張作霖(ちょうさくりん/チャンツオリン)を頭とする中国の軍閥。清(しん)末、東三省(清から中華民国にかけて、山海関以東の、遼寧(りょうねい/リヤオニン)、吉林(きつりん/チーリン)、黒竜江の三省からなる、いわゆる「満州」の地)で兵権を握った張作霖は、南満州鉄道株式会社および日本軍の勢力と結びつつ、反対派を退け、東三省の産業、金融、交通などの巨大な利権を有する独占的軍閥となった。日本の後押しを受けながらも、巧みに独自の勢力を伸長し、二度にわたる直隷派との戦争(奉直戦争)で山海関以南に進出、一時、奉天派は中国政界に覇を唱えたが、蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)の北伐軍に追われ、東三省の故地に帰ろうとしたところ、張作霖は日本軍によって爆死させられた。息子の張学良(ちょうがくりょう/チャンシュエリヤン)は、日本勢力に養われた部下の楊宇霆(よううてい)を殺し、国民政府支持を表明、日本と対立したが、満州事変による日本軍の全面侵略で軍閥としては解体した。
[安藤彦太郎]
中国の軍閥の一つで,奉天(瀋陽(しんよう))に本拠を置いたので奉天派といい,東北(満洲)軍閥ともいう。張作霖(ちょうさくりん),張学良父子2代で終わった。1918年東三省(とうさんしょう)巡閲使となった張作霖は20年までに満洲を支配し,しばしば長城以南に打って出て北京政権をねらい,27年には北京で大元帥になった。日本は満洲における日本の独占的地位確保の目的で張の育成にあたったが,のちに張との意見の調整に失敗,28年張を爆殺した。後継者の張学良は国民政府との関係を深めたため,日本との紛争は激化し,ついに満洲事変で満洲を追われた。張学良は討共戦に従事する過程で抗日救国意識を高め,西安事件を起こし,奉天派は消滅した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…中間の福建,湖南,四川,陝西等の地方は小軍閥の割拠する緩衝地帯であると同時に,南北両勢力の争奪の地でもあった。北京の政権は,日本の手先の安徽派がまずにぎり,ついで英米のおす直隷派にかわり,さらに安徽派から分化した張作霖の奉天派にうつるが,1928年,国民革命軍の北伐が勝利して北洋軍閥支配は終焉した。同年末の張学良の〈易幟(えきし)〉によって蔣介石による全国統一が完成するが,それは国民党の新軍閥化とむすびついていたのであって,南京国民政府は非北洋系軍閥の寄合所帯となったのである。…
※「奉天派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新