オーストリア(英語表記)Austria

翻訳|Austria

改訂新版 世界大百科事典 「オーストリア」の意味・わかりやすい解説

オーストリア
Austria

基本情報
正式名称=オーストリア共和国Republik Österreich 
面積=8万3871km2 
人口(2010)=839万人 
首都=ウィーンWien(日本との時差=-8時間) 
主要言語=ドイツ語 
通貨=オーストリア・シリングAustrian Schilling(1999年1月よりユーロEuro)

オーストリアという呼称は英語名で,ドイツ語では,エスターライヒÖsterreich。〈東の国〉を意味するが,国土は,ヨーロッパの中央部を占め,ドイツはもとより,フランス,イタリアとも深くかかわりあい,ヨーロッパ史上,重要な位置を占めてきた。

国土の総面積は北海道とほぼ等しく,その約2/3は東アルプス(アルプスのうち,ライン川上流とイタリアのコモ湖を結ぶ線より東側を指し,西アルプスとは地質構造のうえからも区分される)が占め,ボヘミアの森の南東部を合わせると国土の3/4は山地である。丘陵地,台地,低地は,アルプスの南東麓~東麓地域,ウィーン盆地およびアルプスとドナウ川間のアルプス前縁地に発達する。

 東アルプスでは,地質構造が地形に反映し,主として結晶岩類,片岩類から成る中央アルプス帯が山地の中軸を構成し,その北側,南側にはきわめて顕著な東西方向の構造性縦谷が発達する。それらは北側ではイン川,ザルツァハSalzach川,エンスEnns川,ムールMur川からミュルツMürz川の谷,南側ではドラバDrava川の谷である。これらの縦谷を隔てて中央アルプス帯の南北両側にカルク(石灰岩)アルプス,さらに外側にアルプス造山運動の過程で堆積・形成されたフリッシュFlysch帯,モラッセMolasse帯が並ぶ。東アルプスでは,中央アルプス帯が最も高く(オーストリアの最高峰グロースグロックナー山(3798m)を含む),南北両方向に低下する。西から東への一般的な山地高度の低下も顕著で,3500mから1800mになる。東アルプスの現在の雪線高度は2600~3100mで,アルプス全体の氷河面積3600km2のうち,1400km2が分布する。

 アルプス前縁地は丘陵・台地地形を呈し,地質的にはモラッセ帯にあたっている。その幅はイン川下流部で50km,イップスYbbs川下流で約10kmと狭くなる。この前縁地には,第四紀の氷河期にアルプスから氷河が繰り返し流れ出て広がった。氷河の残した地形から,少なくとも6回の独立した氷河期があったとされている。ドイツのアルプス前縁地から連続する湖沼群はそれらの氷河が溶け去ったあとの凹地に形成されたものである。氷河の規模は,上流域の広さや山頂高度と関連し,最後の氷河期について言えば,イン川,ザルツァハ川,トラウンTraun川の谷からは山麓に広がったが,それより東では谷の中で終わっている。ボヘミアの森は,アルプスに比べて古いヘルシニア造山運動によって形成されたもので,花コウ岩より成る波状の高原状地形を呈する。その南縁はほぼドナウ川に沿っているが,一部はアルプス前縁地側にも分布し,ドナウ川が花コウ岩高原を深くうがったメルク~クレムス間のワッハウWachau峡谷はライン峡谷に匹敵するともいわれる景勝地である。

 ウィーン盆地は,アルプスとカルパチ山脈の結び目にあたる構造盆地で,第三紀を通じて海域から淡水湖となり,しだいに陸化したものである。ドナウ川より北のウィーン盆地北部は丘陵地帯で,オーストリア第1の石油天然ガス産地である。一方,南部では南部カルク・アルプスと中央アルプスの境界部へ湾入状に入り込み,山地,盆地を限る断層線上は温泉地帯となっている。ウィーン盆地の東はライタLeitha山地を経て低地が発達し,そこには南北35km,最大幅12km,最大水深1.8mの浅いノイジードル湖がある。湖水は約1.5g/lの塩分を含み鹹湖である。アルプスの南東部グラーツ周辺の構造性盆地では,丘陵の発達が顕著である。

オーストリア全体としては夏冷涼な湿潤温帯気候に属するが,アルプスの高所は氷雪気候地域である。夏と冬の平均気温はそれぞれ20℃,-1~-2℃(ウィーン盆地)であるが,山岳地域ではいずれも1~2℃低い。降水量はアルプスの北側では大西洋の影響を受け年間600~1500mm,場所によっては2000mmに達する。その量は山稜の高さではなく風に対する位置と地形によって決まる。東部~南部では450~1000mmに減少する。総降水量に占める雪の量は東アルプスでは規則的に変化し,標高1500mでは降水の46%が,2000mでは59%が,2500mでは72%が,そして3600m以上では100%が雪として降る。アルプスの気候で特徴的なのは気温の逆転現象であり,特に冬の気温は,山の上で高く,冷気の流入する谷や盆地では著しく低温である。このため,山頂部の気温年較差は谷のそれに比べてはるかに小さく,ホーエ・タウエルン山脈のゾンブリックSonnblick山(3105m)では14.4℃であり,たとえばウィーンの21℃と比べても明らかである。フェーンもアルプスの気候を特徴づける現象で,とくにライン川の谷とイン谷で著しい。アルプスの北方を低気圧が通過し,暖気流が南から流入するとき生ずる。一年を通じて起こるが,とくに春・秋に著しい。フェーンは急激な昇温をもたらし,融雪洪水,雪崩を引き起こす。たとえばイン谷では1960年の10月には15日間もフェーンが生じた。インスブルックでは年間のフェーン日数は,最大104日(1916)と最小21日(1955)の間にある。

 アルプスの西から東への高度低下は,植生,土地利用,居住の高度限界の低下を伴う。森林限界は西部で2200m,東部で1700~1800mであり,東アルプス東部は森林に覆われている。居住限界は西から東へ1900mから1000mへと低下する。このような東西方向にみられる生態学的相違は南北方向にも現れる。降水量の多いアルプス北縁では森林限界は低下し,ブナ林,ブナ混合林が卓越する。一方,オーストリア・イタリア国境をなすカルニッシュ・アルプスKarnische Alpenはすでに地中海性気候影響下にあり,場所によっては赤ブナが森林限界をなす。東部の低地はアルプス地域と異なり,パンノニア植物区に属し,乾燥の著しい所ではステップ植生が出現する。
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現在のオーストリアでは住民の約99%がドイツ語を話すが,第1次世界大戦前のハプスブルク帝国は,行政的にいくつもの領邦(ラント)に分かれた多民族国家で,総人口もたとえば1847年には3731万7192を数えた。領域的に縮小した現在のオーストリアにおいても,ケルンテン,ブルゲンラント,ウィーンには少数の民族グループが居住している。1971年の調査によると,南ケルンテンにスロベニア人1万9593(約4万という数字もある)。ブルゲンラントにクロアチア人2万4514,同じくブルゲンラントにハンガリー人が同州人口の約2%,ウィーンにチェコ人とスロバキア人の民族言語を話す集団が約1万居住する。これらの民族集団の諸権利は1955年の国家条約で保障されているが,実際にはなお民族言語の同権やラジオ,テレビのプログラムなどをめぐって紛争が生じている。政治的亡命者も多く,1956-57年のハンガリー動乱には23万人が,また68年のチェコスロバキアへのソ連軍介入に際しては,7300人がオーストリアに亡命した。住民の宗教は約88%がローマ・カトリック,6%がプロテスタント,1.5%がその他の宗派,4.5%が無宗教である。またユダヤ人は1920年代にはウィーンを中心に約20万人いたが,現在はわずかで,60年に約1万2000人と報告されている。オーストリアにおいても人口は大都市へ集中する傾向にあり,人口1万以上の44の都市に全人口の43%が,またウィーンには23%が集中している。

ここでオーストリアの歴史として取り扱うのは,ドイツ東方の国家としての形成が始まった10世紀末以来約1000年の期間である。いまでこそオーストリアは人口わずか810万の小国であり,一部のハンガリー系とスラブ系を除いて住民の大部分はドイツ系だが,かつてはハプスブルク王制下の多民族国家としての栄光に包まれ,オーストリアの運命はとりもなおさずヨーロッパ大陸の運命でもあった。

10世紀以前のオーストリアは,すでにさまざまな民族の混交のなかにあった。その歴史はなによりも地理的条件によって制約されている。それはヨーロッパにおける東と西の,また北と南の交通の要衝として,ローマ,ゲルマン,スラブという三つの文化圏の接点であった。そればかりかときとしてアジア系の文化も交錯している。それはいわば雑種文化である。

 すでに前10世紀~前4世紀の初期鉄器時代にインド・ヨーロッパ系のイリュリア人がいわゆるハルシュタット文化を生み,それにケルト人とローマ人の文化が続いた。とりわけローマの支配下では経済と文化が大きく伸びる。街道が敷かれ,ブドウが栽培され,ローマ法が導入され,ローマの兵屯地から現在のウィーン,ザルツブルク,リンツの都市が生まれ,さらに3世紀にはキリスト教がひろめられるようになる。さらにそれから100年たつと,オーストリアの地は民族移動の場となり,ゲルマン人,フン族,アバール人,マジャール人らによる角逐の場となった。500年から700年にかけてはバイエルン人がはいりこみ,8世紀末にはカール大帝が騎馬民族アバール人を破り,カロリング朝フランク王国の東の防壁として辺境伯領Markgrafschaftを設けた。880年にはマジャール人が侵入するが,955年オットー1世がレヒフェルトの戦でマジャール人を打ち破るのである。

次にくる約1000年の時期,オーストリアを支配するのはバーベンベルクBabemberg家とハプスブルク家の二つの王朝である。バーベンベルク家は270年間,ハプスブルク家は640年間オーストリアを統治するのである。すなわち976年にバーベンベルク家のレオポルトが辺境伯領オーストリアに封ぜられ,12世紀にはハインリヒ2世がウィーンに居城を構えた。バーベンベルク家の統治下でオーストリアは栄え,金銀,塩の生産が上昇し,修道院が西の地方からしだいに東に移され,さらに神学研究や詩作も奨励され,ウィーン宮廷ではミンネ詩人ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデが活躍する。996年の史料には,〈東の国Ostarrichi〉の名称が人々の口の端にのぼるようになったと記されている。

 1273年神聖ローマ帝国の空位時代が終わり,ハプスブルク家のルドルフ1世がドイツ国王に選ばれた。以後〈オーストリア家〉は640年間の統治のなかで20人の皇帝と国王を送り出した。このハプスブルク統治下でオーストリアの版図は最大となり,〈日の沈むことなき〉時代を迎え,1526年にはボヘミアとハンガリーがオーストリアに統合された。

 国家制度が強固になるにつれて文化も興隆した。1365年にはウィーン大学が創立され,15世紀末には人文主義の新しい潮流がオーストリアにも流れこんだ。芸術もまた13世紀末までのロマネスク,13,14世紀のゴシックの時代を経て,皇帝マクシミリアン1世の治下には〈ルネサンス〉期が始まった。マクシミリアン1世みずから詩作し,演劇を奨励したが,オペラや寓意的な祝祭劇,さらにキリスト受難劇や謝肉祭劇などいまも残るような宗教的民衆劇がこの時期にさかんとなった。

1529年と1683年の2回にわたって強力なオスマン・トルコ軍がウィーンを包囲した。しかし結局オーストリアはオスマン・トルコ軍を破ることに成功し,これによってオーストリアも大国の仲間入りをしたのである。サボイ公オイゲンはオスマン・トルコ軍を破るのに功があったが,彼の夏の宮殿ベルベデーレはウィーンにおけるバロック建築の傑作である。この時期はバロックの時代といえる。バロックの巨匠フィッシャー・フォン・エルラハはイタリア的素材をオーストリアの民族的様式に結びつけ,バロック様式をオーストリア特有のものとして示すことに成功した。またこのバロック時代には,オーストリアはヨーロッパの劇場文化の中心であり,とりわけウィーン宮廷のオペラやバレエの上演は国際的性格をもった。

 1700年ハプスブルクのスペイン家系が断絶し,それに続くスペイン継承戦争の後,イタリアとオランダのスペイン領はオーストリア家系の手に入った。この時期マリア・テレジアはプロイセンのフリードリヒ1世に軍事的に対抗する宿命を担って即位し,1740年から80年まで統治した。彼女は1736年ロートリンゲン公フランツ・シュテファンFranz Stephan(1708-65)と結婚し,それによってハプスブルク・ロートリンゲン家を創設した。彼女は16人もの子をつくり,シェーンブルン宮殿を愛好したが,他面強力な国家改革を推し進め,統一的な行政機構としての官僚制的国家をつくり出した。さらにマリア・テレジアは財政を改善し,重商主義政策に対応して商工業を興し,司法を行政から分離し,拷問を廃止した。教育制度も改革され,小学校が設けられ,大学も教会権力の手から離れて国家機関となったのである。マリア・テレジアの子ヨーゼフ2世も啓蒙の精神をもって改革を続行したが,あまりに急進的であったため成果を挙げることはできず,その成果は農奴制の廃止と信教の平等にとどまった。他面18世紀末ウィーンは作曲家のたまり場であり,ハイドン,モーツァルト,ベートーベンら,〈ウィーン楽派〉の時代が始まった。

19世紀へ移るとナポレオン戦争が生じた。神聖ローマ帝国の諸侯はナポレオンと同盟し,帝国はもはや政治的現実性をもたなくなったため,フランツ2世は1804年〈オーストリア皇帝〉の称号を受けて,フランツ1世となり,06年8月6日〈ドイツ国民の神聖ローマ帝国〉の帝位を降りる。ハプスブルク王制は多民族国家として,この時期に次の12の領邦(ラント)とハンガリー(クロアチア,スロベニアを含む),トランシルバニアを内包していた。12の領邦とは,ウンター・デル・エンス(現,ニーダーエスタライヒ),オプ・デル・エンス(現,オーバーエスタライヒ),シュタイアーマルク,ケルンテンおよびクライン,キュステンラント,チロル,ボヘミア,モラビアおよびシュレジエン,ガリツィア,ロンバルディア,ベネチア,ダルマツィアである。1809年オーストリア軍はナポレオン軍にワグラムWagramの戦で敗北し,シェーンブルン宮殿でナポレオンと講和を結んだ。新しい外相メッテルニヒはナポレオンに近づき,皇女マリー・ルイーゼMarie Louise(1791-1847)をナポレオンの妃とした。チロルではアンドレアス・ホーファーAndreas Hofer(1767-1810)に率いられた人民蜂起が生じるが,これも敗北した。しかし破局的なロシア遠征後ライプチヒの戦でナポレオンの敗北が決定的となった。

