和歌山(読み)わかやま

精選版 日本国語大辞典 「和歌山」の意味・読み・例文・類語

わかやま【和歌山】

[一] 和歌山県北西部の地名。県庁所在地。紀ノ川下流の和歌山平野に発達。紀州徳川家五五万五〇〇〇石の城下町として繁栄。吉野川から流下する材木の集散地で、製材・木工業が盛ん。臨海部に重化学工業地帯がある。和歌浦・紀三井寺・雑賀崎(さいかざき)など観光地が多い。明治二二年(一八八九)市制。

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デジタル大辞泉 「和歌山」の意味・読み・例文・類語

わかやま【和歌山】

近畿地方南部の県。紀伊半島の南西部を占め、奈良・三重県境の間に飛び地をもつ。もとの紀伊国の大部分にあたる。人口100.1万(2010)。
和歌山県北西部の市。県庁所在地。紀ノ川河口部にある。もと徳川氏の城下町。古くから吉野杉の集散地で、製材・木工業や化学工業が盛ん。紀三井寺きみいでら和歌浦などがある。人口36.9万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「和歌山」の意味・わかりやすい解説

和歌山[県] (わかやま)

基本情報
面積=4726.29km2(全国30位) 
人口(2010)=100万2198人(全国39位) 
人口密度(2010)=212.0人/km2(全国29位) 
市町村(2011.10)=9市20町1村 
県庁所在地=和歌山市(人口=37万0364人) 
県花=ウメ 
県木ウバメガシ 
県鳥=メジロ

近畿地方南西部の県で,北は大阪府,東は奈良県,南東は三重県に接する。北東端の奈良・三重両県の間に北山村が飛地で界在する。

県域はかつての紀伊国の大部分にあたる。江戸時代は伊勢・大和両国の一部とともに三家の一つ紀州藩和歌山藩)の支配下にあり,田辺,新宮の支城に安藤・水野両家老が配されていたほか,伊都・那賀両郡には高野山領があった。1868年(明治1)田辺・新宮両藩が立藩し,高野山領は69年堺県,70年五条県の管轄下に置かれた。71年廃藩置県によって和歌山,田辺,新宮の3県が成立,次いで同年の府県統合の結果,旧高野山領もあわせ,熊野川以東,北山川以南を度会(わたらい)県(のち三重県に合併)に編入して,現在の和歌山県が誕生した。

先縄文時代から縄文時代草創期にかけての土壙群が,藤並地区遺跡(有田郡有田川町)で出土している。ナイフ形石器,石鏃,掻器,それに多量の剥片を伴う。

 高山寺(こうざんじ)貝塚(田辺市)は縄文時代早期の鹹水性貝塚。大粒の楕円文をもつ厚手の押型文土器は高山寺式土器と呼ばれる。和佐遺跡(旧高郡日高川町)では,B地点で入海式並行の土器など早期~中期の遺物が出土し,A地点からは晩期の滋賀里式が大洞B式を伴って出土する。鳴神(なるかみ)貝塚(和歌山市)は前期~晩期の鹹水性貝塚で,出土土器は北白川下層式から滋賀里式,船橋式まで各期にわたる。鷹島遺跡(有田郡広川町)では中期初頭,鷹島式土器とその住居址が出土している。

 尾の崎遺跡(御坊市)では,弥生時代の製塩土器を伴う竪穴住居址が鏡,玉類,直刀などの副葬品をもつ方形周溝墓によってこわされていたことで知られる。太田黒田遺跡(和歌山市)からは舌(ぜつ)をもつ銅鐸が出土した。

 下里古墳(東牟婁郡那智勝浦町)は全長約45mの前方後円墳で,紀南地方唯一の前期古墳といってよい。岩橋千塚(いわせせんづか)(和歌山市,千塚)は花山,大谷山,大日山,岩橋前山,井辺前山などの山塊に群在する567基以上からなる大古墳群である。前方後円墳,方墳,円墳からなり,積石塚もある。なかでも天王塚古墳,井辺八幡山(いんべはちまんやま)古墳,大谷山22号墳などは盟主的な前方後円墳として注目される。このうち井辺八幡山古墳は全長88m,3段築成の前方後円墳で,円筒埴輪列が3段めぐり,東西の造り出し部分には各種の形象埴輪がみられるなど,埴輪配列のあり方を知るうえで重要な古墳である。大谷古墳(和歌山市)は5世紀後半から6世紀初頭の前方後円墳。棺内外にはおびただしい副葬品があったが,とりわけ,馬甲,馬冑は確実な例としては日本で唯一のものであり,金銅製馬具とともに朝鮮との交渉を物語る。陵山(みささぎやま)古墳(橋本市)は直径46m,3段築成の円墳。葺石(ふきいし)と4重にめぐる埴輪列をもつ。5世紀末の築造であろう。東国山(とうごくやま)古墳群(和歌山市)や船戸山古墳群(和歌山市)などは円墳からなる後期群集墳で,須恵器など副葬品が豊富である。鳴滝遺跡(和歌山市)では5世紀前半と推定される巨大な高床式建物群跡が検出された。古代豪族,紀氏と関係する倉庫址かとみられている。

