改訂新版 世界大百科事典 「冀察政務委員会」の意味・わかりやすい解説
冀察政務委員会 (きさつせいむいいんかい)
Jì Chá zhèng wù wěi yuán huì
日本の華北工作に対応して,1935年12月に中国国民政府が河北(冀),チャハル(察)両省と北平(北京),天津両市の政務を処理させるために北平につくった緩衝政権。この年日本軍は華北工作を推進したが,国民政府が11月に幣制改革を断行して経済的な統一をはかると,関東軍の土肥原賢二特務機関長は華北の軍閥に〈自治〉政府の樹立をせまった。だがこれは成功せず,日本軍は非武装地帯内に冀東防共自治委員会を樹立させ,北平,天津でも軍事的な圧力をかけた。国民政府はこれに対処するため12月18日に平津衛戍司令・第29軍長の宋哲元を委員長に冀察政務委員会を発足させた。ともかくも華北に特別の政治機構をつくり,しかも中央から大官を送るのではなく,華北の実力者で日本側の意中の人物を長に選んだのである。第29軍の幹部や旧政客がその要職を占めた。同委員会は軍事,政治,経済,財政上の自治権をもち,国民政府とともに共同防共に当たった。北平の大学生らは〈華北自治〉に反対する一二・九運動をおこし,抗日救国運動を民衆の間に広げていった。日本軍はこれを内面指導するために1936年4月に北京陸軍機関をおき,5月には中共軍の華北進出に対抗して支那駐屯軍を2000名から5000名に一方的に増強した。抗日運動はしだいに第29軍の間にも広がり,日本軍とのいざこざも頻発した。西安事件後の37年には日本軍は華北分治政策に代えて軍需資源獲得のための華北経済開発を重視する政策をとった。そして竜煙炭鉱の開発や津石鉄道の建設を宋に働きかけたが,国民政府はつよく反対した。抗日運動が激化するなかで板ばさみになった宋は5月から山東省の郷里に逃避して蘆溝橋事件を迎えたのである。7月28日兵力を増強した日本軍が北平総攻撃を開始すると,城内の第29軍と宋とは北平を撤退し,冀察政務委員会は解体した。
執筆者:今井 清一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報