 1814年メッテルニヒがウィーン会議を招集した。この会議によってヨーロッパの新秩序が決定され,諸大国の勢力均衡の上に立って以後平和が続くが,他面では復古的体制が確立され,学生運動組織〈ブルシェンシャフト〉の弾圧などを通して権力政治の色彩が強められた。しかしまた19世紀前半は産業,技術,経済が急速に発展し,ヨーロッパ域内では後進的ではあっても産業革命がオーストリアでも徐々に進行した。1815年ウィーンの工業大学開校,16年国立銀行創立,37年にオーストリア最初の蒸気機関車が走った。

 ウィーン会議から三月革命(48年革命)にかけての時期は〈三月前期Vormärz〉といわれるが,この時期は芸術上では〈ビーダーマイヤー〉期といわれる。洗練されて愛くるしい装飾性を特徴とし,市民層の〈ビーダーマイヤー風居室〉など,生活が一応は豊かとなったものの,時代の表面からは身をひそめようとする市民層の意識を表現する。またこの時代のウィーンを最も鮮烈に特徴づけているのは,市外区で上演された民衆喜劇である。それはA.シュトラニツキー演じる〈ハンスブルスト〉の道化的形象から始まり,J.ネストロイの風刺的パロディやF.ライムントの童話的夢幻劇で頂点に達する。グリルパルツァーはこの民衆喜劇から影響を受け,それをバロック演劇や古典演劇の形式と統一してその作品を完成させた。

 1840年代にはいると,オーストリアにもプロレタリアートと呼ばれた貧民層が生じ,大衆的貧困とあいまって社会問題を形成した。他方王権に対する市民層の権利要求もしだいに強まり,48年三月革命の波がオーストリアをもとらえた。ウィーンの市民,学生,労働者は憲法の制定,出版の自由,国民軍の設置などを要求し,3月から5月にかけて要求のほとんどをかちとった。メッテルニヒはロンドンに亡命し,皇帝はインスブルックに逃げた。ハンガリーでもハプスブルク王制から独立しようとする闘争が生じ,革命運動はオーストリア帝国の各地に波及した。しかし48年10月末ウィーンは皇帝軍に包囲攻撃されて降伏し,49年8月ハンガリーの革命勢力もロシア軍の介入の前に降伏した。こうして革命は敗北したが,しかしオーストリアではこの革命によって立憲制の基礎ができ,また農民は賦役から解放された。

 1848年12月,病弱のフェルディナント1世に代わって18歳のフランツ・ヨーゼフ1世が皇帝に即位し,以後68年の長きにわたってオーストリアを統治する。しかし彼の個人的生活は落日寸前の大帝国にふさわしく孤独で憂愁にみちていた。帝位を継ぐべき息子ルドルフは心中し,妃エリーザベトはアナーキストの凶刃に倒れた。66年オーストリアは,ケーニヒグレーツKöniggrätzの戦でプロイセンに敗れ,翌67年いわゆるアウスグライヒAusgleich(妥協)を通してオーストリアとハンガリーとの二重帝国が成立し,オーストリアは軍事と外交を除くすべてを自立したハンガリーの手にゆだねた(オーストリア・ハンガリー二重帝国)。第1次世界大戦前の相対的安定期にはオーストリア・ハンガリーの経済は急速に発展した。しかし19世紀後半の憲法論議や社会民主党の内部論争などを通しても民族問題はついに解決できず,社会問題とからみあってこの時期にはさらに先鋭化した。この状況のなかで医師のV.アードラーは同志とはかってオーストリア社会民主党を創立した。またウィーンはキリスト教社会党の市長ルエガーKarl Lueger(1844-1910)の下で近代的大都市に発展した。

 1890年ころ文学の領域で転換が生じ,ホフマンスタールやシュニッツラーらの〈世紀末世界Fin de siècle-welt〉が生み出される。ホフマンスタールはR.シュトラウスと共同して《サロメ》その他の作品を生み,またシュニッツラーは,心の内奥の独白を描くことで同郷人のフロイトの影響を受けている。さらに旧来の方法から〈分離〉しようとしたゼツェッシオン運動は絵画と詩における印象主義に道を開いた。また99年以降K.クラウスは《炬火》誌を通して時代批判を行い,またウィーンとならんでプラハも文学運動の中心であり,そこでカフカ,リルケ,ウェルフェルが生まれた。

1914年6月28日一セルビア人がサラエボでオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを暗殺し,それが直接の誘因となって第1次世界大戦が勃発した。敗戦の結果オーストリア皇帝カールは1918年11月11日退位し,翌日臨時国民議会がオーストリア共和国(正称はドイツ・オーストリア国)を宣言した。講和成立後,後継国家としてオーストリア,ハンガリー,チェコスロバキアが生まれ,さらにセルビア人クロアチア人スロベニア人王国が生まれ,のちにユーゴスラビア王国となった。

 オーストリア共和国もまた戦後,食糧難をはじめとする経済的困難に直面し,さらにはイタリア,ドイツに独裁政権ができたためもあって,社会民主主義者とブルジョア層の対立が重大化した。社会民主党系の労働者を主体とする防衛同盟Schutzbundと,市民・農民からなる護国軍Heimwehrという二つの武装集団が対立し,とくに34年2月12日にはウィーンを中心に防衛同盟が蜂起した。蜂起は軍によって鎮圧され,その結果多くの者は投獄され,死刑判決を受ける者もあり,またスターリン体制下のソ連へ逃げて処分された者もいた。これよりさき1933年3月議会はみずから閉鎖し,首相E.ドルフスがクーデタ的にすべての権力を独裁的に握った。同時にナチス分子も活動を強め,34年7月ドルフスもまたナチスに暗殺された。ドルフスの後継者シュシュニックKurt Schuschnigg(1897- )はオーストリアの独立を確保しようとしてヒトラーと会い,またそれを3月13日の国民投票に付そうとしたが,その先手を打って38年3月11日ナチスがオーストリアに進駐した。こうしてオーストリアはドイツ帝国に〈併合(アンシュルスAnschluss)〉された。第2次世界大戦中にはオーストリア国内の各所でナチスに対する抵抗運動がつづいたが,その解放はナチス・ドイツ帝国の軍事的敗北をまつことになる。
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1945年4月,ウィーンは,ドナウ川にかかるライヒス・ブリュッケ(ライヒ橋)を越えて進攻してきたソ連軍に占領され,この橋は一時赤軍橋Rote Armee Brückeと改名された。5月半ばにいたり,オーストリア全土は,ソ連,アメリカ,イギリス,フランスの4連合国の分割占領下に入った。5月8日ドイツの無条件降伏に伴い,それまでドイツとの合邦を強いられていたオーストリアは,1937年末の国境線でドイツから分離された。オーストリアもドイツと同じく分裂国家の運命をたどるかと思われたが,すでに占領中からウィーン中央政府に大幅な自治権が認められ,55年5月15日調印の国家条約Staatsvertragによって,オーストリアは,38年3月18日のドイツとの合邦以来17年ぶりで独立を回復,永世中立国として新発足した。

1945年4月27日に公布された〈臨時オーストリア政府〉の宣言第1条により,民主的オーストリア共和国が,1920年10月1日の憲法(1929年12月7日大幅改正)の精神において再建されることが決定され,45年5月1日の憲法継承法によって1920年の憲法が復活した。1920年憲法は,1918年の敗戦とともにハプスブルク王朝の支配が終りを告げたあと,民主的連邦共和国の設立を宣言したものである。

 連邦は,ブルゲンラント,ケルンテン,オーバーエスタライヒ,ニーダーエスタライヒ,ザルツブルク,シュタイアーマルク,チロル,フォアアールベルク,ウィーンの9独立州(ラント)からなり,連邦の首都はウィーンである。連邦と州との権限関係は,憲法に詳しく規定されている。元首は大統領であり,国民が直接に選挙する。また,〈統治者の家系またはかつて統治を行った家族に属する者は被選挙権を有しない〉とされているが,これは具体的には,最後の皇帝カール1世の長男でドイツに亡命したオットーの野心を警戒したものである。大統領の任期は6年で,任期満了直後の再選は1回に限られている。ただし,政治の実際面で重要なのは首相であり,首相を長とする連邦政府は国会に責任を負う。国会は,下院Nationalrat(定数183名)と上院Bundesrat(定数63名)からなる二院制で,連邦政府と上下両院議員が法案提案権をもつ。下院は,ふつう秘密・直接選挙によって選ばれた任期4年の議員からなるが,大統領は国民議会を解散することができる。ただし同一の原因による解散は1回に限られる。上院の権限は弱い。各州議会の代表によって構成される上院は,下院の議決した法案に異議の申し立てができるが,下院が総議員の1/2以上の出席の下に最初の議決を再び可決すれば,この議決は発効する。国民投票Volksabstimmungの制度が名目にとどまらず,実際に活用されていることは,オーストリアの政治の特色といえよう。国民投票の実例として,後述する78年の原子力発電所をめぐる国民投票をあげることができる。憲法の全文改正もまた国民投票を必要とするし,部分改正も,上下両院いずれかの議員の1/3の要求があれば,国民投票にかけなければならない。1929年の大幅改正によって,大統領は国民の直接投票により選出されることになった。この大幅改正のほかに,部分改正はしばしば行われている。国民投票とならんで国民請願Volksbegehrenが制度化されている。

オーストリアにおける二大政党は,オーストリア国民党Österreichische Volkspartei(ÖVP)とオーストリア社会党Sozialistische Partei Österreichs(SPÖ)である。両党は,第2次大戦後,下院議席をほぼ二分する議席数をもち,その議席差もつねに10~20という小差で推移している。

 ÖVPは第一共和制時代ほとんど一貫して第一党であったキリスト教社会党の後身であり,カトリック的保守政党の立場を棄ててはいないが,聖職者の政党活動が禁止されたことにより,第一共和制下のキリスト教社会党時代に比し,宗教色と世界観政党の性格とは薄れた。ÖVPの三つの支柱は,農民同盟Bauernbund,経済同盟Wirtschaftsbund,労働者サラリーマン同盟Arbeiter-und Angestelltenbundである。第一共和制時代は一貫して第2党のSPÖをおさえ,戦後も1970年の総選挙までは第1党であったが,その総選挙でSPÖが過半数を制しないながら比較第1党となり,71年の総選挙で,SPÖは絶対多数を確保するにいたった。それ以後83年までSPÖが絶対多数を独占しつづけたが,同年過半数を割った。

 オーストリア社会党(SPÖ)は,第一共和制時代のオーストリア社会民主党の後身である。この党は1919年,いったんキリスト教社会党と連立政権を組織したが,その後両党の争いは激化し,ついに34年2月の武装決起となり,同党の敗北に終わった。このような抗争がオーストリア・ナチス党の進出を招いたことから抗争の無益なことをさとった二大政党は,戦後25年間一貫して連立政権を組織したが,これにはSPÖの側で,シェルフAdolf Schärf(1957年に大統領に当選し63年に再選)にひきいられる温和派が45年以来指導的立場にあったことと,ÖVPの側が非妥協的な世界観政党の立場を脱却したこととが大きな前提をなしている。SPÖは労働者に基盤をおく政党であるが,オーストリアのマルクス主義の大立者として知られるO.バウアーにひきいられる急進派が1934年以降大部分亡命し,戦後帰国してももはや党内で指導的発言権を得られなかったという事情もあってマルクス主義政党の性格が薄れ,ÖVPとの連立が容易となった。党首の地位はシェルフからピッターマンBruno Pittermann,クライスキーBruno Kreiskyを経てフラニツキーFranz Vranitzkyへと移っている。

 オーストリア共産党Kommunistische Partei Österreichs(KPÖ)は,1918年11月3日に創設されたが,第一共和制時代,国会に議席を有するにいたらず,戦後モスクワに亡命していたコプレニッヒJohann KoplenigやE.フィッシャーらによって再建され,ソ連占領軍は党勢の伸びを期待し支援したが,戦後初期国会に若干の議席を獲得したにとどまり,ソ連占領下東欧諸国におけるような急激な成長を遂げることがなかった。59年以後,同党は国会に議員を送りこんでいない。

 オーストリア自由党Freiheitliche Partei Österreichs(FPÖ)は,二大政党のいずれもが下院の絶対多数を占めるにいたらない場合にキャスティング・ボートを握る政党として無視できないが,その構成は雑多な分子の寄集めである。1948年に創設され,旧ナチス党の残党も加わった国家主義者の団体である無所属連合Verband der Unabhängigenが,56年一部の自由主義者や保守主義者を吸収して再編成された。ドイツとの合邦を主張する大ドイツ主義者が中心となった無所属連合は,51年には連邦大統領の選挙で,同党の候補ブライトナーBurghand Breitnerが,総投票中の15.4%を獲得して,ナチスの復活として連合国側から警戒されたが,この派の勢力としてはこれが最大限であり,FPÖに再編成されてからは党勢は後退している。83年に同党は初めて政権に加わることになる。

 FPÖについて特筆すべき事柄は,外国人をオーストリアから排除すべしと主張する右翼民族主義者のハイダーJorg Haider(1950- )が党首に就任したことによって,従来から動揺を続けていた同党が右傾し,SPÖが83年から続く同党との連立を86年に解消するにいたったことである。ハイダーの存在は,ドイツにおいては,むしろネガティブな意味で注目され,警戒されている。

 またFPÖは,94年6月12日に行われた,EU加盟の是非を問う国民投票に際して,緑の党とともに反対の立場を鮮明にしたが,その理由は緑の党とはまったく違っていて,同党の掲げるドイツ民族主義の立場から,オーストリアにとっての西欧志向を意味するEU加盟に反対したと考えられる。

 ところで,1966年から71年までのÖVPの単独政権と71年から83年までのSPÖの単独政権,そして83年から86年までの小連立政権を別にすれば,戦後のオーストリアは,二大政党の大連立内閣の統治が伝統として根付いているといってよい。95年には危機的な状況が訪れたが,結局この伝統が維持された。この伝統を支えているのは,〈プロポルツProportz〉というほとんど制度化された慣行である。これは,選挙の結果によって,下院のなかだけでなく,国家の重要なポストを両党に配分するという,オーストリア特有の方式である。かつて,1934年の内戦では,両党の先行形態に相当する二大勢力は相互に武器を手にして戦った。その反省に立って,両党間の平和と国家全体の平和を目的として成立したのがこの慣行である。しかし,これにより,国家の重要なポストは,両党のメンバーか,両党のいずれかに関係をもつ人々によって独占されることになり,社会の活性化とは反対の沈滞した空気が一般化するという弊害をも伴った。しかし,この方式は次第に形骸化するものと予想されている。