 那智山経塚(東牟婁群那智勝浦町)は出土する経筒の型式からみるかぎり平安時代末期からであるが,埋納された仏像には7世紀後半のものもある。根来寺(ねごろでら)坊院跡(岩出市)は僧兵数万を誇っていたという戦国時代末の根来寺が1585年(天正13)の豊臣秀吉の紀州制圧で焼き払われた跡である。備前焼の大甕など出土遺物も豊富である。
紀伊国
執筆者:

紀伊半島南西部にあたり,山地の大部分を占める紀伊山地は西南日本外帯に属し,河川の蛇行が激しく,谷はかなり深く浸食されているが,護摩壇(ごまだん)山(1372m)が最高峰で,標高1000mをこえる山なみは奈良県との県境域にわずかに存在する程度である。平野はきわめて乏しく,県北部に東西に広がる和歌山平野紀ノ川平野)が県下の平野面積の約5割を占める。ここが県下最大の穀倉地帯であるが,藩政時代から米の自給が困難であった。県下の農村地帯で,〈茶がゆ〉を食べる習慣は節米から生まれたとされている。標高100m以下で,しかも平たん地は県面積の8.5%にすぎない。このことは当然土地利用にも反映し,耕地率は8.4%と全国の平均値13.5%よりかなり低い。一方,林野は総面積の8割弱を占めており,藩政時代に山林は留山(とめやま)留木(留山)の制により厳しい保護が加えられていた。そのため〈紀の国は木の国である〉といわれたが,第2次大戦中の乱伐による荒廃と,その後の山村の著しい過疎化現象による林業労働力不足のため,現在では県の木材の自給率は約5割にすぎない。和歌山県では山林面積の95%が民有林で,しかもこれが少数の山林地主によって所有されていることが特色である。

 約500kmにも及ぶ長い海岸線を有し,平均気温は海岸部ほど高く,特に1月は内陸部と6℃位の差がみられる。紀伊水道に突出する日ノ御埼(日ノ岬)を境に,これ以北は沈降海岸をなすが,これ以南は隆起海岸で,海岸段丘上の無霜地帯には幹線道路の整備に伴って暖地園芸が急速に発達した。

 古くから紀州の漁民は,黒潮の流れに乗るカツオの群れを追って土佐沖から東は房総沖まで出漁し,関東漁業開発に寄与した。外海に面していながら,近代以降の漁業の発達はむしろ停滞的で,沿岸漁業の域を脱しえないものが多い。遠洋漁業の根拠地は那智勝浦町,串本町だけで,すさみ町の引縄釣りや田辺市の江川漁村の小型巻網はいずれも沿岸漁業である。日ノ御埼以北の紀伊水道での漁業はやや内海的であるが,日高町阿尾の中型巻網や有田市を中心とした小型底引網などが特徴的である。なおこれら沿岸漁民は,明治以後カナダやオーストラリアへの移民を多く送り出してきた。

紀州藩の産業政策として特筆すべきものに,〈仕入方〉と称する一種の藩専売制があった。これによって扱われた商品には湯浅のしょうゆ,粉河(こかわ)寺門前町の酢,海南市黒江の漆器などがあり,このうち黒江の漆器は,現在でも県内有数の伝統産業として重要な役割を果たしている。江戸時代には紀北の紀ノ川流域ではワタ作が盛んになり,ワタを原料とした綿織物の生産を促した。織物の中で,現在の和歌山市では幕末の紀州藩の武士の軍服に供された紋羽(もんば)織がのちに改良されて紀州ネルに発展し,また明治初年には軍靴の生産も奨励された。和歌山市を中心に行われている皮革産業は現在も在来工業の中で重要な地位を占めている。ワタ作は明治に入って急速に衰えたが,繊維工業は1980年には県の製造品出荷額の約8%を占めており,これらも江戸時代の藩の政策に由来するところが大きい。ワタ作の衰退と並んでアイの生産も衰え,大正時代には化学染料工業が立地した。現在は化学工業の製造品出荷額が総額の15%を占めるが,これはアイに代わったかつての化学染料に由来するところが大きい。またワタ作に基づく綿織物工業は織物機械工業の発達を促した。

