川崎千虎(読み)かわさき・ちとら

朝日日本歴史人物事典 「川崎千虎」の解説

川崎千虎

没年:明治35.11.27(1902)
生年天保7.12.2(1837.1.8)
明治期の日本画家。尾張(名古屋)藩士の子。名古屋生まれ。名は源六,のち鞆太郎。沼田月斎に四条派を学んだのち,京都で土佐光文やまと絵を学ぶ。明治11(1878)年上京し,内務省勧商局,大蔵省などに出仕したのち,博物館御用掛となる。また25年から28年まで,岡倉天心の依頼で東京美術学校(東京芸大)で本邦武装沿革などを講義し,30年には同校教授となるが,31年東京美術学校騒動に際して辞職。日本美術院設立に参加し,正員となる。有職故実に通じ,門下に小堀鞆音などを輩出,やまと絵系の歴史画家として活躍した。古社寺保存会委員も務めた。

(佐藤道信)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川崎千虎」の解説

川崎千虎 かわさき-ちとら

1837*-1902 明治時代の日本画家。
天保(てんぽう)7年12月2日生まれ。沼田月斎,土佐光文に師事。大蔵省勤務などをへて博物館御用掛となる。明治15年「佐々木高綱被甲図」で歴史故実画家として名をあげ,日本美術協会審査員や東京美術学校(現東京芸大)教授をつとめた。明治35年11月27日死去。67歳。尾張(おわり)(愛知県)出身通称は源六,鞆太郎。別号に鞆之舎。

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