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前550~前330
古代オリエントのほとんど全域を支配したペルシア人の王朝。始祖はアケメネス。キュロス2世が前550年メディアを滅ぼし,独立。前546年サルディスを占領しアナトリアを併合,前538年にはバビロンを占領した。カンビュセス2世は前525年エジプトを征服した。帝国の反乱を鎮定したダレイオス1世はベヒストゥーン碑文をのこし,帝国を約20の州に分けサトラップ(知事)を置き,さらに駅伝制を定めた。彼はスーサとペルセポリスの都を造営した。クセルクセス1世はペルシア戦争を行ったが,ギリシアの支配には成功しなかった。以後宮廷内の内訌のため勢力は衰え,アレクサンドロス大王にイッソス,ガウガメラ(アルベラ近郊)で敗れ,滅亡した。諸王はアフラ・マズダーを信仰した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ペルシア帝国を支配した王家。前700年ごろ,ペルシア人の族長アケメネス(ギリシア語名アカイメネス,古代ペルシア語名ハカーマニシュ)にさかのぼる。当時ペルシア人はイラン高原を南下しつつあり,第2代テイスペスの時にペルシア(現,ファールス州)に定着したと考えられる。キュロス2世のバビロン出土碑文によれば,テイスペス以来アンシャン王を称している。アンシャンは同地方の古名である。第5代キュロス2世はペルシア帝国を創設して,その初代の王となった。カンビュセス2世の死後,権力をめぐる争いがおこり,王統は傍系のダレイオス1世に移った。約200年にわたる帝国支配ののち,アレクサンドロス大王によって滅ぼされた。アケメネス朝に対する回想はその後も長くイラン民族のあいだに保持され,アケメネス朝とのつながりがしばしば後代の支配者によって強調された。
→ペルシア帝国
執筆者:佐藤 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…その歴史は,厳密にはバビロンによるメソポタミア南部の統一をもって始まるとみるべきであろうが,以下の記述では,サルゴンによるアッカド帝国の建設によりメソポタミア南部が初めて政治的に統合された時をもってその出発点とし,アレクサンドロス大王による征服までを扱う。なお,以下に掲げるアケメネス朝以前の諸王の治世年代はすべてA.レオ・オッペンハイム《古代メソポタミア》(改訂版,1977)に付されているJ.A.ブリンクマンの年代表に従う。
[アッカド帝国時代]
サルゴン(在位,前2334‐前2279。…
…前6世紀後半に古代オリエント世界の統一を完成し,その後およそ2世紀にわたって中央アジアからエジプトに至る広域支配を続けた帝国の称。アケメネス朝ペルシア(アケメネス朝)ともいう。
[歴史]
ペルシア人はメディア人とともに西イラン族に属し,前1000年ころイラン高原に到来した。…
※「アケメネス朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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