 このプロポルツは,オーストリア特有の社会的パートナーシップ,ドイツ語でいうゾチアルパルトナーシャフトSozialpartnershaftの一側面である。社会的パートナーシップの意味するところは,簡単にいえば労使協力体制であるが,オーストリアでは,それが制度化され,国家全体にゆきわたっていて,他のヨーロッパ諸国に類を見ないオーストリア政治の特質を形成している。しかし,オーストリアのEU加盟は,中期的,長期的に見れば,このようなオーストリア政治の特殊性を減少させて,オーストリアを西欧の〈普通の国家〉にする方向に作用し,この意味の西欧化を促進するであろうと考えられる。

オーストリアが,4連合国の占領から解放されて独立をかちとるまでの歩みは多難であった。独立の基礎となる国家条約(実質上講和条約と同じもの)をめぐる交渉は,1946年春,アメリカの国務長官バーンズJames Byrnesの提案に始まる。しかし,47年春モスクワで開かれたアメリカ,イギリス,フランス,ソ連の4国外相会議が失敗に終わったころから,米ソ二大陣営の対立が激化し,国家条約の成立は絶望視されるにいたっていた。このような事態が緩和されたのは,55年に本格化する〈雪どけ〉の到来によってである。マレンコフ,ブルガーニン両名の解任と時を同じくして,55年2月8日,ソ連の外相モロトフが,〈オーストリアがドイツと合邦を行わず,いかなる軍事同盟にも参加せず,領土内に他国の基地建設を許さないという保証をするならば,ドイツとの講和条約締結以前に占領軍を撤退させる〉旨声明して以来,急転直下事態は国家条約成立に向かった。オーストリア首相ラープJulius Raab以下のオーストリア使節団は,4月11日モスクワに到着して賠償問題を解決,5月2日から12日にかけてウィーンで開かれたアメリカ,イギリス,フランス,ソ連の4占領国の大使会議は国家条約の最終案を作成,5月15日,4国外相はウィーンのベルベデーレ宮殿〈大理石の間〉でこれに調印した。この国家条約は,第1次世界大戦後のオーストリアとの講和条約すなわちサン・ジェルマン条約と同じく,オーストリアとドイツとの〈合邦〉を禁止し,ここに,1938年3月から45年5月までドイツの一部であったオーストリアは,ドイツとはまったく別個の国家として独立した道を歩むべきことが最終的に決められたのである。同時に,この国家条約によって,ケルンテンに居住するスロベニア人,ブルゲンラントに居住するクロアチア人などの少数民族の言語が公用語として尊重されるべきことが明らかにされた。これらの少数民族の存在は〈諸民族の牢獄〉といわれたかつてのオーストリア・ハンガリー二重帝国の遺産であるが,現在のオーストリアが圧倒的に多数を占めるドイツ民族から成る国家である事実を変えるものではない。

 国家条約が4国とオーストリア国家とにより批准されたあと,オーストリア国会は,ラープらのモスクワ訪問の結果5月15日に発表された〈モスクワ覚書〉で約束したとおり,永世中立を宣言する憲法法規を可決した。オーストリアの中立化は,〈モスクワ覚書〉によってオーストリアがソ連に約束した義務であり,この憲法法規は,ソ連の同意がないかぎり,オーストリア1国だけの意志で変更または廃棄することはもはやできなかった。したがって,オーストリア国民は,中立違反の口実を与えやすい行為によって,ソ連から〈モスクワ覚書〉違反を指摘され,場合によってはソ連軍の再進駐を招くかもしれぬことを,極度に恐れていた。オーストリアがECへの加盟に踏み切らなかったのも,ひとつはこの不安からであった。オーストリアの中立は,多分に,ソ連の占領から逃れるための代償という色彩が濃い。また,オーストリアの,小国としての歴史も,第1次大戦後ドイツと切り離された1918年以来のものである。したがって,同じ中立の小国ではあっても,長い歴史と中立の決意とに支えられたスイスとは異なる。もっとも,小国でしかも中立というオーストリアの立場は,いかなる国にも侵略の脅威を感じさせないという点では,高く評価することができる。このようなオーストリアの長所・利点を最大限に生かして,国際政治の場でオーストリアに強い発言力を確保することに成功したのが,クライスキーであった。

1959年以来10年以上にわたって外相の地位にあり,オーストリアとイタリアとのあいだに介在する難問である南チロル問題の解決にあたるなど,外交上の手腕を評価されていたクライスキーBruno Kreisky(1911-90)が,SPÖの第一党への躍進により70年首相(このときは少数党内閣)の地位に就任したときから,オーストリアの外交に新しい一時代が訪れた。軍縮について主導権をとろうと努めていたスウェーデン,ヨーロッパ安全保障会議開催に意欲を示していたフィンランドという2中立国に比しても,積極性の点ではるかに劣っていた中立国オーストリアの外交が〈クライスキー時代〉の到来とともににわかに積極的なものに変わる。SPÖは70年の選挙公約に積極中立外交というスローガンをかかげたが,早くも71年5月には,クライスキーは中国承認に踏み切る。

 クライスキーは,オーストリアの裕福なユダヤ人の家庭に生まれたが,彼がとりわけ意欲を示したのは中東問題についてであり,しかもその際彼はユダヤ人の国家イスラエルに対して批判的な態度をとりつづけた。82年のイスラエルのレバノン進出を非難した彼は,イスラエル側から裏切者と呼ばれたほどである。彼は他の西側諸国に先駆けてPLO議長アラファトをウィーンに招いて,イスラエルによって故郷を追われたパレスティナ難民への理解を示し,PLOの国際的承認への道を開いた。アメリカに対しても,クライスキーは歯切れのよい批判を浴びせかけ,それでいながらレーガン大統領からもある程度の評価をかちとっていた。

 外交のみならず,内政においてもクライスキーは強力な指導者であった。とくに,社会党の党内における彼の指導力は抜群のものがある。この党のなかにはO.バウアーに代表されるオーストリア・マルクス主義の流れを汲む極左派が無視できぬ勢力を保っていた。しかしクライスキーは,この極左派をおさえこむことに成功し,党を左寄りの路線から中道路線に引き戻したうえで,党全体にワンマンとして君臨しつづけた。

 このようなクライスキーの引退を余儀なくさせ,〈クライスキー時代〉の幕を下ろすことになったのが83年4月24日の総選挙である。70年の第一党への躍進につづき71年から83年までの12年間にわたって,クライスキーのひきいるSPÖがつねに国会の過半数を占め,クライスキーを首相とするSPÖの単独内閣が維持されてきた。ところが,83年の総選挙で,SPÖは79年の95議席から90議席へと5議席を失った。SPÖの苦戦が予想されていたこの総選挙に勝利を収めることを目ざして,クライスキーは,自分の首相としての進退をこの総選挙の結果と結びつけるという危険な賭けに出た。すなわち,自分の政治手腕へのオーストリア国民の信頼はまだ失われていないと判断した彼は,SPÖがこの総選挙で従来どおりの絶対多数を獲得できない限り,首相の座にとどまらぬという意向を,総選挙の前に公表してしまったのである。この賭けは失敗に終わった。オーストリア経済の不振に対する国民の不安は,クライスキー個人への信頼よりも強かったのである。

 他方,野党第一党のÖVPは81議席と4議席を増やす躍進ぶりを示し,野党第二党であったFPÖは,票数では79年より減少したにもかかわらず,オーストリアの複雑な選挙制度のおかげで,1議席を増やし12議席を獲得した。選挙前の約束に縛られたクライスキーは,引退を表明せざるをえなくなり,政局はにわかに緊張する。SPÖとÖVPとの二大政党の連立,ÖVPとFPÖとの連立などさまざまな可能性が論議されたが,結局,赤と青との連立と呼ばれる,SPÖとFPÖとの連立が実現することになった。クライスキーの後任の首相にはブルゲンラント出身で1971年以来文相の地位にあったジノワッツFred Sinowatz(1929- )が選ばれた。FPÖとしては,結党以来長年の夢であった政権への参加が,突如として実現し,副首相兼商相として,党首シュテーガーNorbert Stegerともう1名が入閣することになった。しかしながら,自由主義経済の原則のうえに立つ同党と,社会主義政党としてのSPÖとの連立政権の前途には多くの困難が予想された。

 SPÖが絶対多数を割るにいたった原因としては,クライスキー個人に対する国民の不満よりは,むしろクライスキーのひきいる同党の経済政策,財政政策への国民の不安が決定的に作用したものと見られている。増大をつづける財政の赤字,同じく増えつづける租税負担に国民が不安を抱いたことが指摘されている。しかし,票のゆくえを分析した結果から見ると,SPÖの票を侵食したのは,対立する野党のÖVPではなく,当時の西ドイツの〈緑の党〉に相当する二つの組織,すなわち〈オーストリア緑の連合Vereinigte Grünen Österreichs(VGÖ)〉と〈オーストリア・オールタナティブ・リストAlternative Liste Österreichs(ALÖ)〉に同党支持層左派の票が流れたものと考えられる。ただし,総選挙前には両組織とも国会進出が確実と思われていたにもかかわらず,それぞれ1.93%,1.36%の得票にとどまり,いずれも国会進出を果たせずに終わった。〈オールタナティブ〉という用語は,現存の既成政党ならびに広くは現存の社会組織そのものとは別の,もうひとつの〈選択肢〉という意味をもっている。

86年6月の大統領選挙で,野党ÖVPの推すワルトハイム前国連事務総長が当選したため,SPÖのジノワッツ首相は辞任し,同党のフラニツキーが首相を引き継いだ。同年9月,連立相手のFPÖが新党首に国家主義者のハイダーを選んだため,フラニツキーはFPÖとの連立を解消し,総選挙を半年繰り上げて11月に実施した。選挙結果はSPÖが80(10減),ÖVPが77(4減),FPÖが18(6増),VGÖ/ALÖが8(8増)となり,フラニツキー首相のSPÖは辛うじて第一党の地位を保った。フラニツキー首相はÖVPとの連立を図り,87年1月,二大政党による大連立内閣が発足した。

 この大連立内閣では,フラニツキーは,ÖVP党首モックAlois Mockを副首相として内閣に迎え入れた。もともとフラニツキーは,選挙の後に辞任を申し出ていたが,大統領ワルトハイムKurt Waldhelm(1918- )から,オーストリアの戦後最初の内閣がそうであったような大連立内閣の路線を維持するように説得されて政権を担当する決意を固めたのである。しかし,前首相ジノワッツは,この大連立を,社会主義の理念への裏切りであるとして痛罵し,それまで首相辞任後もその任にとどまっていたSPÖ党首の地位を放棄した。90年の選挙ではSPÖは第一党の地位を維持したが,連立のパートナーのÖVPのほうは得票数でも議席数でも4分の1を失い,不振であった。ÖVPが失った分のほとんどを,FPÖが獲得した。フラニツキーは,これまでどおりの大連立政権を継続する。ところが,そのフラニツキーは,91年7月の下院での国会演説で,多くのオーストリア人が要職にある人々をも含めてヒトラーの第三帝国による弾圧,迫害に協力した事実を認め,大きな反響を呼び起こした。この衝撃的な演説の背景には,85年4月に,大統領候補で元外相,国連事務総長の要職を歴任したワルトハイムが,第2次世界大戦中に将校として従軍した際に,ユーゴスラビアでのナチによる犯罪行為に加担したのではないか,という疑惑が持ち上がった事件があった。オーストリアは戦後,独立国となり,第三帝国に合併されていたナチ統治下の時代については無関係という態度をとってきたが,ワルトハイム問題で,オーストリア国民が思い出したくない過去が,一時的にではあれ,ふたたび浮上し表面化したのである。

 フラニツキーの国会演説の翌月の91年8月,オーストリア国民が待望していたヨーロッパ連合(EU)へのオーストリアの加盟が承認され,加盟は95年1月に実現することになる。憲法法規によって,特にソ連に対して中立を約束したオーストリアは,ソ連から中立義務違反であると非難されることを恐れて,加盟申請には踏み切れないでいた。しかし,ベルリンの壁の崩壊に象徴された89年の国際政治の地殻変動が,オーストリアの加盟申請を可能にした。94年10月の選挙では,右翼政党の進出が目だち,FPÖは下院での議席を33から42へと増やした。他方で,SPÖは15議席を失った。大連合内閣は,この選挙の後も第4次フラニツキー内閣として維持されたが,95年10月,96年度の国家予算審議の途中で,同内閣は崩壊する。原因は,予算をめぐる二大政党間の意見の不一致であり,大連合政府のこの大きな危機は,国家財政の赤字の累積が表面化することによってもたらされたものであった。またこの危機は,EU加盟後の情勢に対する国民の失望の結果でもあった。(デニス・ダービーシャー,イアン・ダービーシャーの共著《世界の政治システムPolitical Systemsof the World》1996年版による)。

 95年10月13日に国会は解散され,12月に選挙が行われた。選挙の論点は,解散にいたる経過から当然,経済問題であり,外交問題,外国人流入問題などはその陰にかくれてしまった。このことは,外国人をオーストリアから排除せよと主張するハイダー党首にひきいられたFPÖには不利に作用した。

 12月17日の選挙の結果は,国民が政治的安定を望んでいる事実を明確にする。SPÖは71名を当選させ6議席を増やした。ÖVPは53名を当選させただけで,1議席を増やすにとどまった。SPÖの勝利は,FPÖと,とりわけ緑の党2党(VGÖとALÖ)の議席を奪うことによって可能になった。前者は2議席を減らして40議席,後者は4議席を減らして9議席となった。この他に,〈リベラレス・フォールムLiberales Forum〉という政党があり,1議席を減らして10議席となっている。下院の議席総数は183であり,そのなかで女性議員は49名であった。投票率は85.98%,各党の得票は,SPÖが38.8%,ÖVPが29.0%,FPÖが21.9%,〈リベラレス・フォールム〉が5.5%,〈緑の党〉に相当する2党が4.9%であった。選挙後,4ヵ月にわたる話し合いの結果,96年3月7日にSPÖとÖVPの両党のあいだで,ふたたび大連立内閣を発足させることで合意が成立した。こうして第5次フラニツキー内閣が発足した(〈国際議員連盟(IPU)〉の資料による)。

第2次世界大戦後,オーストリア経済は,戦争の荒廃から急速に立ち直った。これは,オーストリア国民の努力によるとともに,1945年から48年までの間に主としてイギリス,アメリカなど諸国から3億7900万ドルに上る援助が提供されたことと,48年1月から55年3月までつづけられた総額9億6200万ドルに上る,マーシャル・プランによる援助が与えられたことによるところが大きい。通貨の安定(1953年5月3日,1ドル=26.08シリングと決められた)も,オーストリア経済の発展を助けた。国家条約による経済の自主性回復は,オーストリア経済にブームをもたらした。このような経済の繁栄のうえに,社会保障の拡充がはかられ,高度の福祉国家が出現するにいたった。社会福祉関係の支出は,72年から78年まで,ほぼ一貫して国家財政の約1/4を占め,しかもその支出額は,国家財政の膨張に比例して膨張をつづけている。

