国からの助成が行われている。1964年と1976年にインスブルックで冬季オリンピック競技会が、またアルペンおよびノルディックスキーの世界選手権やワールドカップ大会も頻繁に開かれている。オーストリアの選手は多くの種目で、しばしば上位に入賞している。スキー、スケート、登山は広く国民的スポーツとなっている。[木内信藏・呉羽正昭]

文化

住民の95%以上はドイツ系で、ドイツ語が使用される。中央ヨーロッパの交通の十字路にあることから、隣接国の民族が来住し、母国の言語があわせて使用されている。クロアチア語はブルゲンラント州で、スロベニア語はケルンテン州南部で、マジャール語はブルゲンラントおよびウィーンで、それぞれ使用されている。
 オーストリア人はドイツ民族の一族であるが、ウィーンがヨーロッパの政治・文化の中心都市であったことから、ドイツ国のドイツ人とは異なる国際性やロマン的情緒をもっている。日常生活を支配するカトリック教は、年中行事、風俗習慣に広く根づき、「こんにちは」にあたる挨拶(あいさつ)は「神のお恵みがありますように(グリュース・ゴット)」という。身ぶりや作法、人間関係にもカトリック的なものが残り、地方の風習には保守性が濃い。ローマ・カトリック教徒は全人口の78%を占め、そのほか少数のプロテスタント、ユダヤ教徒、イスラム教、無宗教者などもいる。
 音楽はオーストリアの代表的芸術で、ドイツ音楽を基調に、スラブやハンガリーの民俗音楽の要素を加味した明るい旋律をもっている。ウィーンを中心として活躍した音楽家には、グルック、ハイドン、モーツァルトをはじめ、ベートーベン、シューベルト、ブラームス、マーラー、シェーンベルク、ウェーベルンら、西洋音楽史の主流をなす人々があげられる。とくにウィンナ・ワルツを完成させたヨハン・シュトラウス(子)の曲は広く親しまれている。ウィーン国立歌劇場はオペラの歴史を飾る数々の名演を生んだ。それを支えたのは宮廷と貴族および市民であった。モーツァルトの『フィガロの結婚』(1786初演)はブルク劇場であったが、19世紀後半に国立歌劇場で創造的な演奏を示したのは、マーラー、リヒャルト・シュトラウスらであった。第二次世界大戦で破壊された歌劇場は2億6500万シリングの費用を投じて再建され、ベートーベンの『フィデリオ』によって開場された。その演奏はベーム、カラヤン、ヒルベルト以下に引き継がれた。ウィーンには多数の音楽学校があり、その頂点に音楽・演劇アカデミーが置かれている。数々の音楽祭、芸術祭のなかでも、1920年に始まったザルツブルクの音楽祭とヘルブルンの祝祭は、もっとも有名である。新しくはブレゲンツ芸術祭があって、ボーデン湖上に舞台を設けてオペラ、バレエなどが上演されている。
 美しい国土に加えて、ローマの遺跡や教会、僧院、王宮、城塞(じょうさい)などの歴史的記念物は各地に多く、博物館として利用され、あるいは巡礼地や、観光の場となっている。建築様式としてはロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロックにわたっている。ゴシック建築の代表はウィーンのサン・シュテファン大聖堂で12世紀に創建、その後再建・改築され、第二次世界大戦の災禍を受けたが、市民の浄財によって復興された。バロックを代表するのは、ウィーン郊外の夏の王宮シェーンブルンとドナウ河畔の段丘上にあるメルク修道院である。ザルツブルクの城山にそびえるホーエンザルツブルク城は11世紀に着工された城塞である。それらの建築に伴って、絵画、彫刻、家具、造園などの芸術ないし技術が発達し保存されている。
 近代美術および建築の新しい傾向を担う人々も現れている。パイヒル、ウール、シュバルトおよびホルツバウアーの制作グループなどである。ウィーンの庶民喜劇を取り入れて劇作を書いたフランツ・グリルパルツァー(19世紀)、オペラ『ばらの騎士』などをリヒャルト・シュトラウスとともにつくったホフマンスタールをはじめ、アルトゥア・シュニッツラー、ライナー・マリア・リルケ、フランツ・カフカらは20世紀への転換期を代表する作家であった。
 学術水準も高い。ノーベル賞受賞者は、平和賞2人を別として、医学生理学、物理学、化学、経済学にわたって十数人が選ばれ、経済学者のハイエク、量子論のパウリがそのうちに含まれている。このほかにも、メンデル(遺伝学)、フロイト(心理学)、シュミット(人類学)、ローレンツ(動物学)らが、世界的に知られている。ウィーン大学をはじめ12の総合大学や単科大学があり、芸術大学が6校ある。また1994年には大学に相当する高等工科研究機関であるFHSが創設された。大学生はウィーン大学の7万5000人をはじめとして、全国で約24万人いる(1999)。その約1割が外国人留学生で、南チロールなどからのイタリア人やドイツ人が多い。学術研究の最高機関として、オーストリア学士院(1847年設立)がある。また国際的な研究機関として、ウィーン郊外のラクセンブルクにある国際応用システム研究所(IIASA)があり、環境・エネルギー問題などの研究課題に世界からの多くの研究者が従事している。[木内信藏・呉羽正昭]

