鴫山城(読み)しぎやまじょう

日本の城がわかる事典 「鴫山城」の解説

しぎやまじょう【鴫山城】

福島県南会津郡南会津町(旧田島町)にあった山城(やまじろ)。同町市街南方の愛宕山全山を城域とした城郭でたいへん保存状態がよいため、福島県の史跡に指定されている。室町時代前期にこの地域一帯を支配していた長沼氏による築城と推定されているが、築城者、築城年代とも詳しいことはわかっていない。長沼氏は黒川城(のちの若松城)の蘆名氏と戦いを繰り返し、鴫山城は蘆名氏に占領されたこともある。その後、長沼氏は勢力を盛り返したが、16世紀半ば、蘆名氏に臣従した。1589年(天正17)、蘆名義広が摺上原(すりあげはら)の戦いで伊達政宗(まさむね)に敗れ、蘆名氏が滅亡すると、鴫山城の長沼盛秀は政宗の臣下となり、1591年(天正19)、政宗が豊臣秀吉に国替えを命じられると、長沼氏も政宗に従ってこの地を去った。長沼氏に代わって鴫山城には蒲生氏郷(がもううじさと)の家臣の小倉孫作が、次いで会津が上杉氏の領国になると直江兼続(かねつぐ)の弟の大国実頼が城代として入城し、関ヶ原の戦いの後に蒲生秀行が会津領主となると、再び小倉孫作が城代をつとめた。その後、加藤嘉明が会津の領主となった1627年(寛永4)に、鴫山城は廃城となった。加藤氏が御家騒動により改易になると、徳川家光の異母弟保科正之が会津藩主となったが、その際、南会津は天領(幕府直轄領)となり、鴫山城跡には田島陣屋が置かれた。現在、愛宕山山頂のかつての本丸跡は愛宕神社の境内となっている。その北東西方にはかつての曲輪(くるわ)跡や空堀などの遺構が残っている。また、大門跡に石垣が復元されているほか、御平庭(庭園)の跡は公園となっている。1979年(昭和54)に上千畳と呼ばれる蒲生氏支配時代の遺構の発掘調査が行われ、書院建築の礎石群や庭園の遺構が発見された。ここは蒲生氏・上杉氏時代の本丸跡と推定されている。本丸跡のある愛宕山山頂までは、会津鉄道の会津田島駅から徒歩約1時間。◇南山城とも呼ばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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