 しかし,高度の福祉国家としてのこのような国家のあり方を維持することは,経済が不況に陥ったとき,きびしい試練にさらされる。83年4月の総選挙で,13年にわたったSPÖの単独政権が崩壊せざるをえなかった事実は,この試練のきびしさを如実に示すものである。クライスキー首相は,国家としての負債を増大させても,国民の働く職場を増大させるべきであり,また社会福祉を充実させるべきであるという立場をとり,公債発行高の激増,財政赤字の増加ということには,それほど抵抗を感じていなかったように思われる。けれども,オーストリア国民は,このような傾向に深刻な不安を抱いたようである。83年5月31日,クライスキーに代わった新首相ジノワッツは,最初の施政方針演説で,クライスキー時代の13年間に,財政の累積赤字が膨大な額に達するにいたった事実を,率直に認めざるをえなかった。今後のオーストリア財政の一つの重要な課題は,赤字の削減と社会福祉の維持・向上とを両立させてゆくことができるかどうかにある。社会福祉の重要な柱であるはずの年金に関しても,危険信号が発せられている。国家財政のなかで,年金保険は82年に3000億シリング以上の欠損が生じており,86年までには年5500億ないし6000億シリングの欠損が見込まれていたのである。年金のための掛金はヨーロッパのなかでも最も高い額に上っているので,これ以上掛金を引き上げることは不可能であり,国家財政の他の部門から穴埋めをするほかない。しかも,すべての基礎になる国家財政の改善は租税収入の増大なしでは不可能であろうと思われるにもかかわらず,租税収入の基礎となるはずの鉱工業の成長が79年ごろをピークとして頭打ちないしは低落傾向を示しているのである。このことを如実に物語るのが以下の事例である。

 かつて,ヒトラーが自分の生れ故郷のブラウナウに近いリンツに建設した製鋼所であるヘルマン・ゲーリング工場Hermann-Göring-Werkeは,戦後オーストリア統一製鋼工場VÖESTとして国有化され,オーストリアの産業のなかでもとくに中心的な位置を占めるにいたっている。合邦時代,ヒトラーがヘルマン・ゲーリング工場の例に見られるように,オーストリアの工業化に熱心だったことは,皮肉にも今日のオーストリアを世界有数の高度の技術をもつ工業国として繁栄させることに貢献してきた。しかし,まさしく高度工業国家としてのオーストリアの繁栄を支える基幹というべきこのVÖESTが,世界的な鉄鋼不況の直撃を受けて,目下経営の危機に直面させられているのである。そのことを具体的に物語るのは,VÖESTの傘下の各種の企業のなかでもとくに枢要な位置を占めるフェースト・アルピネ株式会社VÖEST-Alpine AGの生産の停滞である。78年以降生産量は,粗鋼が380万~420万t,圧延鋼が300万~335万tの間を推移し,79年をピークとして下降線をたどっている。

 他方で,インフレーションの進行は激しいものがあり,灯油,電気料金,ガス料金はいずれも1971-80年の10年間に2倍,石油は4倍という急カーブの値上りをつづけている。

 1990年代に入ると不況はさらに深刻化し,95年は財政危機が政権の危機を招いたという点で注目される年となった。ハンデルスリーゼン消費組合の倒産をはじめとして,オーストリアにおける倒産は空前の規模に達した。倒産した大小の企業の負債総額は620億シリングを記録し,前年の負債総額が345億シリングに対して,75%以上の増加であった。

 95年1月1日に実現したオーストリアのヨーロッパ連合EUへの加盟について,オーストリア国内では,加盟のもたらす経済的効果に対して,初めは過大な期待が寄せられたが,やがて冷たい現実への幻滅に変わった。期待された物価引下げの効果は,食料品部門にみられるにとどまった。

 このように,オーストリアの経済には,さまざまな難問題がつきまとっているけれども,EU諸国のなかでオーストリアの失業率が際立って低いという事実だけは特筆しておかなければならない。1997年春現在,オーストリアの失業率はルクセンブルク3.6%につぐ4.4%である。EU加盟の結果,自由市場原則の浸透によって,オーストリアの失業率も〈西欧化〉し,EUの平均の水準に近づいてゆくというマイナス効果も予想されるのかもしれない。しかしむしろ,オーストリアの経済と政治との課題は,伝統的社会的パートナーシップによって達成された社会と経済の安定と平和を維持しながら,EU加盟によって加速されるであろう〈西欧化〉を,社会と経済の活性化に役立ててゆく,ということであろう。

目下オーストリア国内で大きな社会問題となっているのは,他の先進工業諸国と同じように環境汚染の問題である。とくに,東チロルに建設されたツウェンテンドルフZwentendorf原子力発電所について,これを解体すべきかどうかということが,激しい論争をまきおこしている。この発電所の操業を開始すべきか否かについて,1978年11月5日に国民投票が行われた。最初,この問題についての国民の関心はあまり高くなかったが,投票の直前にクライスキー首相が,この投票の結果を自分の政治生命と結びつけて考える旨を示唆したために,にわかに国民の関心が高まった。クライスキーのひきいるSPÖは,操業開始を〈是〉とすることを国民に求めた。これに対し野党第一党のÖVPは,はっきり〈否〉と投票せよとは主張しなかったけれども,原子力発電によって生ずる廃棄物が環境汚染をひきおこさないかどうかという安全性の側面を重視すべきだという同党の立場は,むしろ〈否〉の投票を国民に促すものと受けとられた。野党第二党のFPÖは一貫して〈否〉を主張した。国民投票の結果はわずか3万票の差ではあるが同工場の操業に反対する票のほうが賛成の票を上回った。原子力発電促進を求めていたクライスキー政府は,この国民投票のあとでも,ツウェンテンドルフ問題についてはっきりした態度をとらなかった。ところが,83年の総選挙の結果,SPÖとFPÖとの連立政権が成立し,操業反対を主張しつづけてきたFPÖの党首シュテーガーが,ツウェンテンドルフ問題を管轄する商相の椅子に座ったことによって,この問題がにわかに先鋭化するにいたった。シュテーガーは予想されたとおり同工場の解体,スクラップ化に83年内にも着手する姿勢を見せていたが,これに対しては国内にかなり抵抗があった。

 処理の困難な廃棄物を生み出すのは原子力発電所には限らない。そして,廃棄物による環境汚染問題に対してFPÖ以上に激しい態度を示しているのは,〈オーストリア緑の連合〉である。この緑の党は83年の総選挙で国会に進出することには成功しなかったが,依然として活発な動きをつづけている。83年7月には,リンツで,リンツ化学会社Chemie-Linz AGがトリクロロフェニルの生産を続行することに対して激しい抗議運動を展開し〈1kgのダイオキシンで5000万の死者が出る〉などというスローガンを掲げた横断幕を張って気勢を示した。トリクロロフェニルの生産によって生ずる廃棄物ダイオキシンについては,ヨーロッパ全体を騒がせた北イタリアの化学工場の土地汚染によって住民移転を余儀なくされた76年の〈ソベソSoveso事件〉の例がある。リンツ化学会社に対しては,〈緑の連合〉だけでなく,リンツ市やオーバーエスタライヒ州政庁からも強い警告が発せられており,結局同工場は生産の一時停止に踏み切らざるをえなくなった。そして,〈リンツ化学会社〉自体,未曾有の経営危機に見舞われているありさまである。また,西ドイツでも大問題になっている酸性の雨による森林の樹木の枯死という現象では,オーストリアでも多くの論議をよび,83年6月末,オーストリア政府は,酸性の雨が自国の工業による大気汚染に基づく事実を認め,全国的な実態調査に乗り出す方針を決定した。酸性の雨の被害はすでに20万haに及んでいる。こうして,経済・社会の領域でも,オーストリアは,不況,インフレーション,環境汚染など,世界の最先端の工業国に共通する難問に悩まされているのである。

一般に教育水準は高く,大学については,多くの学部を有する総合大学が,ウィーン,グラーツ,インスブルック,ザルツブルク,リンツ,クラーゲンフルトの6校,単科大学としては,工科大学がウィーンとグラーツの2校,このほかに,レオーベン鉱山大学,ウィーン農業大学,ウィーン獣医大学,ウィーン経済大学の4校がある。さらに芸術に関する単科大学として,ウィーン造形美術大学,ウィーン応用美術大学,ウィーン音楽・表現美術大学,ザルツブルク音楽・表現美術大学(〈モーツアルト・ムゼウム〉),グラーツ音楽・表現美術大学,リンツ美術デザイン・工業デザイン大学の6校がある。総合と単科の一般の大学は,〈開かれた大学〉を目ざして発展を重ねている。〈開かれた大学〉とは,高校卒業資格さえあれば,入学者数を制限することをせずに志願者を全員受け入れ,しかも授業料は無料であるうえに,学習意欲のある者には各種の奨学金が豊富に提供されるといった大学のあり方を意味している。この点でドイツの大学のあり方と共通しているが,特定の学部学科に学生が殺到して悪い意味で大学が大衆化している点も共通している。ただし,オーストリアの大学もドイツの大学も,4年ぐらい在籍すれば卒業資格が与えられる,というのではなく,自分の目標とする何らかの資格を国家や州の試験に合格して獲得したとき,あるいは,学位を目ざす者は学位を獲得したときが,卒業ということになるので,日本の大学制度とはかなり異なっている。また,93年には大学の組織に関する連邦法が制定され,大学における教育と研究の評価を定期的に行い,その結果を公表することが義務付けられた。

 95年には,同学年の青年男女の3分の1をこえる,3万人以上が大学進学資格を獲得した。大学進学資格とは,高校卒業資格達成を意味し,マトゥラントと呼ばれる。95年から96年にかけての冬学期に入学手続きをしたオーストリア人の新入生(留学生を除く)の数は約2万0100名,同学年の青年男女の約22%である。従来の新入生の最高の記録は87年から88年にかけての1万9725名であったが,それを上回っている。このような進学者数の増加傾向は今後も続くものとみられる(《オーストリア年報》1995年版による)。
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オーストリアは,先史時代以来ヨーロッパの東西,そして南北交通路の要衝として,また塩,銅,鉄等の地下資源の豊富さと相まって,諸民族,諸種族の頻繁な来往と交替,そして混交が生じ,その結果きわめて多彩な文化潮流がオーストリアの社会生活を彩るにいたっている。その主軸をなす民族文化はゲルマン民族のバユバールBajuvar族であり,オーストリア西部のアレマン族,フランク族,南東部のスラブ族,そして先住民族のイリュリア人,ケルト人あるいはローマ人,この地を侵略したフン族,アバール族,マジャール人等の民族文化も入りまじり,現在ではキリスト教が支配宗教となっているが,異教的な諸文化も変貌しながら生活の微細な面にまで生き続け,オーストリアの民俗文化を多彩にしている。オーストリア民族文化は一つの複合文化であり,キリスト教文化圏の一環をなしているが,民俗文化レベルでみると異教文化との複合という様相が,たとえば年中行事のうちにも,はっきりと認められる。

 オーストリアの秋は短く,冬は早い。11月は冬月または風の月といって,急速に日も短くなり,木の葉も落ち,暗く厳しい冬の到来を知らせる。この月は古来人間や作物にとっての害敵,悪霊や死霊が跳梁し始める月と信じられていた。11月2日の万霊節Allerseelenは元来は異教的な魂祭であり,農民の間では今も9月30日から11月8日まで死者に供献する風習がある。12月は危険で不気味な神秘に包まれた月とされていた。いわゆるラウフネヒテRauchnächteのある時期であり,仮面仮装の異形が現れ,横行する。12月6日は聖ニコラスの日で,夕方になると白衣の聖者ニコラスと黒衣の悪鬼クランプスKrampusが各戸を訪問し,子どもを脅かし叱るクランプスと,それをなだめ子どもに菓子を与えるニコラスの風景が展開する。12月13日はルツィアLuziaの日で,魔女の夜といわれ,家屋敷を香煙で清める。12月21日はトマスの日で,この日から神秘的な十二夜Zwölften,すなわちラウフネヒテが始まる。この夕方,主人は使用人と〈福は内,鬼は外〉にあたる言葉を唱え聖水・香煙で部屋を清めて回る。チロルでは農民は,このあと果樹園に行き,果樹を〈生命の木〉であるモミの木でたたき,〈木よ目を覚ませ〉と唱える。28日は汚れなき子どもの日で,子どもたちはモミの枝木で若い人妻や娘,家畜をたたき回り,繁殖と成長を祝する。正月は6日の三王の日Dreikönigtag(公現祭)が最初の祭日となる。この前夜でラウフネヒテの時期は終わり,新年が始まる。この前夜はペルヒトPerchtの夜といわれ,ペルヒトは老婆で死霊群を連れて出現すると信じられていた。夜が明けると華やかなファッシングFasching(カーニバル)の季節となり,ウィーンでは毎晩仮面舞踏会が開催され,聖灰節Aschermittwochまで2ヵ月つづく。ザルツブルクでは正月14日に仮面仮装の異形,ペルヒトが現れ,女・子どもを脅かし,食物や小銭をもらって歩く。春の到来を告げる2月になると悪魔は退散する。2月2日は聖燭節,農村では若者が鞭を畑で振るい,その鋭い音で悪魔払いをする。仮面仮装の行列が現れたり,クリスマス・ツリーの枝が村の広場でせり売りされ,縁起をかつぐ。聖灰節の前夜ファッシンググラーベンの行事があり,藁人形を葬い行列で泉や川に運び,投げ込む。これでファッシングの季節は終わり,春を迎える斎の時期に入り復活祭までつづく。復活祭は,ちょうど彼岸から4月の上旬ころにあり,人々はネコヤナギの小枝をマリア像やイエス像に供える。6月に入ると夏至が来るが,オーストリアでは火焚き行事が行われ,人々は卵の殻に小さなろうそくをつけ,灯をともして川に流す。日本のお盆の精霊流しと似ている。それがすむと秋が来て,ブドウ酒の新酒(ホイリゲHeurige)ができ,農家や居酒屋の門先に,モミの枝葉の束をつけた棒が,新酒を飲ませる目印として突き出されるようになる。こうして,また冬が来るのである。

