翻訳|Bactria
現在のアフガニスタン北部、ウズベキスタン、タジキスタンなどからなる古代地方名。オクサス川(アムダリヤ)中流域の肥沃(ひよく)な谷間を含む。中国、インド、西方を結ぶ内陸交易路の結接点にあたる。バクトリア(ギリシア語)の名の起源はオクサス川支流バクトロス川にあったが、古イラン語名はザリアスパ、中国史料では大夏(たいか)。首都バクトラはアレクサンドロス大王の名をいただき、アレクサンドリアともよばれたが、後世にはバルフといわれる。古くはこの地に預言者ゾロアスターが生まれたと伝えられ、アケメネス朝ペルシア帝国時代にはサトラピ(属領)をなし、そこを通じてシベリアの金が流入したらしい。アレクサンドロス大王に対しては最後まで抵抗した(前328)。その地の支配を継承したセレウコス1世は大王に倣って土地の貴族出身の女性アパマと結婚したが、その後ディオドトスという有力者が反乱し、ギリシア人、インド人、イラン人などの混在する独立王国バクトリアを興した。王朝の富の源泉は農業とインド交易にあった。約40人の王が知られるが、エウテュデモス1世・デメトリオス1世父子の治世(前235~前185)がもっとも繁栄し、一時領土はアフガニスタン、旧ソ連領中央アジア、パキスタンなどをも含んだ。紀元前2世紀末になると、北方遊牧民の月氏がオクサス川を越えて侵入した。その一部はクシャン(貴霜)人であったが、彼らは紀元1年ごろクジュラ・カドフィセス(丘就郤(きゅうしゅうげき))の下にここに王朝を築いた。そのころ中国との交易路が確立し、張騫(ちょうけん)などの使節が到来した。クシャン朝は2世紀前半のカニシカ王のときもっとも繁栄したが、3世紀中葉には衰退した。カニシカ王の首都はプルシャプラ(現ペシャワール)にあり、彼はインド東部のパータリプトラまでを領有した。すでに前2世紀に当地に仏教が知られたが、カニシカ時代にはガンダーラ式仏教美術が成立し、仏典の結集が行われた。バクトリアではギリシア、イラン、インドの諸文化が融合した。
[小川英雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
中央アジアのアム川流域のバクトラ(現バルフ)を中心とする古地名。アレクサンドロス大王の東征後,ギリシア人が住みつき,前250年頃太守ディオドトスがセレウコス朝から独立して王国を建設した。バクトリア王国の遺物は銀貨を除いて長らく知られなかったが,1965年,フランス考古調査隊がアム川とコクチャ川合流点でアイハヌム都市遺跡を発掘し,宮殿,神殿,半円形劇場など当時のギリシア人植民市の全貌を明らかにした。それらのギリシア人諸都市は遊牧民族の大月氏(だいげつし)の侵入を受けて滅亡し(前145年頃),ヘレニズム文化は滅んだ。しかしギリシア文字は土着バクトリア語(東イラン語)を記す文字となり,碑文,文書に8世紀まで使用された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…前250年ころバクトリア太守ディオドトスDiodotosが,セレウコス朝の支配から独立,建国したギリシア人王国。首都は現在のアフガニスタン北部のバルフ(古称バクトラBaktra)にあった。…
※「バクトリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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