江戸に船でミカンを運んだという紀伊国屋文左衛門の話は有名であるが,一般的に江戸時代以来の海上交通では,しょうゆ,酢などが江戸の市場に運ばれ,紀州のミカンは,大坂市場との強力な結びつきに支えられてきた。現在,有田ミカンの名で知られる県のミカンの生産量(1995)は愛媛県に次いで全国第2位であるが,過剰生産による価格の下落と輸入オレンジの自由化問題によって苦境に立たされている。1965年の紀伊半島を一周する国道42号線の整備,74年の阪和高速道路の開通によって和歌山県はいっそう京阪神との結びつきを強めた。農産物の生産額構成比も1960年には米,ミカン,野菜の順だったが,80年に野菜,ミカン,米と逆転した。

 県内の近代的大工場の大部分は県北の臨海部に立地し,阪神工業地帯の南縁部を形成する。その立地要因の一つになったものは,天然の良港である下津港で,これを背景に1938年に丸善石油(現,コスモ石油),41年に東亜燃料(現,東燃ゼネラル石油)がそれぞれ立地した。また和歌山市の紀ノ川河口北岸には1942年に住友金属,臨海部に花王石鹼(現,花王)が立地し,翌43年には三菱電機が操業を開始した。第2次大戦後,高度経済成長期には,これらの戦前から立地している大工場を軸に,工業開発の進展を図るため,海南市沖の黒江湾を中心に埋立てが進み,工場用地が造成された。1956年には富士興産,67年には住友海南鋼管,70年には関西電力火力発電所などが操業を開始して,臨海工業地帯を形成するようになった。95年の県全体の製造品出荷額は約2兆4643億円で,そのうち第1位が鉄鉱の16%,第2位が化学の15%,石油,機械がこれに続いている。

 1978年紀勢本線は新宮までの電化が完成し,大阪天王寺から阪和線を経由して新宮までが約4時間で結ばれることになった。これによって京阪神との時間距離が短縮され,大阪の経済圏に強く組み込まれることになったが,県の南部はその外縁部にあたるため,経済的発展は遅れた地域となっている。

和歌山県は,阪神との結びつきが最も強く準瀬戸内式気候の紀北と,海岸線が最も長く南国的な紀南,およびその漸移的な地域である紀中とに区分することができる。

(1)紀北 県総面積の約1/4であるが,人口は約6割を占めている。県総人口の約6割を占める県都和歌山市と海南,橋本,紀の川,岩出の4市および海草,伊都の両郡からなる。山勝ちな紀州の中にあって,ここは紀ノ川が東から西に流れて和歌山平野を形成し,その恵みに支えられて穀倉地帯としての役割を果たしてきた。1965年から95年までの30年間に県の総人口は約6万しか増加していないが,この地域は10万弱増加している。これには和歌山市から海南市にかけての臨海工業地帯の造成によること以外に,和歌山市と橋本市の京阪神のベッドタウン化による人口増加も含まれている。この地域では水田の樹園地化も著しく,かんきつ類を中心とする果実の生産額が4割以上をも占める。

(2)紀中 県総面積の3割を占めるが,人口は2割弱にすぎない。有田,御坊(ごぼう)両市と有田・日高両郡からなっている。この地域を東西に走る標高500~1000mの白馬(しらま)山脈がさらにこの地域を南北に二分する。北側は有田川流域で,この下流部が有田ミカンの産地である。第2次大戦前まではミカンのほかにジョチュウギクやケシが栽培され,現在も蚊取線香の工場が点在する。南側の日高川流域の上流部は過疎化が特に著しく,下流平野部や海岸部には暖地園芸蔬菜地帯が展開し,かんきつ類の比重はかなり低下する。さらに南側の南部(みなべ)川流域の丘陵地は梅林で覆われ,全国の梅干しの約60%を生産している。ここは紀南の田辺市の経済圏に入っている。

(3)紀南 紀伊半島の最南部で,県の総面積の45%を占めるが,人口は2割強にすぎない。中西部にあり県下第2の人口をもつ田辺市と東部の新宮市,および東牟婁(ひがしむろ)・西牟婁両郡からなっている。黒潮洗う海岸部は平地に乏しく,常緑の亜熱帯植物群落もみられる。南西部の白浜温泉,南東部の勝浦温泉は古くから県の代表的な温泉地として知られる。白浜温泉は1933年,勝浦温泉は59年に最寄りの駅まで紀勢本線が開通して以来観光客が増加した。新宮市を中心とする南東部は,現在では大阪の経済圏の外縁部にあたるが,かつての海上交通の時代には関東地方との結びつきが強かった。
執筆者:


和歌山[市] (わかやま)

和歌山県北西端,紀伊水道に臨む県庁所在都市。人口37万0364(2010)。16世紀末,豊臣秀吉が紀ノ川河口付近に築いた和歌山城の城下町が都市としての起源で,浅野氏を経て,17世紀前半に入国した徳川頼宣(よりのぶ)が城下を拡大し,以来約300年間14代にわたって栄えた。明治維新後,県庁が置かれて県の政治・経済・文化の中心地となり,1889年,県下初の市制施行都市になったが,人口は5万人余,市域面積は8.6km2にすぎなかった。1920年以降周辺町村を編入し,現在の市域は北は和泉(いずみ)山脈によって大阪府と境を接し,南は紀ノ川河口平野の大部分を占め,面積は埋立地を含めて209.2km2,人口は県全体の約4割を占めるに至った。