 首都ウィーンは人口の20%以上を占め,文化の面では,その比重はきわめて大きい。そして,農村の生活が古俗豊かで堅実,地味,朴とつであるのに比べて,ウィーンの典雅で華麗な雰囲気はまことに対照的である。その都市文化はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団や国立オペラ劇場,ブルク劇場あるいはフォルクスオペラ劇場,ウィーン少年合唱団の華やかな名声でもって最もよく象徴されるが,市民の生活を特徴づけるものはカフェカフェである。ウィーンはおそらくヨーロッパで一番の多い街である。市民にとってカフェは家の延長であり,そこで新聞を読み,手紙を書き,友と談論し,また商談も成立する。コーヒー1杯で何時間でもねばれるのである。ウィーン人によれば,コーヒーは〈ぬば玉の闇のごとく黒く,恋のごとく甘く,そして地獄のように熱く〉して飲まないといけないのだそうだ。この洗練した趣味感覚がオーストリアの生活文化に浸透して味わい深くしており,ドイツ文化の武骨なきちょうめんさとよい対照をなしている。人はときにそれをゲミュートリヒカイトGemütlichkeit(快さ)とよんで,ドイツ人のザッハリヒカイトSachlichkeit(きちょうめんさ)と対比している。これもこの国の多民族国家としての歴史に由来する独自な民族文化複合の所産とみてよいであろう。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オーストリア」の意味・わかりやすい解説

オーストリア
おーすとりあ
Austria

中央ヨーロッパの南東部にある共和国。「オーストリア」は英語による名称で、オーストリアではエスターライヒÖsterreichという。北をドイツ、チェコ、東をスロバキア、ハンガリー、南をイタリア、スロベニア、西をスイス、リヒテンシュタインと接する内陸国。面積8万3871平方キロメートル、人口803万2926(2001センサス)、人口密度は1平方キロメートル当り96人。首都はウィーン。国内は九つの州からなる。

 アルプス山脈が国土のおよそ3分の2を占める山国で、氷河や美しい湖が多く、またウィンタースポーツの条件も整っていて、スイスと同様に観光地、保養地が至る所にある。さらにウィーン、ザルツブルク、ブレゲンツはオペラや音楽祭でも知られている。15世紀から第一次世界大戦まではハプスブルグ家の公領、のちにオーストリア帝国となり、フランスに対峙(たいじ)してヨーロッパにおける覇権を唱え、1867年から1918年までオーストリア・ハンガリー帝国を形成した。第二次世界大戦後は、経済復興とともに工業国として発展し、民主的な内政と永世中立を背景とした外交によって、とくに東西冷戦時代の東西ヨーロッパの仲介役を果たしてきた。ウィーンは世界の政治、経済の中心の一つであり、国際原子力機関やヨーロッパ安全保障協力機構の事務局が置かれるなど、ジュネーブ、パリ、ニューヨークとともに国際都市として重要である。

[木内信藏・平川一臣]

自然

アルプスの山地が広範囲を占めるオーストリアのなかでも、チロール州、ザルツブルク州、ケルンテン州北西部はとくに山がちである。ここのアルプスの標高は高く、氷河を伴ったホーエ・タウエルン山群(東アルプスの最高峰のグロースグロックナー山、3797メートルがある)、エッツタール・アルプス、チラータール・アルプス、シュトゥバイ・アルプスなどの山群が連なり、オーストリアの屋根とよばれる。これらの山群は結晶片岩、花崗(かこう)岩などでできており、地質や地形の観点から中部アルプスとよばれる。この中部アルプスの北側にはドナウ川の支流であるイン川、ザルツァハ川、エンス川などの上流部が地質構造の影響を反映して直線的に東西方向に流れ、大きな谷が広がっている。これらの谷の北側に連なるのが石灰岩質の北アルプスで、荒々しい山稜が目だつ。石灰岩質の北アルプスは北へ向かってしだいに低くなり、アルプス前地とよばれる平野への境界近くには、ウォルフガング湖、アッター(カンマー)湖、モンド湖、トラウン湖などの美しい湖が連続する。これらの湖は、氷河時代に氷河が削り込んだ深い谷底に水をたたえているもので、切り立った氷河のU字谷とあわせて典型的なアルプスの自然景観を生み出している。アルプスの地形景観は、中部アルプスの南側でも地質構造の影響を強く受け、ドラウ川(ドラバ川)の広い谷が東西方向に延び、さらにその南側には石灰岩質の南アルプスが連なっている。アルプス北麓よりさらに北側のチェコ国境付近では、標高500~900メートルほどの丘陵性の山地が波打つようにゆったりと広がる。このような景観は場所によってはドナウ川より南まで達している。ここは、ボヘミア山地の南縁にあたり、アルプスよりも古い時代(古生代)の造山運動によって生じた。首都ウィーンの位置する北東部はオーストリアでもっとも標高が低く、ノイジードラー湖周辺はプスタとよばれる温帯性の長茎草原で、ハンガリー平原の自然環境に含まれる。また、ドナウ川より北側の丘陵地帯はブドウ栽培地域でワインフィアテル(地域)として知られる独特の自然・土地利用景観をみせる。

 オーストリアは気候的には、西ヨーロッパの海洋性から東ヨーロッパの内陸性への漸移帯にあたる。北西部のとくにアルプス北側では、大西洋の影響を受けて冬も比較的温和で、年間を通して降水がある。東ほど降水量は減少し、たとえば、ザルツブルク付近までは年間1300ミリメートル以上、場所によっては2000ミリメートルに達するが、ウィーンでは600~700ミリメートルになる。さらに南東部ではいっそう乾燥化し、夏は非常に暑く、冬は寒冷である。オーストリアの気候はアルプスによって大きな影響を受ける。たとえば、イン川上流部の谷は雨陰(レイン・シャドー。湿った風が山にぶつかって雨を降らせ、山を越えるときは乾いた風となる現象)となるため、周辺の山地では2000ミリメートル以上に達するにもかかわらず、年間降水量は600ミリメートル程度にすぎない。アルプスの気候で特徴的なのは、気温の逆転現象である。とくに冬には冷気が流入する谷底や盆地では著しく低温になり、山地のほうが高い。また、春と秋にとくに顕著な、急激な気温上昇で知られるフェーンもアルプスの気候の特色である。フェーンは、アルプスの北方を低気圧が通過し、暖かい気流が南からアルプスを越えるときに生じ、融雪洪水や雪崩(なだれ)を引き起こす。イン谷はフェーンが頻発することで有名であり、インスブルックでは、フェーンの発生が年間104日に達したこともある。アルプス山脈が西から東へ低下するにつれて、植生も土地利用も居住高度限界も低下する。森林限界は西部では2200メートル、東部では1700~1800メートルである。南北方向でも、降水の多いアルプス北縁ではブナとその混合林(標高1000メートル以下)およびトウヒを主とする針葉樹林(1000メートル以高)が広がるのに対し、南部は地中海性気候の影響を受けて赤ブナが森林限界まで分布するところもある。東部の低地では、アルプスの植生とはまったく違うステップ(温帯草原)植生が現れる。

[木内信藏・平川一臣]

地誌

オーストリアの西部を占めるザルツブルク、チロール、フォアアールベルクの3州は、スイスから延びるアルプス山脈のなかにある。ザルツブルク州は、岩塩とグロックナー・カブルン水力発電所で知られ、温泉に富む保養地でもある。州都のザルツブルク市(人口約14万)は、ホーエンザルツブルク城と音楽祭とモーツァルトの生誕地で有名である。チロール州はウィンタースポーツのメッカであり、民家や自然の美しい観光地が多い。州都インスブルック(人口約11万)は、ウィーンとスイスを結ぶ東西交通路と、ブレンナー峠を越えてドイツとイタリアを結ぶ十字路にあたり、歴史的記念物に富む。オーストリアの最西部を占めるフォアアールベルク州は、観光で栄えるとともに水源地帯をなしており、繊維工業が盛んである。ボーデン湖に臨む州都ブレゲンツ(人口約3万)も音楽祭で知られる。

 オーバーエスターライヒ州の南部は、アルプス山脈にかかり、美しい湖沼が点在する景勝の地である。ドナウ川を挟んだ北部は、ボヘミアの森の南端がチェコとの国境をなしている。州都リンツ(人口約18万)はドナウ河畔の河港都市で、鉄鋼業、化学工業が発達している。

 ブルゲンラント、シュタイアーマルク、ケルンテン、ニーダーエスターライヒの4州はともに同国の農林業地域をなしている。ハンガリーとの国境に沿って南北に長いブルゲンラント州は、小麦、トウモロコシ、野菜、果実を豊富に産する。作曲家ヨーゼフ・ハイドンの活躍した州都アイゼンシュタットには彼の墓地がある。シュタイアーマルク州は林業が盛んである一方、エルツベルクの鉄鉱石やマグネサイトを原料とする製鉄業、機械工業、紙およびセルロースなどの工業が立地する。州都グラーツは人口約23万の同国第二の都市で、商工業の中心地である。ケルンテン州の西部はアルプス地域に含まれ、山地と湖水に富み、州都クラーゲンフルト(人口約9万)では国際材木見本市が開かれる林業州である。鉛、亜鉛、マグネサイトも産出する。首都ウィーン(人口約156万)には全国人口の19%が集中しており、ニーダーエスターライヒ州とともに工業が盛んである。ウィーン盆地北部には、天然ガスおよび石油資源があり、ドナウ川とその支流からの電力の供給も多い。

[木内信藏・平川一臣]

歴史

オーストリアの古代

ここは先史時代を通して交通の要地であり、諸民族の動きも激しかった。初期鉄器時代、紀元前8世紀ごろからハルシュタット文化の中心となり、定着したケルト人のなかから前2世紀にはノリクム王国も生まれた。紀元前後にはローマ人もドナウ南岸に達し、ノリクムを属州に加え、遅れてウィンドボナを建設する。南下していたゲルマン人も1世紀にはこの地方に進出し、ローマ帝国はその応対に苦慮しながら4世紀にはキリスト教を広げる。フン人の西進により5世紀にはアッティラの支配(435~453)を受けたが、その死後は、ゲルマン諸部族の再編と自立化が進む。しかし東方からスラブ人を伴ってアバール人が進出してきた5世紀末には、ローマ人もここから引き揚げる。

[進藤牧郎]

オストマルクの成立

西方にあって5世紀後半以来王国を形成したフランク人は、6世紀にはローマ教会と結び、しだいに南東方へも進出し、カロリング朝カール大帝(在位768~814)のもとで8世紀末バイエルンを服属させ、さらに東進して791~796年アバール人を壊滅させ、ここに初めてオストマルクを設置する。9世紀末以来西進を始めたマジャール人は10世紀に入ってここにも進出し、カロリング朝断絶後の東フランク王国を引き継いだザクセン朝オットー1世(在位936~973)は、955年マジャール人を撃破し、ようやくオストマルクを再建し、962年神聖ローマ帝国が生まれたのである。

[進藤牧郎]

バーベンベルク家の支配

従弟(いとこ)のバイエルン公と争って皇帝となったオットー2世(在位961~983)は、976年バイエルンからオストマルクを切り離して辺境伯領としバーベンベルク家に授封する。歴代の君主たちは、東方植民を進めて経済の発展を図り、叙任権をめぐる皇帝と教皇の争いを利用して世襲を慣行化し、シュタウフェン家とウェルフ家の争いに際しても、皇帝フリードリヒ1世(在位1152~1190)から1156年世襲の公領への昇格を獲得し、領域内の裁判権を認められる。1192年にはシュタイアーマルク公領をもあわせ、さらに南東方に家領を拡大したが、1246年ハンガリーとの戦いに、最後の君主フリードリヒ2世(在位1230~1246)は戦死し、オーストリアは空位時代(1246~1273)を迎えることになった。

[進藤牧郎]

ハプスブルク家支配の成立

ねらわれたオーストリアは隣接諸侯の武力介入を招いたが、オーストリア貴族に招かれたボヘミア(ベーメン)王オトカル2世Přemysl Ottokar Ⅱは、1251年ウィーンを占領し、アドリア海にまで進出して東欧に強大な勢力を築き、1256年に始まるドイツの大空位時代(1256~1273)もあって皇帝位を求めるに至った。これに反対してドイツ諸侯は1273年、エルザスとスイスに基盤をもつハプスブルク伯ルドルフを皇帝に選ぶ。皇帝ルドルフ1世(在位1273~1291)は帝国領の返還を求め、拒否したオトカルを1278年敗死させ、オーストリアを家領として確保したのである。しかし諸侯は、強大になったハプスブルク家に継続的に皇帝位を与えなかった。1291年以来、とくに14世紀には長い間のスイス独立戦争に苦しむとともに、カール4世(在位1347~1378)のもとで繁栄したルクセンブルク家とも対立し、1356年の金印勅書でも七選帝侯から排除され、この王朝がフス戦争(1419~1436)によって断絶してのち、ようやく1438年アルプレヒト2世(在位1438~1439)以後、ハプスブルク家は皇帝位を独占することになり、オーストリアは1453年、大公領に昇格する。

[進藤牧郎]

結婚政策と世界帝国の成立

ハプスブルク家にとって諸子分割相続の伝統は、一方に結婚政策による家領の拡大を可能にしたが、他方では家領の分割と継承争いを生み、統一的国家への道を妨げる。1477年ブルグント公女と結婚した皇帝マクシミリアン1世(在位1493~1519)は、1495年ドイツ帝国の改革を図るが挫折(ざせつ)する。1496年にはその子フィリップがスペイン王女と結び、1515年にはその孫フェルディナントがボヘミア・ハンガリー王女と結ぶ。この結婚政策はフランスとの対立を恒常化し、これと結んだトルコの進出を導き、ハプスブルク家は東西からの圧迫に苦しむことになる。しかしフィリップの長子カール5世(在位1519~1556)が、フランス王との争いに勝って、1519年皇帝に選ばれると、ハプスブルク世界帝国が出現する。

[進藤牧郎]

宗教改革とオーストリア

1517年を画期に激化した宗教改革の嵐(あらし)のなかで、1519年実現された世界帝国も、1521年スペイン系とオーストリア系に分割され、オーストリアのフェルディナント1世(在位1556~1564)は農民戦争にも直面する。トルコの北上にハンガリー王ラヨシュ2世(在位1516~1526)が、1526年モハーチに敗死すると、ボヘミア・ハンガリー王を相続する。しかし1529年にはウィーンを包囲されてかろうじて撃退し、1531年ドイツ王になるが、ハンガリーではわずかに北西部を支配したにすぎない。1555年のアウクスブルクの和議ののち、1556年カール5世から皇帝位を受け継ぐが、宗教争乱にはあまり干渉できなかった。ハプスブルク家の内紛ののち、フェルディナント2世(神聖ローマ皇帝、在位1619~1637)が1617年ボヘミア王となり、反宗教改革を強行すると、1618年、三十年戦争(1618~1648)が勃発(ぼっぱつ)する。

[進藤牧郎]