日本との関係

オーストリアと日本との関係は、音楽とウィンタースポーツの面などで密接である。学術交流もじみではあるが進んでおり、オーストリアの民主中立的な歩み、経済政策などに、日本は学ぶべき点が多いといってよい。1869年(明治2)に日本と修好通商航海条約を締結(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)している。音楽では、明治時代のバイオリニスト幸田延(こうだのぶ)(1870―1946)をはじめとして、ウィーンに学んだ日本人はきわめて多い。近年はオーストリアからの音楽家の来日がとみに増加し、日本人の観光客がオペラや音楽の鑑賞に出かけたり、音楽家の遺跡を訪ねたりすることも少なくない。ウィーン・フィルハーモニー、ウィーン少年合唱団、国立オペラなどの演奏は広く日本の聴衆に親しまれている。2002年から2010年まで小沢征爾(おざわせいじ)がウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めている。
 スキーを本格的に日本に伝えたのは、オーストリアの軍人レルヒTheodor von Lerch(1869―1945)で、1911年に新潟県高田(現上越市)で一本杖(づえ)の技術が伝習された。第二次世界大戦前にはハンネス・シュナイダーHannes Schneider(1890―1955)が、戦後にもオーストリアの名手が、日本のスキーの発達に貢献しており、日本からスキーや登山のために渡航する人々も増加しつつある。また武道を通じた文化交流も盛んになってきた。
 ウィーン大学における日本学(ヤパノロギー)の研究には日本文化に関する優れた業績がある。日本からの留学生の大半はウィーン音楽・演劇アカデミーに在籍している。国連関係の機関や日本企業の現地支店などに働く日本人もいる。日本とオーストリアの間の貿易額は2006年には、日本からの輸出が1388億円、輸入が1792億円である。長く日本の輸出超過が続いていたが、2004年以降は輸入超過となっている。日本からの輸出品目の中心は自動車、電気機械で、輸入ではスキー用具と木材が輸入額の2割程度を占める。[木内信藏・呉羽正昭]
『今来陸郎編『世界各国史7 中欧史』新版(1971・山川出版社) ▽矢田俊隆編『世界各国史13 東欧史』新版(1977・山川出版社) ▽矢田俊隆著『ハプスブルク帝国史研究』(1977・岩波書店) ▽木内信藏編『世界地理7 ヨーロッパ』(1977・朝倉書店) ▽I・T・ベレンド、G・ラーンキ著、南塚信吾監訳『東欧経済史』(1978・中央大学出版部) ▽良知力著『向う岸からの世界史』(1978・未来社) ▽連邦総理府・連邦報道庁編『オーストリア 事実と数字』(1979・連邦報道庁/日本語版・オーストリア大使館) ▽P・パンツァー、J・クレイサ著、佐久間穆訳『ウィーンの日本』(1990・サイマル出版) ▽池内紀監修『オーストリア』(1995・新潮社) ▽田辺裕監修『図説大百科世界の地理12 ドイツ・オーストリア・スイス』(1996・朝倉書店) ▽大西健夫、酒井晨史編『オーストリア』(1996・早稲田大学出版部) ▽Austrian Museum for Economy and Society ed. Survey of the Austrian Economy 1980 ▽Adolf Leidlmair ed.sterreich,2.Auflage(1986,List)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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