ブラジルの歌手、ギタリスト。北東部バイア州内陸のジョアゼイロで生まれる。アントニオ・カルロス・ジョビンとともにボサ・ノバの代名詞的存在。ジョビンが作・編曲でボサ・ノバを代表するとすれば、ジルベルトのボサ・ノバは声とギターの卓抜なテクニックとリズム感、味わいにおいて特筆され、ジョビンの曲も数多く歌ってもいる。声質や唱法は彼独自のもので、彼の登場時のブラジル音楽の文脈のなかでも非常に革命的であったが、その後その存在感は他の追随を許さない。一方で、サンバのパーカッション群のパートをギター1本で弾くことを可能にした奏法も編み出し、これはメソッド化され、その後のブラジルのギタリストに大きな影響を与えた。
1958年、エリゼッチ・カルドーゾのアルバム『カンソン・ジ・アモール・ジマイス』にギタリストとして参加、その新しい演奏スタイルで注目される。その後に発売されたアルバム『シェガ・ジ・サウダージ』(1959)、『オ・アモール、オ・ソリーソ、イ・ア・フロール』(1960)、『ジョアン・ジルベルト』(1961)で一気にボサ・ノバのスタイルを完成させ、高い評価を得た。この3枚のアルバムからのベスト盤は1961年にはアメリカ合衆国でも発売される。ブラジル音楽に注目していたアメリカのミュージシャンや音楽産業のなかでも、ジャズ・サックス奏者スタン・ゲッツがいちはやくボサ・ノバに着目し、ギタリストのチャーリー・バードCharlie Byrd(1925―1999)と組んで『ジャズ・サンバ』(1962)を発表する。このアルバムおよび「デサフィナード」などのシングル・カット曲が大ヒットして、同年ジルベルトはカーネギー・ホールに招かれ演奏し、翌1964年にはゲッツとカーネギー・ホールで録音を行った。このような活動により、ボサ・ノバはアメリカを経由して世界中に広がっていくことになる。しかし一方で、天才肌のジルベルトはコンサートをすっぽかしたり、放浪の旅に出てしまったりとショー・ビジネスの慣習には背を向けていた。1963年アメリカでのゲッツらとの録音の後、1973年までディスコグラフィーが空白となるのはそのためであるが、放浪先のメキシコで録音し、それ以外のデータが不詳な、ボレロの名曲をボサ・ノバ仕立てにした録音が新たに発見されたこともあった。
その後、同郷の後輩カエターノ・ベローゾらとの『ブラジル』(1981)、モントルー・ジャズ・フェスティバルでのライブ盤(1986)なども発表しているが、寡作なうえにコンサートもほとんど行わなかった。また、ボサ・ノバの「聖典」といってもいい『シェガ・ジ・サウダージ』『オ・アモール、オ・ソリーソ、イ・ア・フロール』『ジョアン・ジルベルト』は1990年前後に1枚のCDにまとめられ、ブラジル、アメリカ、日本などでも発売されたが、ジルベルトが曲を一部短縮するなどの収録方法にクレームをつけ入手困難な状態となっている。このように、自らその伝説化に拍車をかけながら、その後も思い出したように新しい録音を行いコンサートを開いた。ボサ・ノバ・シンガー、アストラッド・ジルベルトAstrud Gilberto(1940―2023)は元妻。娘のベベウ・ジルベルトBebel Gilberto(1966― )も歌手として活躍する。2003年(平成15)には初来日を果たした。
[東 琢磨]
『「特集ボサノヴァ」(『ユリイカ』1998年6月号・青土社)』▽『クリス・マッガワン、ヒカルド・ペサーニャ著、武者小路実昭・雨海弘美訳『ブラジリアン・サウンド――サンバ、ボサノヴァ、MPB―ブラジル音楽のすべて』(2000・シンコー・ミュージック)』▽『ルイ・カストロ著、国安真奈訳『ボサノヴァの歴史』(2001・音楽之友社)』
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