封建反動と啓蒙専制主義

三十年戦争は単なる宗教戦争ではなく、資本主義誕生の胎動でもあり、チェコ民族主義の動きでもあった。列国の干渉のなかでオーストリアの君主たちは、反宗教改革を通して再版農奴制を確立し、西方ではイギリスと結んでルイ14世の侵略を防ぎ、東方では1683年トルコによるウィーン包囲から反撃に転じてハンガリー全土を確保する。権力の集中を図り、家領の統合を試み、産業育成、農民保護に努めるが、スペイン継承戦争では海外への進出をあきらめ、スペイン王位を放棄してネーデルラントとイタリアに領土を得る。オーストリア継承戦争(1740~1748)ではプロイセンにシュレージエン(シレジア)を奪われたが、ようやく家領不分割のためのプラグマティッシェ・ザンクツィオンを認められ、マリア・テレジア(在位1740~1780)への相続を確保する。1756年フランスとの同盟に成功したが、七年戦争(1756~1763)でもシュレージエンを回復できず、かえってハンガリー貴族と妥協し、東方においてロシアの進出とドイツにおけるプロイセンの勃興(ぼっこう)を許すことになった。戦中戦後の復興のために行財政を中心に改革を進め、ヨーゼフ2世(在位1765~1790)のもとで1781年農奴解放令と寛容令となる。しかし1789年フランス革命の勃発、1790年ヨーゼフの死によって、この啓蒙(けいもう)的な改革政策も急激であっただけに、反動化のなかに挫折(ざせつ)する。

[進藤牧郎]

ナポレオン戦争とメッテルニヒ体制

ナポレオンの登場に直面したハプスブルク家は、家領維持のために、ナポレオンの戴冠(たいかん)に先だって1804年オーストリア皇帝を称し、アウステルリッツに惨敗した翌1805年、中世以来の神聖ローマ帝国を解体し、その皇帝を辞した。メッテルニヒは、1810年皇女マリ・ルイーズとナポレオンの結婚による宥和(ゆうわ)政策をとるが、その没落に際しては巧みに解放戦争の主導権を握り、ウィーン会議(1814~1815)を主催し、復古、正統、連帯を基調に反動体制を国内的にも国際的にも確立し、自由の動きを弾圧する。

[進藤牧郎]

三月革命と反革命の勝利

この反動体制のもとでも産業の発展につれて市民層の力も強まる。1848年フランスの二月革命からウィーンなど各地に三月革命が起こり、メッテルニヒは亡命する。革命の表面に下層市民が現れるにつれ、産業市民層は後退し、10月末には反革命の勝利に終わり、1851年以降新絶対主義バッハ体制となった。革命後は農民解放を定着させつつ、産業の近代化を進めたので産業革命も展開し、資本主義の発展もみられた。家領の基盤を東中欧に置いたためオーストリアは典型的な多民族国家となり、革命は諸民族自立の運動を顕在化させた。ハンガリー土地貴族による独立運動はロシアの軍隊の援助により1849年鎮圧されたが、チェコのオーストリア・スラブ主義はスラブ諸民族に影響を与え、クリミア戦争における外交的失敗と孤立化のなかで、イタリアの運動は、1859年独立戦争にまで高まり、その敗戦によってバッハ体制は崩壊する。

[進藤牧郎]

二重王国とその崩壊

危機に直面したオーストリアは諸民族の要求を加味して、1860年連邦主義的な十月勅書Oktoberdiplomを、さらに1861年には二院制議会を認める二月憲法February-Patentを発布し、ブルジョア的権力の強化を図るが、1866年プロイセン・オーストリア戦争に完敗し、ハンガリー土地貴族と結び、その王国を認めて、1867年オーストリア・ハンガリー二重王国を成立させた。この路線は、反発するスラブ諸民族の要求を抑え、1873年恐慌を経て、1879年ドイツ・オーストリア同盟に至る。しかし民族主義の高まり、加えて労働運動の成長に、この年「すべての民族、政党を代表する皇帝の内閣」が成立すると、このもとでドイツ人とチェコ人の民族的対立を緩和するため、ボヘミアでは言語令Sprachenverordnungが繰り返されるが、かえって対立が日常生活にまで持ち込まれて激化し、1888年に結成された社会民主党は、1907年普通選挙制を獲得したにもかかわらず、1909年には民族別に分裂し、民族主義の高揚に巻き込まれる。帝国主義的バルカンへの進出は、汎(はん)スラブ主義と対立し、1914年サライエボ事件を契機に第一次世界大戦に突入する。

[進藤牧郎]

二つの大戦と戦後

第一次世界大戦はこの帝国を解体し、1918年社会民主党の主導で共和国となり、国民議会決議にも「ドイツ系オーストリアはドイツ共和国の一構成分子」と明記されたが、この合併(アンシュルス)は戦勝国に認められず、もっとも産業的なボヘミアを失い、戦後経済の混乱、さらには1929年の大恐慌もあってキリスト教社会党が台頭し、1932年成立のドルフース内閣は、社共とともに合併を叫ぶナチスをも弾圧した。多くのドイツ民族主義者たちはナチスに走り、ヒトラー・ドイツの台頭の前に1938年ドイツ・オーストリア合邦となり、翌1939年第二次世界大戦に加わるのであった。ナチス・ドイツの敗北のなかで、1945年3月ウィーンはソ連によって解放されたが、戦後は米英仏ソの四国占領下に、経済再建のためマーシャル・プランを受け入れ、260回を超える四国会議を経て、ようやく1955年オーストリア国家条約が調印され、自由な永世中立国として主権が回復され、現在に至る。

[進藤牧郎]

政治

立憲制に基づく民主主義の連邦共和国で、三権分立の基礎のうえにたっている。憲法は1920年に制定されたものである。大統領は国民の直接選挙によって選ばれ、共和国を代表し、首相を任命し、首相の提言によって閣僚を任命し、国民議会の招集・解散を行う。大統領は3選以上を禁止され、また憲法裁判所の弾劾を受け、国民投票によって罷免されうる。

 国会は二院制で、上院(連邦議会)と下院(国民議会)からなる。国民議会は4年任期の議員よりなり、比例代表制によって国民から選出される。定員183名で、政党は社会民主党、国民党、自由党、緑の党などがある。社会民主党は第二次世界大戦前の社会民主労働者党の後身、国民党は戦前のカトリック的保守党の流れをくむ。1986年以降この2党で連立政権が確立されてきた。しかし1999年の国民議会選挙で、右翼保守的・国粋主義的な自由党とその分派であるリベラルフォーラム、さらには緑の党が勢力を伸ばした。翌2000年国民党と自由党の連立政権が誕生したが、2002年9月にはこの連立政権は解体、同年11月総選挙が行われ国民党が第一党、社会民主党が第二党となり、自由党と緑の党がそれに続いた。そして、国民党はふたたび自由党と連立を組んだ。2006年10月の国民議会選挙では、社会民主党が第一党となり、国民党は第二党となったが、翌年1月に社会民主党と国民党の連立政権が成立した。しかし、この政権は分裂し、7月には議会が解散、9月に選挙が行われた。この選挙で社会民主党と国民党はともに議席を減らしたが、第一党と第二党であることはかわらず、一方、右翼の自由党と、そこから分かれたオーストリア未来同盟は議席数を増やしている。選挙後、社会民主党と国民党の連立が新たにまとまり、連立政権が発足した。

 連邦議会は、九つの州から、人口数に比例して各地方議会により選出され、定員は64名である。上下両院とも法案提出権をもち、法案は両院を通過しなければならないが、両院の意見が一致しない場合には国民議会が優先する。宣戦布告など重大案件の決定には、両院議員で構成される連邦会議が招集される。また憲法改正には国民投票が必要である。内閣は、首相、副首相ほか閣僚を選び、大統領の任命を受けて国務を執行する。

 オーストリア国民は基本的権利と自由の権利とをもっている。その基礎は1867年の国家基本法に始まるが、第二次共和国の立法(1948)によって定められた。性、出生、人種、言語、身分、階級、信仰などによる差別は認められず、言論、集会、結社は法の限界内で自由である。ウィーンを含む九つの州は歴史的に自治権をもっており、住民によって選出された州議会があって、議会によって選ばれた州長官が行政を執行する。司法権は連邦に属しており、4階級に分かれた通常裁判所が設けられている。そのほかに憲法裁判所と行政裁判所があり、違憲の審査と行政権の監督にあたっている。

 外交の基本は、すべての国々との平和共存を求める永世中立の堅持である。第二次世界大戦後の1955年5月、占領国のアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国とオーストリアとによって締結された「オーストリア国家条約」によって、主権・独立を回復し、ドイツとの合併やナチズムおよび軍国主義を禁止し、人権尊重を誓約した。国民議会は1955年10月26日に「永世中立に関する法律」を採択し、「自らの意志によって永世中立を守り、いかなる軍事同盟にも加入せず、また領土内に外国基地を設置させない」ことを宣言した。この宣言に基づき、政府および国民は東西の隣接国と友好を進め、国際連合の任務に協力している。国連の事務総長としてワルトハイム博士が就任(1972~1981)するなど、事務局に人を出し、また国連軍に監視部隊や救護班を送ることなどを積極的に行っている。こうした状況のなかでウィーンでは、1979年ドナウ川左岸に国連センターが完成し、ニューヨーク、ジュネーブに次いで多くの国連機関の置かれる第三の都市となった。そこには国際原子力機関、国連工業開発機関などの複数の国連下部機関の本部が置かれている。また同施設に隣接して大規模な国際会議場もある。

 1980年代末から、東欧改革やドイツ統一などヨーロッパにおいて新しい地域秩序が形成される中で、オーストリアはEU(ヨーロッパ連合)加盟への道を進むこととなった。1994年4月にEUへの加盟が認められ、同年6月の国民投票では66%の賛成により国民の承認を得て、翌年1月に中立を条件にEUに正式加盟した。2002年には、シリングにかわってEUの統一通貨ユーロを導入している。また、北大西洋条約機構(NATO)には加盟していないが、「平和のためのパートナーシップ」は調印、NATOと協力関係にある。

 国家の防衛と安全のために、オーストリア連邦軍が組織されている。最高指揮権は大統領がもち、実際の指令は国防大臣から発せられる。国民皆兵で、18歳以上50歳までの男性は6か月の兵役義務がある。良心的理由による兵役拒否者には、非軍事勤務に服することができる兵役代替服務法が設けられている。

[木内信藏・呉羽正昭]

経済・産業

第二次世界大戦によって大きな被害を受け、戦後は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連による分割占領と、ソ連による生産設備の撤去、東西陣営の対立があって、復興が遅れた。1949年からマーシャル・プランによるヨーロッパ復興資金の援助を受け、1955年の独立以降は急速に立ち直り、1950年代は年平均6%に達する経済成長率を示して、経済構造の高度化をみた。1994年には国内総生産1965億米ドル、国民1人当りでは2万4476米ドルに達し、後者はヨーロッパのなかでも上位に位置する。その原動力は、旧ドイツ資産の返還による工業の国営化、技術革新、輸出努力であり、それらを支持してきたのは国内の資源とエネルギーの供給、安定した政治、社会条件にある。

 経済体制は資本主義をとる一方、基幹産業の国営化が進められてきた。しかし、企業経営が柔軟性を欠き、経営の構造転換が図られなかったため、1970年代の石油危機とともに国営企業の経営が悪化した。このため、政府は株式市場へ国営企業の株式を放出することで、また企業を売却することで民営化を進めた。1994年にVAテクノロジー(機械)とOMV(石油など)が民営化の先陣を切っている。民営化をさらに推進するためにオーストリア産業持株会社(新ÖIAG)が、政府所有株式を信託管理し、持株比率を下げて民営化を推進している。

 国内総生産に占める割合は、第一次産業が2.4%、第二次産業が29.8%、第三次産業が67.8%である(1999)。産業人口別の構成では、1951年には第一次産業22%、第二次産業36%、第三次産業24%、その他18%であったが、1993年には、第一次産業6.8%、第二次産業35.1%、第三次産業57.6%となり、農業が激減して商業、サービス業が増加した。

 全国の雇用者合計は314万8200(2001)で、そのうち外国人労働者が32万9300人を占める。オーストリアへの外国人労働者の流入は、ドイツ、スイスなどに比べて少数であったが、1989年以降、東欧改革の進行とともに外国人労働者の数は2倍になった。出身地は旧ユーゴスラビア地域がもっとも多く(16万1852人、ただしスロベニアを除く)、次がトルコ(5万6902人)である。

 失業率は、1970~1980年にかけて2%台を維持、1982年以降は増加に転じ、1990年以降は6%前後を推移し、2001年には6.1%となっている。オーストリアの実質経済成長率は、1960年までは毎年6%程度であったが、その後減少し、1975年にはマイナス1.7%まで落ちた。その後、一時回復したが、1984~1994年までの平均は2.6%であった。2000年に3.3%の成長となったが、2001年には1.3%と落ち着いた。農林業を含む国民総生産の地域的分配は、ウィーン(29%)をはじめ国土の東半諸州に約7割が集まっている。

[木内信藏・呉羽正昭]

農林業

国土の18%(約150万ヘクタール)が耕地として、24%(200万ヘクタール)が草地として利用されている(1993)。農家数は約27万戸に達し、その半数以上は兼業からの収入が多い第2種兼業農家であり、また農家の大部分は小規模経営である。農業の主体は、畜産と穀物生産にある。1993年の国内の農業生産額はおよそ637億シリングで、そのうち69%を畜産が占める。

 おもな畑作物は、大麦、小麦、トウモロコシ、ビート、ジャガイモで、これらは国内の需要をほとんどまかなっている。またキャベツを中心とした野菜や、リンゴ、洋ナシ、ブドウなどの果実の生産も多いが、それらは輸入量も多い。ブドウは、おもに白ワインに醸造される。畜産物では、ブタ、ウシ、ヒツジ、ニワトリが主である。

 オーストリア国内では農業の地域差が大きい。東部の低平地帯は一大農業地域で、穀物、果実および野菜栽培のほとんどが集中し、規模も比較的大きい。また丘陵地での白ワインの生産も盛んである。一方、西部諸州の農業は山地農業で、条件が悪いため畜産の小規模経営が多いが、それも衰退傾向にある。森林限界より上部の牧場(アルム)は、アルプスを代表する景観であり、観光業にとってもまた国土保全にも重要な役割を果たしている。その景観維持のためにさまざまな農業助成措置がなされている。

 国土の約47%にあたる390万ヘクタールが林地である。森林の76%が針葉樹林で、トウヒがもっとも多く、次いでカラマツ、モミである。近年では年間約1500万立方メートル程度の森林伐採が行われたが、行政による森林保護のプログラムが進められている。林業生産物である原木およびその加工品は輸出量も多く、重要な産業となっている。林業は各州にわたって行われているが、森林面積が大きいシュタイアーマルク州やニーダーエスターライヒ州でとくに盛んである。

 1999年の時点で、全就労人口の5%が農林業に従事し、農地面積の約10%で有機農法が行われている。環境問題への意識が高く、国は森林保全をはじめ環境保護のために国民総生産の約3%を投資している。

[木内信藏・呉羽正昭]