 近世以来明治初期まで紀ノ川流域ではワタ作が盛んで,それを背景として紋羽(もんば)織(目の粗い綿織物)が発達していた。明治初年に紋羽織が改良されて紀州ネルが生まれ,軍服用などとして需要が増大し,これが発展して1887年和歌山紡績会社が設立された。その後綿工業に関連して染料,化学工業,機械工業が立地した。伝統工業では,近世以来吉野杉の集散地であったため発達した製材,家具製造業などが現在も存続している。1942年以降,住友金属,花王石鹼,三菱電機などが軍需工業として立地したことが基礎となり,60年代以降急成長した重化学工業は,95年現在市の製造品出荷額の77%,県全体の57%を占めるほどになった。JR紀勢本線,和歌山線,阪和線の分岐点に位置し,南海電鉄各線,わかやま電鉄線が集中する和歌山市は,94年9月,関西国際空港の開港によって準臨空都市になり,国外はもとより国内各地へのアクセスも短縮された。また阪和自動車道のインターチェンジもある。なお県内では県北部,中部に及ぶ広い商圏をもっている。第2次大戦の空襲とその後の都市計画のため,城下町時代の面影は堀止付近に武家屋敷の一部が残るにすぎない。空襲で焼失した和歌山城天守閣は1958年復元され,城跡一帯は史跡に指定されている。市域南部には,西国三十三所2番札所紀三井(きみい)寺がある。
執筆者:

紀伊国の城下町。地名の初出は1585年(天正13)7月2日付けの遠藤基信宛羽柴(豊臣)秀吉書状写で,〈紀州和歌山〉に弟の秀長をおいて居城を造るという文書である。それ以後,和歌山と若山が用いられ,《紀伊続風土記》によると,元禄年中(1688-1704)に若山に統一されたというが,和歌山と書かれた場合もあった。1585年秀吉は根来寺を攻略し,雑賀(さいか)一揆の太田城を水攻めして,岡山に和歌山城を築城し,秀長に与えた。秀長は大和の郡山にいて和歌山城には城代の桑山重晴を置いた。このころの城下町は城の東部,和歌川沿いで,広瀬通町,細工町,三木町堀詰であったという。1600年(慶長5)関ヶ原の戦に功のあった浅野幸長(よしなが)が入国し,ここに紀州藩が成立した。和歌山城はしだいに整備され,少なくとも06年以前に天守閣ができていた。天守閣は1846年(弘化3)落雷で焼失し,50年(嘉永3)再建された。城の大手は浅野氏の入国ころまでは岡口であったが,和歌山城改修にあたって,一ノ橋を大手とし,本町を大手通りとしたようである。1606年美しいキリスト教の聖堂,修道士用居室,説教室など修道院に必要なすべての設備や貧しい人々を治療する病院も建設され,毎日数百人が説教を聞いた。宣教師ソテロによると,和歌山には2万人近くの人口があり,家なみは美しく,城は堅固で,あらゆる物資に恵まれていた。

 1619年(元和5)浅野氏は安芸国広島に転封となり,徳川家康の第10子頼宣が入国し,三家の雄藩として幕末に至った。浅野時代の〈御本丸〉は徳川入国後の天守閣の一郭となり,〈二の丸〉は本丸となるなど改修が加えられた。また,城下町南部の吹上に武家屋敷町,北東部,東部に北新町,新町がつくられた。城下町の町割りは基本的には大手通りに並行する〈たて町〉を中心として,〈よこ町〉がつくられた。宇治,広瀬,吹上,丸の内(三の丸)などに武家屋敷が作られた。1846年には諸士屋敷は約1200戸で,丸の内,吹上,宇治,広瀬,新堀などにあった。屋敷のない諸士約480戸は所々に散在していた。浅野氏時代の寺町(現,元寺町)を徳川氏時代には吹上に移し,商工業者は同じ業者をそれぞれ一つの町にまとめた。広瀬に東西町奉行所を置き,その下に町・湊両大年寄を置いておさめた。大年寄の下には町年寄があった。大坂街道,大和街道などの主要街道の起点は京橋とした。

 紀州藩は商品生産,流通の未発達な地域を保護・援助するために仕入方(御救仕入方)によって藩専売,流通統制を行い,和歌山に元役所を置いた。しかし経済発展にともない,1823年(文政6)の百姓一揆の要求項目の一つは仕入方反対で,数万の農民が城下におしよせた。
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