建畠大夢(読み)たてはたたいむ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「建畠大夢」の意味・わかりやすい解説

建畠大夢
たてはたたいむ
(1880―1942)

彫刻家和歌山県生まれ。本名弥一郎。京都市立美術工芸学校を経て、1907年(明治40)東京美術学校彫刻科選科に入学、在学中の08年第2回文展で『閑静』が一躍三等賞を受けたのをはじめ、初期文展で受賞を重ねて注目された。19年(大正8)から帝展審査員を歴任翌年には東京美術学校教授となり、堅実穏健な写実表現により、朝倉文夫(ふみお)、北村西望(せいぼう)とともに、大正・昭和戦前期を通じて官展系彫刻界に指導的な役割を果たした。17年北村西望と八つ手会を、21年曠原(こうげん)社、40年(昭和15)には門下生により直土会を組織した。27年帝国美術院会員。代表作に『ながれ』『感に打たれた女』『こだま』などがある。

三木多聞

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「建畠大夢」の意味・わかりやすい解説

建畠大夢
たてはたたいむ

[生]1880.2.29. 和歌山有田
[没]1942.3.22. 東京
彫刻家。本名弥一郎。初め医師,のち彫刻家。大阪の医学校,京都美術工芸学校を経て,1911年東京美術学校彫刻科を卒業,のち同校教授。在学中から文展などに入賞し,27年に帝国美術院会員,37年に帝国芸術院会員となった。また 16年に八つ手会,21年に曠原社,40年に直土会を結成。さらに美術教育にも深い関心を示し児童彫塑展を開催した。主要作品『ながれ』 (1911,東京国立近代美術館) ,『童女像』 (26) ,『夢』 (39,京都市立美術館) 。

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百科事典マイペディア 「建畠大夢」の意味・わかりやすい解説

建畠大夢【たてはたたいむ】

彫刻家。和歌山県生れ。本名弥一郎。東京美術学校で白井雨山につき,在学中文展に入賞。1916年北村西望らと〈八ツ手会〉を組織。のち門下生を集めて〈直土会〉を組織するなど,美術教育に努めた。作品《ながれ》《感に打たれた女》など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「建畠大夢」の解説

建畠大夢 たてはた-たいむ

1880-1942 明治-昭和時代前期の彫刻家。
明治13年2月29日生まれ。東京美術学校(現東京芸大)在学中から文展に入選するなど官展で活躍。大正8年帝展審査員,9年母校の教授となる。10年北村西望らと曠原(こうげん)社を結成,昭和12年芸術院会員となる。作品に「ながれ」「感に打たれた女」など。昭和17年3月22日死去。63歳。和歌山県出身。本名は弥一郎。

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世界大百科事典(旧版)内の建畠大夢の言及

【明治・大正時代美術】より

…荻原守衛は帰国してまず太平洋画会に迎えられ,また夭折したこともあって,彼がロダンに学んだ生命感にみちた近代彫刻は官設展に根付かず,文展・帝展の主流は巧みな描写技術と主題主義であった。彫塑の朝倉文夫,建畠大夢(たてはたたいむ)(1880‐1942),堀進二,池田勇八(1886‐1963),大理石彫の北村四海らがあげられるが,これらのなかでは朝倉文夫が傑出しており,《墓守》(1910),《いづみ》(1914)のように,的確な自然主義の作品を残した。 再興日本美術院には,平櫛田中,佐藤朝山(1888‐1963),内藤伸(1882‐1967),吉田白嶺(1871‐1942)の4人の木彫家で彫刻部が新設された。…

※「建畠大夢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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