鉱業・エネルギー

オーストリアの工業を支える各種のエネルギー資源は1日約2800×1012ジュールであるが、その3分の2は輸入し、3分の1を自国で生産している。輸入のおもなものは石油と天然ガスであるが、石油の12%と天然ガスの20%が国産である。水力発電は年々開発が進み、総エネルギーの約16%を占めるに至った。それらによって、年々増大するエネルギー需要と石油価格の上昇を緩和している。油田および天然ガス田はいずれもウィーン盆地にあり、未開発の鉱脈も確認されている。主要水力発電所はドナウ、エンス、イル、ドラウ、インなどの諸河川に建設されている。

 鉱業事業所は93、従業者は4437人で、いずれも減少しているが、出荷価格は65億シリング(1994)で、1990年の93億シリングから減少を続けている。おもな金属資源は鉄鉱石およびマグネシウムなどを産し、非金属では石膏(せっこう)、滑石、陶土、塩、大理石、ドロマイト(苦灰岩(くかいがん))、石英などがある。鉄鋼業の原料として、年約400万トンの鉄鉱石が輸入され、クロム鉱、鉛鉱、ボーキサイトなども輸入している。エルツベルクなどから採掘される国内の鉄鉱石は、鉄分含有量26%、埋蔵量26億トン程度である。

[木内信藏・呉羽正昭]

工業

製造工業の就業者数は61万3900(2001)となっている。オーストリアの工業は高い評価を得ている。製造工業は28業種にわたり、製鉄、機械、化学、自動車などの重工業や、窯業、繊維、食品加工などの軽工業が盛んである。重工業は鉄鉱石、電力などの資源に基礎を置き、石油、天然ガス、一部の原料を海外から輸入し、国営工業として第二次世界大戦後に発達をみた。しかし、1990年代に入り、諸々の社会的、経済的条件の変化とともに国営企業の民営化が進められている。中規模の企業が多く、プラント建設や電子工学などが重要視されている。

 オーストリアには国際的な大企業は存在しない。国内には石油、鉄鋼、化学、電子・電気、機械、自動車などの大企業がある。石油関連の化学工業を中心としたコンツェルンOMV社(オーストリア石油管理会社)は、雇用者1万1000人、売上高は680億シリングに達し、国営企業であったが、民営化が進んでいる。これに鉄鋼関連企業のウェースト・アルピーネ社が売上高381億シリングで続く。ドイツ・ジーメンス社の子会社、オーストリア・ジーメンス社は売上高332億シリング、半導体を中心に製造している。このほかドイツの自動車関連企業であるBMWや電機のフィリップスなどの子会社も大規模である(1994)。この他の代表的な大企業としては、BAホールディング、テレコム・オーストリアがある。

 重化学工業に対して、中小規模の軽工業が各地に発達しており、国民生活や観光に役だっている。製粉、精糖、醸造をはじめ、肉加工、製パン、製菓などの食料品の製造業は、ウィーンなどの都市周辺や交通の要地に立地している。手工業も発達しており、陶磁器、ガラス工業などは有名。繊維工業は大消費地であるウィーン郊外に綿紡工場が立地し、国内西部の山麓地帯には婦人の労働力による麻紡、織物、刺しゅうなどの工場が分布している。

[木内信藏・呉羽正昭]

商業・金融・貿易

ほかの先進国と同様に第三次産業は著しく発展している。卸売・小売業、飲食業、ホテル業には71万人の従業者がある。卸売・小売業は、その業者数、従業員数および売上高ともにウィーンに著しく集中している。飲食業とホテル業は観光産業の重要な部門であり、チロール州が事業所数、従業員数ともにもっとも多い。サービス業の従業員数は全国で88万人にも達する。

 かつての二大銀行、クレディット・アンシュタルトとレンダーバンク(現バンク・オーストリア)はともに国営銀行であったが、ここでも民営化が推進されつつある。ほかに特殊な銀行として、郵便貯蓄銀行もあり、郵便局を通じて運営されている。全国の銀行数は1053で、支店、営業所などの数は5736店に達する(1994)。ウィーン証券取引所は、マリア・テレジアの時代(1771)に創設された古い起源のものである。

 貿易の総額は輸出5125億シリング、輸入6289億シリング(1994)であって、過去長期間輸入超過が続いている。品目別にみると、輸入額の多いものは自動車を中心とした機械・輸送機器、加工品、化学製品、食料品(野菜・果実)、石油で代表される燃料・エネルギー、鉱石などの原材料、衣料品などである。一方輸出額の多いものは産業・電気機械などの機械・輸送機器類、鉄鋼・紙などの加工品、化学製品、木材などの原材料となっている。またスキー用品の輸出も多い。貿易相手国は、ドイツが輸出入ともにもっとも多く、ついでイタリア、スイス、フランスなどとなる。また、地域別にみると、EU(ヨーロッパ連合)が輸出の63%、輸入の66%を占めており、EFTA(エフタ)(ヨーロッパ自由貿易連合)が輸出の9%、輸入の7%、旧ソ連・東欧は輸出の15%、輸入の10%となっている。日本は輸入国の第5位に位置する(1994)。

[木内信藏・呉羽正昭]

観光業

芸術と歴史の都ウィーン、アルプスの山岳、湖沼の景観やスキー場を目ざし多数の観光客が訪れ、1970年代半ばには1年間の宿泊数合計は約1億2000万泊に達した。しかしその後は停滞傾向が続き1995年には1億1171万泊(2007年現在で1億2140万泊)である。州別、季節別にみると、東部に比べチロール州やザルツブルク州のある西部で宿泊客が多く、東部では夏季観光の、西部では冬季観光の占める割合が高い。全宿泊客の約7割は外国人で、もっとも多いのはドイツ人、次いでオランダ人となる。外国からの観光客の割合は、西部とウィーンで9割程度に達する。アルプスの山村地域では多くの農家が民宿を経営するが、近年ではその規模拡大や、宿泊業の専門化が目だつ。全国で宿泊施設の改善が進んでおり、トイレとバスが備わった部屋が一般化してきた。さらに台所を備えた部屋も増加している。観光業による外貨収入は約1500億シリング(2007年現在156億ユーロ)に達し、国内総生産の8%程度を占める。とくにスキー観光は1人当りの消費額が多く、フォアアールベルク州のレッヒ・チュルス、チロール州のザンクト・アントン、ゼルデン、キッツビューエルなどは国際的に有名なスキー場である。

[木内信藏・呉羽正昭]

社会

全国平均人口密度は1平方キロメートル当り96人である。人口分布は地域差が大きく、ウィーン盆地ではその値が200人以上に達するのに対し、西部の山地では人口がまばらである。オーストリア全体の人口は微増を続けているが、2001年の出生率は9.3%、死亡率は9.2%で、近年の人口増加の多くは、増えつつある外国人労働者などの移住者による社会的増加が要因である。2001年の外国人の総数は76万1700人である。しかし西部の諸州では、依然として出生率も高い。人口の自然増加が減少したこと、また死亡率の低下とともに高齢化が進んできている。この傾向はウィーンやその他の州都などの都市部で顕著である。

 オーストリアの社会は、ドイツ文化とローマ・カトリックの精神的基礎のうえに、第一次世界大戦後の1920年に成立した憲法による民主主義の三本柱によって支えられている。それは西ヨーロッパ社会のもつ特色とほとんど異ならないが、社会福祉、社会保障などにおいては世界的にみて進歩した国の一つである。これらの制度は19世紀後半の帝政時代に始まり、第一次世界大戦後の変革によって一歩進み、第二次世界大戦後に仕上げられた。労働関係では、労働時間の短縮が進められてきた。その一方で有給休暇制度が確立し、とくに年間5週間のバカンス休暇の取得は義務とされる。女性労働力が増加しており(1971年の120万3000人が2001年の139万9900人に増加)、就業は男女の区別がないものとなっている。社会福祉制度も著しく発展している。高齢者、障害者、失業者、就学者などへの対策がさまざまな方向から十分に整備されている。たとえば、大学生の学費は無料(2002年から有料化)であるし、職をもつ女性には出産後2年間の産後休職期間が認められている。さらに、健康保険制度もすべての医療をカバーし、医療の水準も高い。こうした社会福祉に費やされる金額は国内総生産の約3割に達する(1996)。

 教育制度は、4年間の基礎学校(国民学校)の上に、職業教育を中心とした基幹学校(5年)と一般教育を中心とした高等学校(ギムナジウム、8年)がある。義務教育期間は9年である。基幹学校5年間の卒業者は、さらに3年間、職業学校で職業教育を受ける。また基幹学校4年修了時に、職業高等学校(5年、卒業時に大学入学資格取得)または高等学校後期課程に進むこともできる。高等学校は前期課程と後期課程からなり、国家資格・高等学校卒業試験(マトゥーラ)があり、これに合格すると、大学入学資格を得る。総合大学、単科大学がこれらの上にある。このように、職業の選択と能力に対応して、教育は複線型をとっている。

 スポーツは冬季のスキーと、会員25万を超えるサッカーがもっとも愛好されている。連邦スポーツ評議会と63の部門別評議会とによって構成されている連邦スポーツ協会には、1万3500余のスポーツ団体が参加し、国からの助成が行われている。1964年と1976年にインスブルックで冬季オリンピック競技会が、またアルペンおよびノルディックスキーの世界選手権やワールドカップ大会も頻繁に開かれている。オーストリアの選手は多くの種目で、しばしば上位に入賞している。スキー、スケート、登山は広く国民的スポーツとなっている。

[木内信藏・呉羽正昭]

文化

住民の95%以上はドイツ系で、ドイツ語が使用される。中央ヨーロッパの交通の十字路にあることから、隣接国の民族が来住し、母国の言語があわせて使用されている。クロアチア語はブルゲンラント州で、スロベニア語はケルンテン州南部で、マジャール語はブルゲンラントおよびウィーンで、それぞれ使用されている。

 オーストリア人はドイツ民族の一族であるが、ウィーンがヨーロッパの政治・文化の中心都市であったことから、ドイツ国のドイツ人とは異なる国際性やロマン的情緒をもっている。日常生活を支配するカトリック教は、年中行事、風俗習慣に広く根づき、「こんにちは」にあたる挨拶(あいさつ)は「神のお恵みがありますように(グリュース・ゴット)」という。身ぶりや作法、人間関係にもカトリック的なものが残り、地方の風習には保守性が濃い。ローマ・カトリック教徒は全人口の78%を占め、そのほか少数のプロテスタント、ユダヤ教徒、イスラム教、無宗教者などもいる。

 音楽はオーストリアの代表的芸術で、ドイツ音楽を基調に、スラブやハンガリーの民俗音楽の要素を加味した明るい旋律をもっている。ウィーンを中心として活躍した音楽家には、グルック、ハイドン、モーツァルトをはじめ、ベートーベン、シューベルト、ブラームス、マーラー、シェーンベルク、ウェーベルンら、西洋音楽史の主流をなす人々があげられる。とくにウィンナ・ワルツを完成させたヨハン・シュトラウス(子)の曲は広く親しまれている。ウィーン国立歌劇場はオペラの歴史を飾る数々の名演を生んだ。それを支えたのは宮廷と貴族および市民であった。モーツァルトの『フィガロの結婚』(1786初演)はブルク劇場であったが、19世紀後半に国立歌劇場で創造的な演奏を示したのは、マーラー、リヒャルト・シュトラウスらであった。第二次世界大戦で破壊された歌劇場は2億6500万シリングの費用を投じて再建され、ベートーベンの『フィデリオ』によって開場された。その演奏はベーム、カラヤン、ヒルベルト以下に引き継がれた。ウィーンには多数の音楽学校があり、その頂点に音楽・演劇アカデミーが置かれている。数々の音楽祭、芸術祭のなかでも、1920年に始まったザルツブルクの音楽祭とヘルブルンの祝祭は、もっとも有名である。新しくはブレゲンツ芸術祭があって、ボーデン湖上に舞台を設けてオペラ、バレエなどが上演されている。

 美しい国土に加えて、ローマの遺跡や教会、僧院、王宮、城塞(じょうさい)などの歴史的記念物は各地に多く、博物館として利用され、あるいは巡礼地や、観光の場となっている。建築様式としてはロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロックにわたっている。ゴシック建築の代表はウィーンのサン・シュテファン大聖堂で12世紀に創建、その後再建・改築され、第二次世界大戦の災禍を受けたが、市民の浄財によって復興された。バロックを代表するのは、ウィーン郊外の夏の王宮シェーンブルンとドナウ河畔の段丘上にあるメルク修道院である。ザルツブルクの城山にそびえるホーエンザルツブルク城は11世紀に着工された城塞である。それらの建築に伴って、絵画、彫刻、家具、造園などの芸術ないし技術が発達し保存されている。

 近代美術および建築の新しい傾向を担う人々も現れている。パイヒル、ウール、シュバルトおよびホルツバウアーの制作グループなどである。ウィーンの庶民喜劇を取り入れて劇作を書いたフランツ・グリルパルツァー(19世紀)、オペラ『ばらの騎士』などをリヒャルト・シュトラウスとともにつくったホフマンスタールをはじめ、アルトゥア・シュニッツラー、ライナー・マリア・リルケ、フランツ・カフカらは20世紀への転換期を代表する作家であった。

 学術水準も高い。ノーベル賞受賞者は、平和賞2人を別として、医学生理学、物理学、化学、経済学にわたって十数人が選ばれ、経済学者のハイエク、量子論のパウリがそのうちに含まれている。このほかにも、メンデル(遺伝学)、フロイト(心理学)、シュミット(人類学)、ローレンツ(動物学)らが、世界的に知られている。ウィーン大学をはじめ12の総合大学や単科大学があり、芸術大学が6校ある。また1994年には大学に相当する高等工科研究機関であるFHSが創設された。大学生はウィーン大学の7万5000人をはじめとして、全国で約24万人いる(1999)。その約1割が外国人留学生で、南チロールなどからのイタリア人やドイツ人が多い。学術研究の最高機関として、オーストリア学士院(1847年設立)がある。また国際的な研究機関として、ウィーン郊外のラクセンブルクにある国際応用システム研究所(IIASA)があり、環境・エネルギー問題などの研究課題に世界からの多くの研究者が従事している。

[木内信藏・呉羽正昭]

日本との関係

オーストリアと日本との関係は、音楽とウィンタースポーツの面などで密接である。学術交流もじみではあるが進んでおり、オーストリアの民主中立的な歩み、経済政策などに、日本は学ぶべき点が多いといってよい。1869年(明治2)に日本と修好通商航海条約を締結(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)している。音楽では、明治時代のバイオリニスト幸田延(こうだのぶ)(1870―1946)をはじめとして、ウィーンに学んだ日本人はきわめて多い。近年はオーストリアからの音楽家の来日がとみに増加し、日本人の観光客がオペラや音楽の鑑賞に出かけたり、音楽家の遺跡を訪ねたりすることも少なくない。ウィーン・フィルハーモニー、ウィーン少年合唱団、国立オペラなどの演奏は広く日本の聴衆に親しまれている。2002年から2010年まで小沢征爾(おざわせいじ)がウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めている。

