王克敏 (おうこくびん)
Wáng Kè mǐn
生没年:1873-1945
中国の政治家。浙江省杭県(現,余杭)に生まれる。1900年来日,清国留学生監督,公使館参賛を歴任,帰国後は外交事務をつかさどる。辛亥革命後直隷派軍閥政府の下で中国銀行総裁,財政総長などの要職につく。1927年国民政府から反徒として逮捕令を発せられ,大連に逃れ奉天派に投じ,31年張学良の下で北平財政整理委員会副委員長となる。その後東北政務委員会,北平政務整理委員会,冀察(きさつ)政務委員会の各委員を歴任し,対日交渉では妥協政策をとる。37年12月日本の華北かいらい政権(中華民国臨時政府)の行政委員長,43年には華北政務委員会委員長となる。戦後国民政府に漢奸として逮捕され,獄中で服毒自殺。
執筆者:鈴木 隆史
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王克敏【おうこくびん】
中国の政治家。浙江省杭県(現,余杭)生れ。辛亥革命(1911年)後,直隷派軍閥政権下で要職を歴任。1927年国民政府から反徒として逮捕令が出されると,張作霖の奉天派に投じる。その後日中間の緩衝的な機関〈冀察(きさつ)政務委員会〉の委員などを歴任,日本との交渉では妥協策をとる。1937年日本の華北傀儡(かいらい)政権〈中華民国臨時政府〉の行政委員長,1943年華北政務委員会委員長。戦後,国民政府に逮捕され,獄中で自殺。→北洋軍閥
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王克敏
おうこくびん
(1873―1945)
中華民国の政治家。字(あざな)は叔魯(しゅくろ)。浙江(せっこう)省杭県の人。1900年渡日後、清(しん)国留学生監督、駐日公使館参賛を歴任。07年帰国し、外交面の仕事に従事したが、13年中法実業銀行の重役となり、17年王士珍内閣の財政総長、中国銀行総裁に就任し、以後直隷(ちょくれい)派政府の財政面の要職を歴任した。27年国民政府より反徒として逮捕令が出され、大連に逃れて奉天派に投じた。32年東北政務委員、34年北平政務委員、35年冀察(きさつ)政務委員を歴任。37年日中戦争勃発(ぼっぱつ)後、華北の傀儡(かいらい)政権、中華民国臨時政府の行政委員長に就任。43年中華民国政府(南京(ナンキン))の華北政務委員会委員長となった。45年12月戦犯として逮捕され、北平(北京(ペキン))の獄中で病死した。
[石島紀之]
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王克敏
おうこくびん
Wang Guo-min
[生]同治12(1873).浙江
[没]1945.12.25.
中国の政治家。字は叔魯。中華民国の初期,軍閥政権に密着し,中国銀行総裁を経て王士珍内閣 (1917~18) では財政総長。北伐のとき大連に逃亡し,1932年国民政府東北政務委員,37年華北の日本傀儡 (かいらい) 政権「中華民国臨時政府」行政委員長,43年華北政務委員会委員長。 45年漢奸として逮捕され獄死。
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王克敏 おう-こくびん
1873-1945 中国の政治家。
同治12年生まれ。明治33年来日し,清(しん)(中国)の留学生監督,公使館参賛を歴任。中華民国成立後,中国銀行総裁,財政総長となる。1937年中華民国臨時政府(日本の華北傀儡(かいらい)政権)初代行政委員長。戦後,対日協力者として逮捕され,1945年12月25日獄死。73歳。浙江省出身。
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