 スキーを本格的に日本に伝えたのは、オーストリアの軍人レルヒTheodor von Lerch(1869―1945)で、1911年に新潟県高田(現上越市)で一本杖(づえ)の技術が伝習された。第二次世界大戦前にはハンネス・シュナイダーHannes Schneider(1890―1955)が、戦後にもオーストリアの名手が、日本のスキーの発達に貢献しており、日本からスキーや登山のために渡航する人々も増加しつつある。また武道を通じた文化交流も盛んになってきた。

 ウィーン大学における日本学(ヤパノロギー)の研究には日本文化に関する優れた業績がある。日本からの留学生の大半はウィーン音楽・演劇アカデミーに在籍している。国連関係の機関や日本企業の現地支店などに働く日本人もいる。日本とオーストリアの間の貿易額は2006年には、日本からの輸出が1388億円、輸入が1792億円である。長く日本の輸出超過が続いていたが、2004年以降は輸入超過となっている。日本からの輸出品目の中心は自動車、電気機械で、輸入ではスキー用具と木材が輸入額の2割程度を占める。

[木内信藏・呉羽正昭]

『今来陸郎編『世界各国史7 中欧史』新版(1971・山川出版社)』『矢田俊隆編『世界各国史13 東欧史』新版(1977・山川出版社)』『矢田俊隆著『ハプスブルク帝国史研究』(1977・岩波書店)』『木内信藏編『世界地理7 ヨーロッパⅡ』(1977・朝倉書店)』『I・T・ベレンド、G・ラーンキ著、南塚信吾監訳『東欧経済史』(1978・中央大学出版部)』『良知力著『向う岸からの世界史』(1978・未来社)』『連邦総理府・連邦報道庁編『オーストリア 事実と数字』(1979・連邦報道庁/日本語版・オーストリア大使館)』『P・パンツァー、J・クレイサ著、佐久間穆訳『ウィーンの日本』(1990・サイマル出版)』『池内紀監修『オーストリア』(1995・新潮社)』『田辺裕監修『図説大百科世界の地理12 ドイツ・オーストリア・スイス』(1996・朝倉書店)』『大西健夫、酒井晨史編『オーストリア』(1996・早稲田大学出版部)』『Austrian Museum for Economy and Society ed.Survey of the Austrian Economy 1980』『Adolf Leidlmair ed.Österreich,2.Auflage(1986,List)』


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百科事典マイペディア 「オーストリア」の意味・わかりやすい解説

オーストリア

◎正式名称−オーストリア共和国Republic of Austria。◎面積−8万3879km2。◎人口−845万人(2013)。◎首都−ウィーンWien(171万人,2011)。◎住民−ほとんどがゲルマン系。◎宗教−カトリック88%,プロテスタント6%,ユダヤ教など。◎言語−ドイツ語(公用語)99%,ほかにスロベニア語,クロアチア語など。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−大統領,フィッシャーHeinz Fischer(2004年7月就任,2010年7月再任,任期6年)。◎首相−ベルナー・ファイマンWerner Faymann(1960年生れ,2008年12月就任)。◎憲法−1920年制定。ほかに1955年10月制定の永世中立に関する憲法法規など。◎国会−二院制。上院(連邦議会,定員62,各州議会で選出,任期5〜6年),下院(国民議会,定員183,任期5年)(2013)。◎GDP−4164億ドル(2008)。◎1人当りGDP−3万9590ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−4.5%(2003)。◎平均寿命−男78.1歳,女83.4歳(2011)。◎乳児死亡率−4‰(2010)。◎識字率−100%。    *    *ヨーロッパ大陸中央部の共和国。〔自然・住民〕 スイスと並ぶ典型的な山国で,全土の約3分の2がアルプス山系に属し,北東部のドナウ川流域に丘陵地が広がる。東端のいわゆるウィーン盆地はハンガリーの大平原(プスタ)に連なる。ドナウ川の南西には,けわしい山脈が東西に走り,グロースグロックナー山をはじめとする高峰が多い。気候は年平均気温7〜9℃であるが,地域によっては年変化が大きく,変化に富む。〔歴史〕 ドイツ民族による国家としての歴史は976年バイエルンの辺境領設置に始まる。ドイツ人の東方進出の中心地となり,バーベンベルク家の支配が続いた。13世紀末ハプスブルク家領となり,16世紀にはハンガリー,ボヘミアを兼有,以後事実上ドイツ皇帝(神聖ローマ帝国皇帝)を世襲するハプスブルク家の中心として発展した。その間15世紀半ばからしばしばオスマン帝国(トルコ)と戦い,宗教改革期にはフス派戦争三十年戦争を経験。18世紀半ばのオーストリア継承戦争,19世紀初頭のナポレオンの侵攻で危機に陥ったが,ウィーン会議で再建後は反動体制の中心となった。ドイツの覇権を争った普墺(プロイセン・オーストリア)戦争に敗れた後の1867年オーストリア・ハンガリー二重帝国に改組した(アウスグライヒ)。第1次大戦でドイツと結んだが敗れてハプスブルク家は倒れ,チェコスロバキア,ハンガリー,ユーゴスラビアが分離独立した。第2次大戦直前,ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)があったが,戦後の1955年主権を回復した。〔経済・産業〕 国土の約37%が森林で,木材が主要輸出品の一つとなっている。農業では,小麦,大麦,ジャガイモ,テンサイが主産物であるが,食品類の輸入が多い。亜炭,鉄鉱,石油,天然ガス,黒鉛,マグネサイト,銅などを産する。水力発電が盛んで,工業が最も多くの労働力を吸収,鉄鋼・機械・繊維・化学工業が行われる。これらの産業の基幹部分は国有化されている。観光業も国の有力な財源である。ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)の原加盟国であったが,1995年ヨーロッパ連合(EU)に加盟した。北大西洋条約機構(NATO)には未加盟。2009年,世界金融危機の影響を受けて,実質GDP成長率はマイナス3.5%と戦後最大の落ち込みを記録,2010年には若干のプラスに転じたが,ユーロ危機の影響で景気後退と財政赤字問題に直面した。政府は緊縮策を打ち出し,2011年の財政赤字はEU基準値のGDP3%を下回る2.6%を達成した。政府は新たな財政削減包括策により,2016年に財政赤字ゼロを目指している。〔政治〕 憲法は1920年に制定(1929年に大幅改定)されたものを,第2次大戦後復活,採用している。9州からなる連邦共和国で,元首は大統領(国民が直接選挙で選出,任期6年)。国会は上院と下院の二院制。戦後,国民党と社会民主党(旧,社会党)が国会の議席を二分してきたが,1990年代に入って,難民・外国人労働者への規制強化を訴える自由党が台頭し,2000年には国民党との連立政権が成立して,EU諸国との緊張が高まった。1955年のオーストリア国家条約で独立を回復,永世中立を宣言したが,総数約3万4600人の陸・空軍をもつ。2006年の下院選挙では,社会民主党(党首グーゼンバウアー)が国民党から第1党の座を奪回,グーゼンバウアーは2007年1月第2党の国民党との大連立で首相に就任した。2008年7月,国民党が連立を離脱したため,9月に議会選挙が実施され第1党・第2党の関係は変わらなかったがともに議席を減らし,第3党に躍進した極右の自由党と未来同盟に議席を奪われた。その後2ヵ月にわたる協議で,社会民主党と国民党は再び連立を組むこととなり,社民党党首ファイマンが首相となった。2010年4月の大統領選では,社民党出身の現職フイッシャー大統領が自由党候補らを大差で破り再選された。2013年9月の国民議会選挙(比例代表制・直接選挙,任期5年)では与党の社民党・国民党の連合がEU懐疑派の自由党などを勝利した。ファイマン政権は,財政再建に積極的に取り組んでいる。
→関連項目インスブルックオリンピック(1964年)インスブルックオリンピック(1976年)ゼメリング鉄道ワルトハイム

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オーストリア」の意味・わかりやすい解説

オーストリア
Austria

正式名称 オーストリア共和国 Republik Österreich。
面積 8万3883km2
人口 894万9000(2021推計)。
首都 ウィーン

ヨーロッパ中部にある連邦制の共和国。永世中立国(→永世中立)。内陸国で,国境を接する国は,スイスリヒテンシュタインドイツチェコスロバキアハンガリースロベニアイタリアの 8ヵ国に及ぶ。領土は東西に細長く,西部はアルプス山地(→アルプス)に,東部はドナウ川流域低地に属するが,ほぼ 4分の3は山地である。土地利用では,森林が約 3分の1,山岳部の不毛地約 8分の1,残りが農牧地である。農牧地のうちでは,牧草地および山地牧場が過半を占める。住民はほとんどがゲルマン系(→ゲルマン民族)で,公用語としてはドイツ語が使われる。宗教はキリスト教のカトリックが約 70%を占める。人口分布では,東部低地に集中がみられ,特にウィーンには約 20%が集中している。就業構造では,鉱工業,商業・サービス業の比率が高い。鉱業は岩塩,銅,鉄などの資源に恵まれ,古くから盛んであるが,工業生産の増大に伴い原料を外国に依存するようになった。工業では鉄鋼業,織物業などの近代工業のほか,伝統的な手工芸にも特色がある。またチロル地方(→チロル州)やウィーンなど世界的な観光地を有し,観光産業も重要。内陸水運や鉄道,電力事業,鉄・非鉄金属の鉱山や製錬所,主要な機械工業などは国営である。大小九つの連邦州があり,それぞれに州議会,州知事が置かれているが,現実には中央集権の傾向が強い。1995年ヨーロッパ連合 EUに加盟。(→オーストリア史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オーストリア」の解説

オーストリア
Österreich[ドイツ],Austria[英]

中央ヨーロッパ,ドナウ川中流域の共和国。もと帝国で,神聖ローマ帝国以来の古い歴史を持つ。この地域は民族大移動後,バイエルン部族の支配をへて,フランク王国の直轄下に入り,「オストマルク」と呼ばれた。そのラテン名「アウストリア」がオーストリアの語源。10世紀以来帝国封土としてバーベンベルク家に与えられたが,同家が13世紀に断絶した後,ボヘミア王の支配をへて,1282年ハプスブルク家の支配するところとなった。同家は14世紀以来神聖ローマ帝国皇帝位を独占する一方,結婚政策で領土を拡大,スペインまで広がった領土は16世紀に分割されたが,東のオーストリアはオスマン帝国の圧迫を退け,ボヘミア,ハンガリーも領有するに至った。18世紀には帝国内にプロイセンの台頭を許し,19世紀初頭ナポレオンの圧迫下で神聖ローマ帝国の帝位を放棄,オーストリア帝国を称することになった。ナポレオン没落の際,ヨーロッパ外交の主導権を握ってウィーン会議を主催,保守的なウィーン体制を築いたが,1848年の革命以降,民族主義運動に揺さぶられた。66年のプロイセン‐オーストリア戦争の敗戦後,67年にハンガリーとのアウスグライヒオーストリア‐ハンガリー帝国(二重帝国)に改組された。その後領内のスラヴ民族問題に悩まされながら,バルカンへの進出を企て,第一次世界大戦を招来した。1918年の敗戦で領内諸民族が独立,オーストリアはドイツ人の共和国となる。38年ナチス・ドイツに併合されたが,第二次世界大戦後,米ソ英仏の分割占領をへて,55年国家条約により独立の中立国として主権を回復,現在に至っている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「オーストリア」の解説

オーストリア
Austria

ヨーロッパ中央部にある共和国。首都ウィーン
前14年ローマ領となり,軍団駐屯地であったが,8世紀末フランク王国のカール1世はここに辺境伯領を置いた。9世紀末からアジア系マジャール人の侵入をうけたが,976年神聖ローマ帝国によってオストマルク(東部辺境伯領)が設けられ,これがオーストリアの起源となる。1156年独立の公国,オーストリアに昇格。1278年からハプスブルク家の所領となり,1918年まで同家が支配した。この間,1315年,スイス地方は住民の反抗で独立。ハプスブルク家は15世紀前半より事実上神聖ローマ皇帝を世襲し,16世紀のマクシミリアン1世・カール5世・フェルディナント1世のとき強大を誇り,オスマン帝国の侵入を防ぎ,逆に1699年のカルロヴィッツ条約ではハンガリーその他を獲得した。また,宗教改革後,ドイツの国内は新旧両教徒の対立が激化し,三十年戦争の惨禍をみた。これは宗教に名をかりた国際戦争であったが,1648年のウェストファリア条約でフランスにアルザスを,ブランデンブルク−プロイセンに東ポンメルンを奪われ,ハプスブルク家の地位は低下した。1713年スペイン継承戦争でスペイン領ネーデルラント・サルデーニャ島・ナポリを併合。18世紀にはオーストリア継承戦争でプロイセンにシュレジエンを奪われたが,ポーランド分割に参加してガリチアを得た。ナポレオン戦争の結果,神聖ローマ帝国は消滅(1806)してオーストリア帝国となる。ウィーン会議後,ドイツ連邦の盟主となったが,ドイツ統一の指導権をプロイセンと争って敗れ,普墺 (ふおう) 戦争後の1867年,アウスグライヒ(妥協)によってオーストリア−ハンガリー帝国となった。第一次世界大戦ではドイツとともに戦ったが敗れ,ハプスブルク家の支配は終わり,領内諸民族は独立した。1919年共和国となったが,1938〜45年ナチス−ドイツに併合された。戦後アメリカ・イギリス・フランス・ソ連に分割占領されたが,55年オーストリア国家条約が成立し,永世中立の共和国として独立した。1960年以降ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)に加盟していたが,マーストリヒト条約によってヨーロッパ共同体(EC)がヨーロッパ連合(EU)に発展すると,95年1月これに加盟した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「オーストリア」の解説

オーストリア

中部ヨーロッパに位置する国。漢字表記は墺太利・墺太利亜。日本との外交関係は,オーストリア-ハンガリー帝国との1869年(明治2)日墺洪修好通商航海条約に始まる。この不平等条約は97年改定された。大日本帝国憲法の制定ではウィーン大学教授シュタインが,渡欧した伊藤博文らに憲法を講じ影響を与えた。日露戦争後に来日したレルヒ陸軍少佐は,新潟県高田(現,上越市)で近代スキーの初の本格的指導を行う。オーストリア-ハンガリー帝国は1918年第1次大戦に敗れて消滅,共和国として独立した。38年ヒトラーのドイツに併合され第三帝国の1州となったが,第2次大戦後55年に独立を回復し永世中立国となる。第2次大戦で消滅した日本との外交関係は,1953年(昭和28)復活した。正式国名オーストリア共和国。首都ウィーン。

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